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 どんよりとした空気の中を一人で帰った。家に着いたら、目はからからに乾いていた。自転車を走らせたので、風に乗って消えていったのかもしれない。マンションの部屋には灯りが点いていた。

 一度うつむいて、自分の家だというのに小さく深呼吸してからドアノブに手をかける。

「お母さん、ただいま」

 良かった、声が上ずったりはしていない。しかし中から返答はない。鍵は開いていたし靴もあるから母親はいるはずだが。

「お母さん?」

 呼びかけると、和室のほうから母親が顔を覗かせた。まだ仕事着で、耳に電話を当てている。話し中で返事が出来なかっただけらしい。それならばと着替えに部屋に行こうとしたら、急に母親の声が高くなった。

「ええ、ちょうど詩乃も帰って来た。話す?」

 電話の相手は詩乃も知っている相手らしい。一瞬考えて、詩乃は身体を硬直させた。

直感というしかない。相手は、きっと崇だ。

 動けないでいる詩乃に、母親は案の定「崇くんよ」と言った。

「いいよ。あたし、昨日話したから」

「そう?」

「…着替えてくる。崇兄ちゃんによろしく」

 言って、逃げるように自室へ向かった。母親は、特に気にしなかったようだ。

 詩乃はほとんど無意識にパソコンの電源を点けた。部屋着に着替えている間に起動した画面を、慣れた手つきで操作していく。

 目は、乾いている。異様なほど、乾いている。

探し物

 

ねえ涙。ワタシの涙。

どこへいったの?

「詩乃」

 さらに書き込もうとしたところで、母親から声がかかった。

「着替えた? お父さんにお参りして、ご飯にしましょ。手伝って」

「……はい」

 パソコンをスリープの状態にして立ち上がった。

 

 母親からの話題は、やはり崇のことについてだった。

「お祝いを持っていく日付の相談をしていたの」

 母親はフライパンを忙しなく動かしている。今日は豚肉入りの野菜炒めと春雨の酢の物、それにあさりの味噌汁だ。

 二人分の食器を棚から出しながら、詩乃は平静を装って返事をした。

「うん。いつになった?」

「それがね。やっぱり今度の日曜日にしましょうかってことになって」

「え、でも」

「ええ。だからね、食事会を土曜日にしてもらって、日曜日に崇くんのとこに行こうかと思って。義彦さんにはもう了承を取ってあるの。詩乃は土曜日でも平気でしょ?」

 受験生である詩乃に、本来土曜日や日曜日は関係ない。勉強するだけだ。

「それにほら、土曜日と日曜日にしておけば、崇くんにもいろいろ報告出来そうだし」

「…報告、ね…」

 どんな報告をするつもりなのか、聞かなくても分かる。母親の中ではもう決まっているのだ。プロポーズの返事も、詩乃の答えも、何もかも。

 ああ、本当に。

 詩乃の思考には意味が無い。

「詩乃?」

 うつむいて、唇をきゅっと結んだ。頬の内側を噛むように、声を絞り出す。

「ちょっと…。ごめん。なんか、吐き気がする」

 ぐらぐらする。喉の奥がつんとする。こんなにも目は乾いているのに。

「あら、大丈夫? 吐き気止め持ってくるから座ってなさい。食欲はある? あなたの分だけお粥にしましょうか?」

 フライパンをあおる手を止めて、母親が心配そうに顔を覗き込んできた。目を見つめ返すことが出来なくて、詩乃はさらにうつむいて首を振った。

「ううん、大丈夫。食欲無いから、薬飲んで今日は寝るね」

「吐き気があるなら水分を取らなきゃ駄目よ。風邪かしら。葛根湯があったはずよね」

 言いながら、母親は備え付けの薬箱をあさる。

「お母さん」

「ん? 吐きそうならお手洗いに…あ、背中さすろうか?」

 詩乃はもう一度、ゆるゆると首を振った。

 こうやって、詩乃が少し気分が悪いと言っただけで甲斐甲斐しく世話をしてくれる母親が、もうすぐ詩乃だけのものではなくなってしまう。

 それでもどうして、詩乃の目は乾いたままなのだろう。

『かわいそう』

思い込んで相手に通知することは、誰かを救う術じゃない。

『立ち向かえ』

誰かを嗾(けしか)けることは、自身が戦うことじゃない。

 

