「…おか…さ…」
ぼんやりと目を開けると、まず目に入ったのは白い壁だった。が、それはよく見ると壁ではなく天井だった。どうやら寝かされているらしい、と思い当たった。
「気が付いたか、逢坂」
緩慢な動作で声がした方へ首を傾けると、西園寺がいた。ベッドの横のパイプ椅子に、長い脚を組んで座っている。
「…先生…」
「一時間目の終わりに倒れたんだ。覚えてるか?」
覚えている。ひどいめまいと吐き気に襲われたのだ。
「すみません…」
「何を謝る」
「あたし、また、ご迷惑を」
言っている途中で、西園寺は大きなため息をついた。呆れられたのだと思い、詩乃はぎゅっと肩を竦ませて目を閉じた。
どうしてこう、詩乃の言葉も行動も、他人の迷惑にしかならないのだろう。
決して、他人に迷惑をかけたいわけではないのに。そんなこと、一度だって望んだことはないのに。
「申し訳ありません…」
消え入りそうな声でそう言ったら、くしゃりと頭を撫でられる感触がした。
恐る恐る目を開けると、いつもの淡白な顔で、西園寺が詩乃の頭に手を伸ばしていた。
「先生?」
「教師には生きにくい時代でな。ちょっと女子生徒に触ろうもんなら四方八方から叩かれるんだが…。ま、いいだろ」
言いながら、詩乃の頭を撫でる手を止めない。少し居心地が悪くなってきた。
「あの、先生…」
「お前、セクハラとか言い出さないでくれよ。俺は失職したくない」
「言いませんけど」
お前、と呼ばれたことに驚いた。この教師はいつもどこか一線引いていて、詩乃が知る限り生徒をそんな風に呼んだことは無い。食堂で高砂をお前と呼んでいた時に驚いた程だ。
撫でる手を止める様子は無かったので、詩乃はそのまま質問した。
「ここ、保健室ですか。今、何時ですか?」
「そう、保健室。まだそんなに時間は経っていない。二時間目が始まったばかりだよ。さっきまで斎川がついてたんだけどな。授業が始まったから戻らせた」
「どうして西園寺先生が。林田先生は?」
当然ここにいるべき保健教諭の姿が見当たらない。
「担任の俺がくるのは当然だろう。林田先生は、朝から体育で怪我した生徒を連れて病院へ行っている。そっちは脱臼だそうだ」
「そう、ですか…」
「お前も病院へ行くぞ。今、高砂がお前のお母さんに連絡を取っているから」
瞬間的に、詩乃はがばりと上半身を起こした。驚いた顔で、西園寺が頭を撫でていた手を止める。構っていられなかった。起き上がった詩乃は、目の前が真っ暗になってすぐにまた身体が傾く。すかさず、西園寺が支えてくれた。
「何してるんだ」
「やめてください!」
「あ、悪い。やっぱりセクハラか」
「違います、お母さんに連絡しないでください!」
力が入らない両手で、必死に西園寺の腕を掴む。
「高砂先生を止めてください、早く!」
「わかった」
西園寺は、詩乃の震える手をぽんぽんと叩いた。
「今から止めてくるから、落ち着きなさい」
そう言って、西園寺は立ち上がった。
「横になっていなさい。まだ、起き上がれる状態じゃない」
そんな言葉は聞いていられなかった。詩乃は夢中だった。
「急いでください。お願いします…!」
「ああ」
短く答えて、西園寺は保健室から出ていった。
詩乃は、口元で両手を握り合わせた。間に合うだろうか。間に合ってほしい。そうじゃないと困る。
看護師である詩乃の母親の職場には、伊藤義彦がいるのだ。母親に求婚している医者が。
母親は、詩乃が倒れたと聞いたら必ず受診をさせるだろう。自分が結婚しようと思っている、信用できる内科医に。
いやだ。絶対にいやだ。会いたくない。
握り合わせた両手と口元が震えだす。
間に合って。お願いだから。
しかし、願いは通じなかった。
再び保健室に、今度は高砂と入ってきた西園寺は、申し訳なさそうに切り出した。
「すまない。間に合わなかった。仕事を抜けて、すぐに迎えに来るそうだ。……そのまま受診させると言っていた」
別の意味でめまいがした。がくんとうなだれて、西園寺に返事をすることも出来ない。
「ねえ、逢坂さん」
気遣わしそうに声をかけてきたのは高砂だ。
「何か辛いことがあるんでしょ? 倒れるほど辛いなら、話すだけでも話してみない?」
「………いえ…」
かろうじて、そう答えるのが精一杯だ。しかし、次の言葉には反応せざるを得なかった。
「斎川さんもすごく心配してたし、落ち込んでたのよ」
「…落ち込んで…?」
「自分は、そんなに頼りにならないのかって。あの子、本当に逢坂さんが大好きみたい」
麻里が。
それはきっと、とても喜ばしいことなのだろう。感謝すべきことなのだろう。わかっている。わかってはいるけれど。
「あたしの、問題ですから」
「でもあなた受験生でしょ。負担は少ないほうがいいと思うの」
「麻里も受験生です」
「なら、誰か大人に助けを求めなさい。先生じゃなくてもいい。誰か、信用できる大人に」
大人に?
