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「詩乃、本当に大丈夫? きついなら学校休んでもいいのよ」

「ううん、大丈夫。昨日よりはだいぶ楽」

 朝である。

 寝坊をしてもいいとたけうまは言ったけれど、詩乃はいつも通りの時間に起きた。受験生なのでそう簡単に遅刻や欠席は出来ないし、本当に身体はずいぶんと楽になっている。

「お父さん、行ってくるね」

 いつも通りに挨拶をして、マンションの自転車置き場に向かった。

 愛車を漕ぎだすと、風が気持ちよかった。こんなに晴れているのだから、今日の帰りはたけうまの助言に従って、寄り道してみようか。そんなことを考えながら学校へ向かった。

 校門をくぐってからは、自転車には乗ってはいけないと校則で決まっている。歩きの生徒もたくさんいるので、事故を防ぐためだ。

「詩乃、おはよー」

 自転車から降りてすぐ、後ろから声がかかった。振り返ると同じく自転車を押し始めている麻里の姿があった。

「おはよ」

 麻里が追いつくのを待って、二人並んで歩き出す。正門から昇降口までは坂道を登っていく形だ。

「昨日、大丈夫だった? 甲斐田さん」

「あー…。うん、まあ…」

「あんまり大丈夫じゃなさそうね。昼休みにでも話そうか」

「うん」

 昇降口をいったん通り過ぎて、校舎裏にある自転車置き場へと向かう。それぞれ決められた場所に愛車を置いて、来た道を戻って昇降口へと向かう。靴を履き替えながら、麻里はそういえばと切り出した。

「あたしさぁ、昨日はちょっと意外だったんだよね」

「何が?」

「西園寺だよ。まさかあそこで口を出してくるとは思わなかった」

「ああ…」

「やっぱり、教師としてはあれの存在を知られちゃまずかったんだろうね」

 麻里の言葉に、詩乃は立ち止まった。

「どうかした?」

「あ、ううん…」

 少しだけ、本当に少しだけだが、詩乃はがっかりしている自分に気が付いた。確かに麻里の言う通り、西園寺はデータベースの存在を流出させないために口を出してきたのだろう。それはただ、教師としての立場からで、詩乃を助けるためではなかった。

 甲斐田に呼び出された中庭で割り込んできたのも、きっと同じ理由だ。あの場にいたのが詩乃ではなくても、西園寺はきっと同じことをした。当然だ。彼は教師なのだから。

 そう、あの場にいたのが詩乃ではなくても。

「詩乃、行こう。遅刻するよ」

「うん…」

 力なく答えて、二人は教室へと向かった。

 

 西園寺は、詩乃たちの担任教師である。従って、朝のホームルームには必ず教室にやってくる。当然、詩乃は西園寺の顔を朝から見ることになった。

 日直の号令に従って起立し、礼をし、着席する。いつも通りの朝だ。出欠確認の後、連絡事項を西園寺が伝え、質問は無いかと確認される。特に挙手は無く、ホームルームは平和に過ぎていった。西園寺と、目は合わなかった。詩乃が目を伏せていたからである。

 西園寺が教室から出ていってから、詩乃は長く細い息をついた。麻里が振り返る。

「どうしたの。気分悪いの?」

「ううん、そういうわけじゃないよ。平気」

「昨日、甲斐田さんになんかきついこと言われたんじゃないの?」

「うん…。でも、そういうことでもなくて」

 言葉を探していると、麻里が「しまった」と声をあげた。

「もうしつこく聞かないって決めたのに、また聞いちゃった。ごめん」

「え、麻里が謝ることなんて何もないよ。あたしが…。あたし、が。ええと…」

 ぽんぽんと、麻里に頭を叩かれた。

「大丈夫。うまいこと言おうなんて考えなくていいよ。むしろ単語のみでもどんと来なさい。この麻里さまがちゃんと翻訳してあげるから」

 にっこりと笑う親友に、詩乃はそれでも言葉を探した。やがて口を開いた。

「……あたし…」

「うん?」

「あたし、下手、言葉」

「誰が片言で話せと言いましたか」

 麻里が言って、二人で吹き出した。

「あのね。いつか、話せるといいなって、本当に、そう思う」

 つぶやくように言うと、麻里が笑った。明るくて活発な、いつもの笑顔だ。その笑顔に安心していると、教室に来訪者があった。振り返っている形の麻里は気付いていないが、詩乃は前を向いているのですぐに気が付いた。

