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 結局、担任である西園寺が車を出し、詩乃は近くの病院まで連れていかれた。高砂は学校に残り、詩乃の母親にうまく言ってくれるそうだ。高砂も、最終的には今の状態の詩乃を母親と求婚者に会わせるべきではないと判断した。

 車の中、西園寺はずっと無言だった。詩乃も口を開くことは無かった。病院に着いても、西園寺は担当の医師と看護師に必要なことを告げただけで、詩乃には何も言わなかった。

 詩乃は問診の後で点滴を受けることとなり、処置室で横になった。

「今まで、点滴や注射で気分が悪くなったことはある?」

 年配の看護師が、そう聞いてくる。詩乃は小さく首を横に振った。ブラウスの袖をめくって、消毒をされる。ベテランの看護師らしく、針を刺されても痛いとは感じなかった。感覚が麻痺しているだけかもしれないが。

「気分が悪くなったらブザーを押してね。遠慮しなくていいからね」

 看護師は安心させるように微笑んで、処置室から出ていった。

 一人になって、詩乃はぼんやりと天井を見つめた。

 もう、何を考えればいいのかも分からない。きっともうすぐ母親が駆け付けてくる。どんな顔をすればいいのかも分からない。明日からの学校で、麻里にも合わせる顔もない。

「…消えたい…」

 口の中でそうつぶやいて、詩乃は目を閉じた。次の瞬間、甲高い声が聞こえてきて目を開けた。母親の声だ。そう認識すると同時に処置室のカーテンが開けられた。

「詩乃!」

 息せき切って、母親が現れた。仕事着のまま、上にカーディガンだけを羽織っている。

「お母さん…」

「詩乃、どうしたの。やっぱり具合悪かったの? ごめんね、お母さん、気付かなくて。朝のうちに受診させれば良かったわ」

 言いながら駆け寄ってきて、頭を撫でてくれる。心地いいのに、もうすぐこの手を誰かがとるのだと思うと遣る瀬無かった。気持ちが悪いとさえ思った。

「あなたもあなたよ。具合が悪いなら、どうして倒れるまで我慢するの。逆に皆さんにご迷惑かけたでしょ。それが正しい判断だと思ったの?」

「ごめんなさい…」

「責めてるんじゃないのよ。ただね、いつも言っているでしょう。お母さんは、あなたには正しい判断をしてほしいって」

「逢坂さん」

 静かに、しかしはっきりと西園寺の声がした。処置室の入り口に、彼は立っていた。正面から母親を見据えていたが、母親が振り返ると頭を下げた。

「申し訳ありませんでした。私が朝のホームルームの時に気が付けば良かったのですが」

「まあ、先生に謝っていただくことではありません。娘の判断ミスですから。このたびは大変なご迷惑をおかけしてしまって」

「具合が悪い時に正確な判断をするのは、大人でも難しいものです。それより、担当の医師が逢坂さんを待っています」

「ああ、そうですね。でもこちらの先生は私が働いている病院の医師のお知り合いなんです。さっき電話もしてもらって話も聞いたから、安心だわ」

「え…」

 その言葉に、詩乃は反応した。ゆっくりと、上半身を起こす。

「電話って…。何、話したの? 職場の人に……伊藤先生に」

「当然でしょ。仕事を早退させてもらったんだから」

「それで、病院の名前を言ってわざわざ電話させたの? あたしの症状を聞き出す為に?」

「電話は伊藤先生が自主的にしてくれたのよ。心配してくれたの。だって娘のことだもの」

 まったく悪気無く答える母親に、詩乃はまためまいがした。

「詩乃、横になっていなさい。点滴が終わったら連れて帰るから」

 いやだ。

 首を横に振った。

「ねえ、お母さん。娘って、誰の?」

「は? 決まっているじゃないの」

「あたしは、お母さんとお父さんの娘だよね? 伊藤先生の娘じゃないよね?」

「それはそうだけど、でも」

「他人だよね? 他人の娘の病状を勝手に聞き出すことが「正しい判断」なの?」

 母親が止まった。反対に、詩乃は止まらなくなった。ここには西園寺がいて、病院内には医師も看護師もほかの患者もいる。それでも、止まらなかった。

 

――詩乃は独りで何が出来るの?

 

 麻里の言葉が蘇る。

 そうだね、麻里。あたしにはなんにも出来ない。

 母親や、みんなを傷つけることしか出来ない。

 

「詩乃…」

「あたし、倒れたことを他人に知られたくなかった! 勝手に聞かれたくもなかった!」

「義彦さんは医者よ? それにもうすぐ他人じゃなくなるじゃないの」

「あたし承諾なんかしてないしする気もない!!」

 声が聞こえたのだろう。看護師が飛んできて詩乃を制止するが、詩乃は止まらなかった。

「お母さんはそうやって正しい判断って繰り返すけど、お母さんは一度も間違えたことないの!? お母さんに口答えしなければ正しい判断なの!? そもそも、お父さんのことはもういいの!?」

 母親は固まったまま、信じられないものを見るような目で詩乃を見ている。

「お父さんのことは忘れたの!? お父さんはお母さんのことが大好きだったのに! おかあさ……っ」

 突然息が苦しくなって、詩乃は口を大きく開けたまま息を吸い込んだ。いや、吸い込もうとした。けれど、吸い込めなかった。ベッドに倒れ込む。

「詩乃!」

「逢坂さん!」

 母親と看護師と、おそらく西園寺の声も聞こえてきたが、それどころではない。

 

 息が出来ない。苦しい。

 一生懸命空気を吸い込もうとしているのに、上手に呼吸が出来ない。

 苦しい。

 苦しい。

 苦しい。

 身体中が痺れて痛い。

 身体がまったく言うことを聞かない。いつの間にか握られた拳は、自力では開けることが出来ないほど強く握られている。身体中が痺れている。

 痛い。痛い。

 苦しい。

 

――誰か。

 

「……た…」

「逢坂!」

 最後に聞こえてきた声が誰のものなのか、詩乃には判断が出来なかった。

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