詩乃は大きくかぶりを振った。
「逢坂さん」
「話して何になるんですか…」
「え?」
「話して何になるんですか? 何か状況が変わるんですか? お母さんのことも崇兄ちゃんのことも誰にも関係ないし、そもそも大人が引き起こした事態じゃないですか!」
そうだ。詩乃はやっと思い当たった。
母親が、いや、伊藤義彦が結婚なんて言い始めた。そうなったのはお父さんが勝手に死んでしまったから。
崇は詩乃を子ども扱いしかしなかった。それは彼が勝手に先に産まれたから。
甲斐田には責められた。元を正せばデータベースの存在について、聞いてもいないのに口を滑らせた教師がいたからだ。
「全部大人のせいじゃないですか! 勝手に原因を作っておいてこっちが苦しんだら頼れって、そんなのおかしくないですか!?」
「そうね、その通りだわ。ごめんなさい」
「先生に謝ってもらっても意味なんかありません!」
「逢坂さん、落ち着いて。大人が信用できないなら、やっぱり友達に…」
「麻里には関係ありません。話したところで麻里に何が出来るって言うんですか!!」
扉の向こうでどさりと音がした。いち早く動いたのは西園寺で、扉を開けると麻里が立っていた。詩乃の息が止まる。
「ま、り…」
「あ、ごめん…。詩乃がこのまま病院へ行くなら、財布とか必要かと思って、鞄…」
音を立てて落としたのは、詩乃の鞄らしい。麻里の足元に詩乃の鞄が横たわっている。
「麻里、あの」
「いや、うん。解ってる。まあ、ほら、確かに詩乃のおうちのことはあたしには何も出来ないし。悪気があったんじゃないよね。それも解ってる」
麻里は、ふらふらと保健室に入ってきた。
「でも、でもさ、詩乃」
まっすぐに、詩乃を見つめる。そこにいつもの明るくて楽しそうな表情は無い。
「じゃあ、詩乃は独りで何が出来るの?」
答えられなかった。
「あたし、授業があるから。詩乃、お大事にね」
言いおいて、麻里は一度も振り向かずに出ていった。落とした詩乃の鞄はそのままに。
――ああ、もう、駄目だ。
目の前が暗い。暗くて重くて、どっちが上なのかもわからない。どこを向いているのかもわからない。あの鞄と同じように、独りでは身動き一つとれずにうつむくだけ。
「逢坂さん」
高砂が、優しい声で話しかけてくる。しかしその声は、とても遠い。
「逢坂さん、聞いて。大丈夫。人と人との関係は、修復出来るものよ。大人として、罪滅ぼしにもならないかもしれないけど、先生が間に入ってあげるから」
「高砂、それは今はいいだろう。――逢坂、準備しろ。病院へ行くぞ」
「…え…?」
「こうしてる間にもお母さんはこっちに向かっている。そんなに会いたくないなら会わなくていい。病状が心配だから先に病院へ連れていったということにする。もちろん、伊藤内科以外へ。お母さんにはそっちの病院へ追いかけてきてもらう。責められたら俺が謝る」
その提案に詩乃は顔を上げたが、異を唱えたのは高砂だった。
「それじゃ根本的な解決にならないでしょ。逃げてもいつかは会わなきゃいけないのよ?」
「だから、それは今じゃなくてもいいだろう。何も心身ともに弱ってる時じゃなくていい」
「このまま逃げたら心身ともに回復するとでも言うの?」
「本当なら日曜日まで猶予があったんだ。心の準備もなしに、しかも弱っている時に会ったら益々縮こまるだけだろうが」