「斎川先輩」

 甲斐田が、教室の扉近くで麻里を呼んでいる。

 朝のホームルームが終わった直後。そうではなくとも三年生の教室に後輩が来れば目立つ。甲斐田は背が高いのでなおさらだ。

「甲斐田さん。何、どうしたの」

 言いながら、麻里は席を立つ。詩乃は見送るしかなかったが、甲斐田と目が合った瞬間にきつく睨まれた。

 二言三言話して、甲斐田はぺこりと頭を下げて去っていった。程なく麻里も帰ってくる。

「…甲斐田さん、なんだって?」

「なんか、話したいことがあるから昼休みに時間をくれって。あたしの連絡先知らないから教室まで来たんだって。昼休みになってから来たんじゃ捕まらないかもしれないから朝のうちに。あと二分くらいで一時間目始まるのに、あの子行動力あるね」

 詩乃には、曖昧にうなずくことしか出来ない。彼女が泣きそうだったことを麻里に話すのは、後輩に悪い気がした。きっと、知られたくないだろう。

「だから、ごめん。今日のお昼は一緒に食べられない。食べながら話そうってことになったから」

「うん。大丈夫。行ってきてあげて」

 詩乃が答えたところでチャイムが鳴った。ほぼ同時に一時間目の英語担当、高砂が入ってくる。

「ハロー、エブリバデー。アイムユーアーサンシャイーン」

 到底英語教師とは思えない挨拶をしながら教壇に立つと、教室中から笑いが起こった。こうやって、この女教師は生徒の意識を自分に向けさせるのだ。いいなぁと、純粋に思う。

受験生の教室は、もっと空気が張りつめているべきなのかもしれない。それでも詩乃は、この空気を作り出す高砂を良い教師だと思うのだ。

 授業は滞りなく進んでいく。詩乃の英語に対する苦手意識は、高砂が担当になってからはだいぶ小さくなっていた。

 やがて一時間目も残るところ五分というところになって、高砂は宿題を出した。内容は、次回の授業までに英作文を作ってくること。

「お題は、自分が小さいころに夢中になっていた遊び」

「遊び?」

「そう。種類はなんでもいいわ。とにかく、その遊びをしたいがためにほかの勉強やお手伝いをがんばったというほど夢中になった遊びを英作文で書いてくること」

 教室内が軽くざわつく。みんな、幼いころの遊びを思い出しているのだろう。

 詩乃は、黙ってノートに宿題の内容を書いた。自分は、どんな遊びに夢中になっていただろう。友達が多いほうではなかったとはいえ、それなりにゴム飛びやケイドロで走り回っていたと記憶している。

 そんなことをぼんやり考えていると、とある女子生徒が手を挙げた。

「ちなみに、先生はどんな遊びに夢中になってたんですか?」

「あたし? たけうま」

「え!?」

 突然大きな声を出して腰を浮かしかけた詩乃に、高砂はもちろん教室内の誰もが驚いた。注目されて、詩乃は思わず赤面する。浮かしかけた腰を、椅子に落ち着けた。

「逢坂さん、どうかした?」

「あ、いえ、えーと…。すみません…」

「謝らなくてもいいけど。何、そんなに意外だった?」

「い、いえ…。ちょっとだけ」

「先生、竹馬上手なんですか?」

 明るく口を挟んできた麻里は、きっと詩乃を庇ってのことだろう。高砂はすぐに意識を詩乃から麻里に移動させた。

「上手だったのよー。これでも昔は「竹馬のあっちゃん」と呼ばれたかったほどに」

「ただの願望じゃないですか」

「仕方ないでしょ、ほかにもうまいやつがいたのよ。うちのじーちゃんがね、地域の子どもたちに昔の遊びを教えるボランティアをしていたの。で、竹馬やら竹とんぼやらベーゴマやら教えてくれて。一番夢中になったのが竹馬でね。なんか運命も感じたし」