気がついて欲しいのに。

ああ、けれど。

気が付いたからどうだというのだろう。

きっと、何も変わらない。

イタイ   

振り払われた手が。

振り払った手が。

射抜かれた視線が。

信じぬけなかった瞳が。

投げられた言葉が。

放り投げた想いが。

届かなかった思いが。

忘れられた約束が。

 

今も、イタイ。一緒にイタイ。

痛い。居たい。思考の遺体。イタイ。

あの時。

小さく笑ったつもりだったのに、顔が歪んだだけだった。

 一度はベッドに入ったものの、眠れそうにはなかった。眠れないときにパソコンの画面を見たらもっと眠れなくなるのは解っている。けれど詩乃は、パソコンに向かっていた。

 時刻は丑三つ時。母親は、何度か様子を見に来てくれたがもう寝ている。時間的には当然だ。最後に様子を見に来てくれた時、詩乃は寝たふりをしてやり過ごした。

欲しいものは無いけれど。

願うことなら一つある。

 

眠りにつくまでそばにいて。眠りが覚めてもここにいて。

 ふと、コメントに新着があることに気が付いた。クリックすると、いつものたけうまだ。コメントが届いた時刻は一時間ほど前。詩乃が寝たふりをしていたころだ。

マリさんへ

こんばんは。今日は饒舌ですね。何かありましたか?

あなたは歌うように詞を紡ぎますね。その言葉の選択はとても心地いいですが、内容的にはつらいことがあったのではないかと心配です。

事情はわかりませんし余計なお世話かもしれませんが、あなたの痛みが取れることを願っています。

たけうまさんへ

心配してくださってありがとうございます。

今日はちょっと調子が悪くて、いつも以上に暗い内容になってしまいました。ごめんなさい。

 遅い時刻だというのに、すぐに返信があった。向こうは社会人ということなので、まだ起きていても大丈夫ということだろうか。

マリさんへ

学生さんがこんな時間に起きているということはとりあえず置いておきましょう。

それで、何を謝っているのでしょうか?

繰り返しますが、あなたの言葉遣いはとても心地いいものです。心配は私が勝手にしていることですよ。謝られる筋はありません。

調子が悪いということは体調を崩しておられるのでしょうか。暖かくして早く休んでください。

たけうまさんへ

ありがとうございます。まるで、先生みたいですね。学校の先生を思い出しました。先生も友人も、たけうまさんもこうやって心配してくださるのだから、早く元気にならなければ。

マリさんへ

あなたは気遣い屋さんですね。そうやって他人にばかり遣っている気を、少し自分に回してみてみませんか?

そう難しいことではありません。例えば、好きなものを好きなだけ食べてみる。好きな服を着る。学校帰りに寄り道してみる。参考書のついでに漫画を買う。少しだけでも、きっと呼吸が楽になります。

とりあえず、明日は(日付的には今日ですが)少し寝坊してみてはいかがですか。

前にも言ったようにホットミルクでも飲んで、ゆっくり眠ってください。いい夢を。おやすみなさい。

ありがとうございます。たけうまさんも、いい夢を見られますように。

おやすみなさい。

 パソコンの電源を落とした。

 牛乳はそれほど飲みたいとも思わなかった為、そのままベッドに潜り込んだ。

 そうして、落ち着いている自分に気が付いた。

「たけうまさん…」

 誰なのだろう。どんな人なのだろう。どこの人だろう。性別はどちらだろう。コメントでは学校の先生のような言葉をくれるが、仕事は何をしているのだろう。

 今まであまり考えたこともなかったのに、無性に気になり始めていた。

 詩乃が今置かれている状況を聞いたら、たけうまならどんな反応をするだろう。母親のこと、生徒会のこと、砕け散った初恋のこと。何もかも聞いてもらいたい。どうすればいいのか相談したい。

……会ってみたい。

 彼もしくは彼女は、もしかしたら、西園寺に似ているかもしれない。西園寺も、たけうまのように詩乃を気にかけてくれている。そうだ、今日だって助けてくれたではないか。あのとき声をかけてくれなかったら、あの場で泣いていたのはきっと詩乃だった。

 明日、学校で会ったらお礼を言おう。

 そんな風に思いながら、目を閉じた。

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