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「逢坂先輩」

 詩乃が声をかけられたのは、帰り支度をして靴箱に向かう途中だった。麻里とともに振り返ると、目を吊り上げた甲斐田が立っていた。双子は塾なので先に帰っている。

「ちょっと話があるんですけど」

「うん、何?」

 応じる詩乃にではなく、甲斐田は麻里に頭を下げた。

「すみません、失礼は承知なのですが、逢坂先輩と二人で話がしたいので席を外していただけませんか」

「あたしがいちゃ出来ない話?」

「いえ。誰に聞かれても構いません。けど、口を出してほしくはないとは思っています」

「うわ、正直」

 おどけて見せてから、麻里は気を悪くした風でもなくぽんと詩乃の肩に手を置いた。

「後輩にこうまで頼まれたんじゃ、聞いてあげないのは野暮でしょ。ま、がんばって。甲斐田さんも、またね」

 軽く手を振って、麻里は靴を履き替えて帰っていった。後に残されて、詩乃は甲斐田を見上げた。後輩の彼女は詩乃よりも背が高いのだ。詩乃が低いわけではなく、甲斐田が平均よりもだいぶ高い。二年生女子の中では後ろから数えたほうが早いほどに。

 ここじゃなんですから、と連れていかれたのは学校の中庭だった。閉門時間も近い今、普段の喧騒は聞こえてこない。

 詩乃は口を利かずに甲斐田の言葉を待っている。何を言われるのかは疑問だが、別段不安は感じていなかった。甲斐田はまさか、いきなり殴りかかってきたりはしないだろう。

「先輩。さっきの、先輩の案」

「荒木さんの顔写真のこと?」

「はい」

 甲斐田は強くうなずいて、まっすぐと睨み付けるように詩乃を見た。

「私では思いつきませんでした。すごく、良い案だと思いました」

「それは、ありがとう」

 どう好意的に見ても、褒めているような顔つきではないが。

「でも」

 叫ぶように言われ、詩乃は軽く肩を竦める。

「どうして最初からそんな考えがあるって教えてくれなかったんですか」

 一拍置いてから、詩乃は答えた。

「生徒会としての意見を、あたしたち三年生だけが決めるわけにはいかないでしょ。なんの為に二年生がいるのかってことになっちゃう」

「三年生の意見とは言っても、実際には逢坂先輩の案ですよね? なら先輩が発言したら良かったんじゃないですか」

「言い出したのはあたしだけど、三年生四人の総意だよ。それに、あたしは書記だし」

「書記にも発言権はあります。ちゃんと良い意見があるのにずっと黙って…。二年生を試していたんですか?」

「そんなつもりはないよ。ただ、もっと良い意見が出るならそれでいいかと思って」

「それって結局は試したってことじゃないですか。先輩はそうやっておとなしそうなふりして二年生を馬鹿にしていました! 大体、自分よりも良い意見が出るならって言いましたけど、そんな風に言っている時点でかなり上から目線です。試しながら黙ってたなんて性質が悪すぎます!」

「甲斐田さん、あたしは」

「大体、最初から先輩があの提案をしてくれていたら、私だって」

「自分の失言を他人のせいにするな」

 突然頭上から声が降ってきて、詩乃と甲斐田は同時に顔を上げた。

 西園寺が、二階の窓に肘をついてこちらを見下ろしていた。

「先生…」

 そういえば、中庭は国語科準備室の窓に面している。思い当たって、詩乃は納得した。

 西園寺は詩乃の方は見ず、生徒会室にいたときよりも厳しい目で甲斐田を見つめている。

「君は今、何を言おうとしていた?」

 距離があるためだろう、西園寺の声は授業のときよりも大きく響いている。

「「私だって」の次だ。大方、「データベースのことは口にしなかったのに」か?」

 甲斐田は黙った。図星なのだろう。そんな甲斐田に、西園寺は厳しい顔を崩さない。

「口を滑らせたのは君だろう。逢坂のせいにするんじゃない」

「で、でも、時間が無駄になりました!」

「逢坂が最初から提案していたら、君は絶対にデータベースのことを持ち出さなかったのか? 荒木の写真を人数分コピーするよりも効率的だと言わなかったと誓えるのか?」

 甲斐田は、顔を真っ赤にして一瞬泣きそうな顔を見せた。それでも、気丈に西園寺を睨み上げる。

「私の失言は認めます。本当に申し訳ありませんでした。今後このことが拡散したら間違いなく私の責任です。処分があるならちゃんと受けます。でも、それでも私、自分の考えが間違っているとは思えません。三年生の総意というなら、斎川先輩も、最初に「こういう意見もあるけど二年生はどう思うか」って聞いてくれれば良かったんです」

「成程。ではなぜここに斎川がいないんだ? 逢坂と一緒じゃなかったのか」

「私は逢坂先輩と話したかったんです」

 西園寺を睨み上げていた視線を、甲斐田はそのまま詩乃に合わせた。

「自分はずっと黙って斎川先輩にだけ発言させるなんて、ずるいんじゃないですか」

 ああ、と詩乃は思った。

 口に出しても出さなくても、あたしの意見はこうなるのか。

 ならば――詩乃の思考になんの意味があるというのだろう。

 詩乃は口元を緩めた。

「甲斐田さんは、立派だね」

「は?」

「さっき、あの提案は自分では思いつかなかったと言ったでしょ。今も、自分の責任をちゃんと認識して処分も受けるって。この状態で素直に謝るなんて、中々出来ないかなって」

「誰もそんな話はしていません!」

「うん。でもね、そうやって先輩や先生に自分の意見をまっすぐ言えるところは、本当に立派だと思う。……自分の意見をはっきり伝えるって、すごく怖いのにね。あたし、試すつもりなんて本当に無かったけど、それはあたしが認識してなかっただけで、結果だけを見れば試していたのかも。……ごめんね」

 自分よりも背の高い後輩を、詩乃は覗き込むように見上げる。後輩は、必死の形相で唇を噛んでいた。

「…ご理解いただけたなら結構です」

 そう言って、甲斐田は中庭から駆け出して行った。まっすぐ昇降口へと向かっている。

 息をついてから、詩乃は再び頭上を仰いだ。目を見張るような二枚目ではないにしろ、整った端正な顔が詩乃を見下ろしている。

「…泣かせてしまいました」

「青春だな」

「先生、また禁煙パイプですか」

「まあな」

 あっさりと認めて、西園寺は窓の下に隠していた右手を掲げた。小さな灯りがある。

「先生…」

「話があるなら上がって来なさい。君も、大きな声で話したくないだろう」

「いえ、あたしは話なんて」

「じゃあ俺から話があるので上がってきてくれ。大きな声で話したくない」

 その言葉が、西園寺の優しさであることは解っていた。

 だから、詩乃は首を横に振った。

「帰ります。閉門時間が近いですし、あんまり遅くなると母が心配するので」

 声が小さくなっていく。教師はやや間を置いてから「そうか」と答えた。

「気を付けて帰りなさい。自転車の点灯は早めにな」

「…はい」

 最後まで西園寺から目を逸らさなかったのは、強い意志からではない。ただ、うつむいたら涙が落ちそうだったからだ。

「先生、さようなら」

「はい、さようなら」

 上を向けていた顔を戻して、詩乃は歩き出した。走らなかった。逃げていることを、見透かされないように。

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