top of page

 パソコンに向かっていると、居間で電話が鳴り出した。緩慢な動きで居間に向かい、電話のディスプレイを確認する。知らない番号からだった。

「はい、逢坂です」

「お、詩乃か?」

 息を飲むことさえ出来なかった。

 どうして、今。このタイミングで。

「詩乃? 久しぶり。わかるか?」

 一瞬で、唇が渇いたのが分かった。わからないわけがない。求めてやまない声。この声を、忘れたことなど無い。

「……崇、兄ちゃん…」

 やっとつぶやいた言葉は、情けないほどに震えていた。

「久しぶりだな。元気?」

 しかし崇は、そんな声には気付かない。詩乃は知っている。気付かれないことを。もう、何年も前から知っている。

「…うん。元気。そっちは」

「元気だよ。ちびの夜泣きが大変だけど、泣き声もかわいく聞こえるんだから、親バカって言われても仕方がないな」

「そう。……なんで家の電話に?」

「ああ、おばちゃんから空いてる日を教えてくれって連絡もらってたんだけど、さっきちびを風呂に入れてたら携帯水没させちゃって。電源入れるのが怖いからこっちにした」

「……そう」

 それはまた、絶妙なタイミングで水没させてくれたものだ。

「詩乃と話すのいつぶりだ? 二年以上経つよな。親経由で話は聞いてたから、あんまり久しぶりって感じはしないけど」

「そうだね」

「もう高三だよな。進学先決まった?」

「一応」

 詩乃は自分の志望大学の名前を挙げた。

「そうか。あそこか。詩乃なら大丈夫だろ。なんせおれの教え子第一号だからな」

「その節はお世話になりました」

 中学生になってから、詩乃は崇に勉強を教えてもらっていた。元々要領のよくない詩乃の成績は、中学校ではふるっていなかったのだ。それが親経由で崇に伝わって、当時学生だった彼に家庭教師をしてもらうことになった。詩乃は必死になって勉強して、美鷹学園に合格した。ただ、崇に褒めてもらいたくて。勉強を教えてもらっている間だけは、詩乃は崇を独り占めできていた。楽しい時間だった。崇は勉強の教え方がうまく、苦手だった教科の点数が上がるたびに得も言われぬうれしさが込み上げてきたものだ。

 勉強だけではなく、詩乃は崇に様々な相談もしていた。学校での友人関係、怖い教師、母親との些細な喧嘩、逆にプレゼントの内容など。崇に相談すれば解決しないことなど無いと思えるほどに、詩乃は崇に依存していた。小さな恋心を、大切に抱えていた。

 あの頃は、高校生になったら少しは近づけると信じていた。自分が成長すれば崇もきっと詩乃を見てくれると。恋愛対象として見てもらいたいというのとは少し違う。崇と対等になりたかった。相談するだけではなく、相談に乗りたかった。崇に頼られてみたかった。

だが現実は、詩乃が成長すれば崇も歳を取るだけで、距離は一向に縮まらなかった。

縮まらない、届かないと思い知ったのは、崇の入籍の話を聞いた時だ。しかも、親経由で。崇にとって詩乃は、直接報告する価値すらなかった。愕然とした、という言葉があれほど似合う日はなかった。

 崇は今、進学塾の講師をしている。評判は上々であると、やはり親戚経由で聞いた。

「合格したのは詩乃ががんばったからだよ。で、おばちゃんは?」

「残業だって。まだ病院」

「そっか。一人で大丈夫か?」

「平気だよ。いつものことだし。あたしももう、十七だし」

「そっかー。子どもが成長するのは早いなぁ」

 そう言って、声の主は笑った。

 ああ、笑っている。崇が。詩乃の言葉で。

 詩乃は目を閉じた。そうしたところで意味など無いのに、耳を受話器に押し付ける。痛くなるほどに。

「とりあえず、こっちの都合のいい日を伝えておくから、おばちゃんと相談して決めて。えーと、まず次の日曜日と」

「あ、日曜日は」

「うん? なんか用事入ってる?」

 口ぶりからして、崇はきっとまだ知らないのだろう。母親が求婚されていることを。知っていれば、必ず話題にするはずだ。ならば、詩乃から言い出すことではない。

「ごめん、ちょっと…」

「わかった。なら…」

 崇は、いくつかの候補日を挙げた。電話台に常備してあるメモに、それらを記していく。

「…わかった。お母さんに伝えておくね」

「よろしく」

「うん。じゃあ…」

「待て。お前、最近は困ってることとかないのか? おれ詩乃の連絡先知らないから、親経由でしか聞いてないんだよ。受験も近いし、なんか相談事があるなら、昔みたいに」

「大丈夫」

 ほとんど強引に、詩乃は言葉を遮った。

「あたしは大丈夫だよ。受験もがんばる。合格を祈っててね」

「そりゃもちろん祈るし、必要なら教えもするけど…」

「うん、困ったときは頼るよ」

 棒読みに近い。けれど崇はそれ以上食い下がってこようとはしなかった。

「詩乃。一人でもちゃんとメシは食えよ。戸締りはしっかりな。うちの番号、表示されてるんだろ? なんかあったらかけてこいよ。おれの携帯が復活したら連絡先教えてくれ」

「うん。…大丈夫だよ。ありがと」

 崇からの挨拶を聞いてから、通話終了ボタンを押した。

 受話器を置いて、がっくりとうなだれる。崇はああ言ったが、食事がのどを通るとはとても思えなかった。

 ふらふらと部屋に戻って、喉飴を舐める。つけっぱなしにしていたパソコンの前で、詩乃は冷めた目をしていた。

“ワタシハ元気デス”

見抜かれないのは、嘘が上手だからではなくて。

決して、そうではなくて。

 

そんなことがわかってしまう自分に、

“大丈夫”

何度も何度も嘘をつく。

 

大丈夫。

それが嘘だと知っているのは、あたししかいないから。

 ふて寝と言われればそれまでだが、パソコンの電源と部屋の照明を落とし、ベッドに潜り込んだ。眠気は無い。眠れる気もしない。それでも、部屋を暗くしてベッドの中で目を閉じた。

 詩乃。

 あの人が、また詩乃を呼んだ。あの声で、詩乃の名前を紡いだ。

 その事実がうれしいのに、なぜか涙が溢れてきた。口の中で小さくなった喉飴が、涙の味に変わる。

 苦しかった。

 

 助けてほしけりゃそう言え。

 西園寺の言葉は覚えている。うれしくなかったわけではない。けれど。

 だけど、先生。

 何から助けてほしいのか、わからないんだよ。

bottom of page