「心因性のものだと思われます」
陽の光が差し込む診察室で、医師はそう告げた。
「心因性って…」
母親の声は、愕然という言葉がよく似合っていた。
「聞けば、お嬢さんは受験生ですよね。それに、中々複雑な環境におられる。ストレスが溜まっていたのでしょう。少し、がんばりすぎたみたいですね」
「いえ、でも私は娘を追い詰めるようなことなんて」
「お母さん。人が何に追い詰められるかは、それぞれですよ。お嬢さんと同じ状況でも、まったくストレスを感じない人もいるでしょうし」
「それは、そうでしょうけど…」
診察室でのその会話を、詩乃は薄い壁を隔てた処置室で聞いている。まだ寝ていると思われているだろう。
「幸い、過呼吸の症状は重くありませんでした。けれど、状況が変わらなければ繰り返すことも悪化することもあります。看護師であるお母さんならご存じでしょうが、心の病にかかってしまう可能性もあります」
「そんな…。何が、あの子をそこまで追い詰めているんでしょうか。私は確かに、多少厳しいことも言ってきましたが、それはあの子には正しく生きて欲しかったからで」
「わかりますよ。誰かが間違っているという話ではありません。ただ、あのくらいの年齢の子に、急に新しく父親が出来ると言っても戸惑うのは当然でしょう」
「けれど先生。先生も伊藤先生をご存知でしょう? とても優しくて真面目で、温厚な方です。娘のこともとても思いやってくれています。あの人に会えば娘だってわかるはずです。私はちゃんとそのことを娘に話しました。それがストレスなんて…」
「突然家庭に知らない男が入ってくれば、年頃のお嬢さんならストレスにならないほうがおかしいでしょう」
西園寺の声が聞こえてきたことに、詩乃は驚いた。まだいたのか。いや、担任教師なら当然なのだろうか。それとも、伊藤義彦が自分の伯父だからだろうか。
「西園寺先生。申し訳ありませんが、これは家族の問題ですので」
「詩乃さんは私の大切な生徒です。教師として、彼女がここまで追い詰められていることに気付けなかったのは、私にも責任があります。だからこそ言わせてください。詩乃さんは今受験生で、生徒会役員として最後の仕事も抱えていて、ただでさえプレッシャーに耐える日々を送っています。本来なら完全にリラックス出来る家の中に、ろくに会ったこともない、知らない男が入ってこようとしているんです。お父さんを小さい時に亡くされていて、お嬢さんは大人の男には免疫もないでしょう。お母さん、逆の立場ならはいそうですかと受け入れられますか」
母親からの返事は聞こえない。
「もちろん、私はお母さんの再婚を反対するわけではありません。ただ、タイミングは悪かったのではないかと思っています。何も、今の時期じゃなくても良かった」
「そ、それは…」
「私のような青二才が意見するのは出すぎた真似だと承知しています。けれど、私も担任として生徒を守る義務があります」
意外だった。まるで高砂が言いそうな台詞だ。そんなことを、ぼんやりと思っていた。
「娘さんが落ち着くまで。せめて受験が終わるまで、待ってあげていただけませんか」
「……娘は…。詩乃は、西園寺先生にはそんな話をしたんですか。待って欲しいと?」
「いいえ。私は彼女からは何も聞いていません。これは、私が勝手にしている話です」
「では、娘に聞いてきます。待って欲しいのか、ちゃんと聞かないと…」
「お母さん、それでは逆に彼女を追い詰めます」
「私は!」
母親の声が大きくなった。
「私は、あの子には正しい選択をして欲しいんです! 私が間違えてしまったから!」
「……と言いますと」
「私の判断ミスで、あの子の父親は早くに亡くなりました。私が間違えたせいで、私は幼いあの子から父親を奪ったんです。もっと情報を仕入れて正しい判断をしていれば、あの人はもっと生きていたかもしれません。だから、あの子には正しい判断をさせないと…!」
「お母さん」
そこで、母親を呼んだのは詩乃だ。起き上がって、診察室に向かっていたのだ。
「詩乃…」
詩乃は、やや呆然として母親を見ていた。母親の表情も似たようなものだ。
「お母さん。今の、何?」
詩乃の声は決して大きなものではない。けれど、その場に響いていた。