「会ってみたら意外にあっさり解決するかもしれないじゃない。動かないことには何も始まらないのよ?」
「解決しなかったらどうする。ただでさえこの子は誰にも言わずに背負い込んでんだ。たった今、友達と拗れてさらにきつくなった。これ以上重荷増やせるか」
「その重荷を一緒に背負うためにあたしたち教師がいるんでしょ!」
「他人に背負ってもらうことを負担に感じる奴だっているんだよ!」
「やめてください!」
思わず、詩乃は声を上げた。自分のせいでの言い合いなど、これ以上聞きたくなかった。
「ごめんなさい、先生。あたし…あたしが、倒れたりしたから。あたしのせいで、先生たちまでこんな…。ごめんなさい」
震えながら声を絞り出す詩乃の背中を、高砂がさすった。
「逢坂さん、こっちこそごめんなさい。逢坂さんが気に病むことなんて何もないのよ。あなたは何も悪くないの。本当に、何も悪くないのよ。大丈夫だから」
ゆるゆると、詩乃は首を振る。
「あたしが悪いんです。あたしが、全部。あたしの言葉は、いつも誰かを不愉快にさせるだけで…。なんにも言わずに思っているだけでも誰かを傷つけて…。昨日は後輩を泣かせちゃうし、麻里には散々心配かけて、結局傷つけて…なんにも返せなくて…」
口に出せない気持ちをネット上に吐き出して、本当の気持ちは誰にも言わないくせに不満だけは一人前にあって、優しさばかりを欲しがって。
裏切るなと言われていたのに、優しい麻里を裏切って、傷つけて。
正しさを求める母親に、正しい選択を――再婚への賛成を、明示することも出来なくて。再婚相手からも、こうして逃げようとしている。
母親が詩乃に正しさを求めるのは、きっとそうすれば詩乃が幸せになれると信じているからだ。ただでさえ片親というハンデを背負っている詩乃が、人並みの幸せを掴めるように、他人から色眼鏡で見られないように。「あの子は片親だから」などと言わせないために。
わかっている。けれど今、こんなにも苦しい。ならば、いっそ。
「いっそ……。いっそ、あたしが、生まれてこなければ…」
その瞬間、ぱちんと両頬を叩かれた。西園寺が、両手で詩乃の顔を挟んでいた。そのままぐいっと顔を持ち上げられ、西園寺と近い位置で視線がかち合う。その表情は見たことがないほど厳しい。
「二度と言うな」
低い声で、西園寺はそれだけを言って手を放した。
がくがくと震えながら、詩乃は西園寺を見上げた。
「ご、ごめ…なさ…」
「逢坂さん。違う。違うのよ。ねえ、聞いて? 誰も怒ってないわ」
「ごめんなさい、ごめんなさい!」
まただ。また、余計なことを言って他人を不愉快にさせた。どれだけ同じことを繰り返せば気が済むのだろう。
「ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」
「逢坂さん!」
高砂にぎゅっと抱きしめられる。幼い頃、母親にされたように。けれど、これは母親じゃない。母親はきっと、正しい選択をしない詩乃のことは、もう抱きしめてくれない。
もう、何がなんだか分からない。
詩乃が悪い。そのことしか分からない。
ねえ、どうしてあたしは産まれてきたの?
「ごめんなさい……お母さん…ごめんなさい」
正しくなくてごめんなさい。
お母さん、許してください。
産まれてきてごめんなさい。
だけどお母さん。――どうかあたしを捨てないで。