「運命?」

「ほら、あたしの名前。竹冠に馬で篤子でしょ。これはもう、竹馬を極めるしかないかなと。あだ名もたけうまだったし」

「あだ名が…」

 呆然と、詩乃はつぶやいた。

 たけうまさん。

 まるで学校の先生のようだと思ったのは、つい八時間ほど前。こんな偶然が、あるものだろうか。ないとは言い切れない。「篤」という字が名前に付く人は日本国内にかなりの数いるだろうし、それであだ名が「たけうま」になる人だって詩乃には予測がつかないほどいるはず。

 けれど、心臓が鳴る。

「でもさ、せっかく極めようとがんばったのに、どうしても勝てない相手が一人いたの。勉強もかけっこも給食を食べる速度もあたしのほうが勝っていたのに、竹馬だけ勝てなくて。なのにお前は篤子だからたけうまってあだ名は譲ってやるよとか言われて。あれは悔しかったわね。今でも会うたびにどつくくらい」

「どついてるんですか」

「たまにね。三つ子の魂百までと言うでしょ」

「竹馬一つで百までどつくつもりですか」

 まだ話は続いていたが、詩乃は自分の心臓の音がうるさくてろくに聞いていなかった。

 たけうまさん。

 詩乃が今置かれている状況を、たけうまになら話せるような気がしていた。たけうまなら聞いてくれると思っていた。話したいと思っていた。会ってみたいと願っていた。

 確かめるべきだろうか。しかし詩乃は、聞いてもらいたいと願う一方で、ネット上でつぶやいていることを知り合いには絶対に知られたくないとも思っている。恥ずかしいのではない。その気持ちが無いとは言わないが、それよりもあんなに暗い文面を書いていることが、後ろめたいからだ。仮に高砂がたけうま本人だとしたら、自分の生徒があんな文面を書いていることを心配するだろう。この世から逃げ出したいという内容の詞を書いたことだって、両手の指では数えきれない。何より、下手したら母親にも知られるかもしれない。それだけは避けたい。あのウェブ日記は、詩乃が唯一本音だけでいられる居場所なのだ。

 

 ――ああ、まただ。

 また、詩乃は黙るしかない。

 

 治まっていたはずのめまいと吐き気が、また詩乃を襲っているような気がした。

 たけうまに会ってみたいなどと、どうして思ってしまったのだろう。ネット上のつながりだけだからこそ、良い関係でいられたはずなのに。

 どうしよう。確かめたい。けれど知られたくない。

 聞いてもらいたい。けれどやはり、知られたくない。

 たけうまに泣きついてすべてを吐露してしまいたい。

 けれど、けれど。

「詩乃、起立」

 麻里の言葉に、びくりと肩を震わせた。顔を上げれば、麻里が心配そうな顔で詩乃を覗き込んでいた。

「ちょっと詩乃、大丈夫? 顔色が…」

 気が付けばチャイムは鳴り終わり、生徒はみんな起立している。慌てて詩乃も起立した。

 そうしてそのまま、身体がぐらりと傾いた。

「詩乃!」

 悲鳴のような麻里の声が、遠くに聞こえた。

茨の道

 

ワタシを愛さないアナタなら

どうぞこの世から消え失せて?

 目の前で、母親が泣いている。

 お母さん、泣かないで。

 そう言っているのに、何度も言っているのに泣いている。

 お母さん。どうして詩乃を見てくれないの?

 詩乃、いい子にしてるのに。

 お母さんの為に、いい子にしてるのに。

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