「あたし、今までお母さんが正しい選択をしなさいって繰り返すのは、あたしの為だと思ってたけど…。違ったの?」
地面が、揺らいでいる。そんな錯覚がしていた。
「ねぇ、お母さん。あたしの正しさは、お母さんの代わりだったの…?」
固まった母親の表情が、答えを物語っていた。
「…そっか…」
幼いころから、正しい選択を迫られていた。
学校で仲間外れにされている子がいれば仲間に加えた。それがどんなに苦手な相手でも。
グループでの班長や代表の立候補がなければ手を挙げた。たとえ押し付けられる形でも。
お年寄りや自分よりも小さい子には親切にした。倒れそうな程自分の具合が悪い時でも。
他人に迷惑をかけてはいけません。繰り返しそう言われたから、自分の問題は自分で解決するようにしてきた。聞くよ、待つよと言ってくれた麻里を拒絶してでも。
なぜなら、そうやって正しい選択すれば母親が喜んでくれたから。
詩乃はうつむいて、つぶやいた。
「自己満足だね」
母親も、詩乃も。
ずっと乾いていた目から、涙が静かに滴り落ちた。ぽとぽとと、床を濡らしていく。
「詩乃…」
そう、お互いに、ただの自己満足。そんなものの為に、詩乃は麻里を、ただの一言も詩乃を責めなかった麻里を傷つけたのだ。
唯一無二の、親友を。
正しくなんかなかったのに。
また息が苦しくなってきて、もう力が入らなくなって、詩乃は床に膝を付けた。
沈んでいく。暗くて重くて何も見えないどこかに沈んでいく。
そのどこかに飲み込まれて意識を手放しそうになったところで、ぐっと腕を掴まれた。
「逢坂」
顔を上げると、涙でぼやける視界に西園寺がいた。
「さっき、倒れる前。何か言いかけたな」
西園寺は詩乃の真正面に膝をつき、腕を力強く掴んでいる。
「言いなさい。今」
「せんせい…」
確かに言いかけた。苦しくて、痛くて。息が、出来なくて。
詩乃は、震える手で西園寺のシャツをきゅっと握った。
小さく息を吸い込んで、言った。
「…たすけてください…」
消え入るような声で言った瞬間、身体を引っ張り上げられた。まるで、闇から引き上げられたようだった。
「っ!?」
「任せろ」
西園寺は、立たせた詩乃の頭をくしゃりと撫でた。大きくて暖かく、優しい手だった。
「やっと言えたな」
「あの、先生。何を…」
腰を浮かせた母親が割り込んでくる。その母親に、西園寺は毅然と告げた。
「逢坂さん。この子は俺が預かります」
「は?」
「え?」
詩乃も母親も目が点になる。そんな二人に構わず、西園寺は続ける。
「今の状態のまま二人で自宅に帰っても、状況が好転するとは思えません。―――医師としてはいかがですか」
突然話を振られた医師は一瞬きょとんとしたが、返事は早かった。
「え、ええ、そうですね。私も、一度二人は離れてみてもいいかと思います」
「ということです、逢坂さん。学校には俺の家から行かせます。ご心配なく。俺は独り暮らしではありませんから。逢坂、行くぞ」
詩乃の手首を掴んで、西園寺はすたすたと歩いていく。引きずられるように、詩乃も付いて行く。驚きのあまりに涙は止まっていた。
「あの、先生…」
「着替えとか、必要物資は高砂に届けてもらうしかないな。お前、好き嫌いあるか? 晩飯どうする?」
「いや、あの…」
「外食でもいいな。中華料理好きか? 近くに美味い店があるんだが。いや、その前に昼飯か。そろそろ昼過ぎだな」
言いながら、病院の正面玄関を抜けた。太陽がまぶしい。仄暗さなど、そこには微塵もない。
「とりあえず、昼飯はうどんでいいか?」
「先生!」
掴まれている手首にぐっと力を入れて、詩乃は立ち止まった。そこで、やっと西園寺も止まって詩乃を振り返る。
「なんだ?」
「なんだって…。だって、こんなこと」
いつもの淡白で冷静な西園寺はどこだ。どこに行った? 迷子だろうか。いい年をして。
高砂ならともかく、西園寺がとる行動とは思えない。
「逢坂」
「は、はい」
「お前が倒れる前に、無理やりにでも逃げ出させとけばよかった。……悪かった」
真摯な表情と声に、詩乃はたじろぐ。
「そんなの、先生のせいじゃ…」
「助けてくれと、お前は言ったな」
「……言いました」
「任せろと、答えただろう」
「……聞きました」
「なら、任せていろ。お前はもう、独りで耐えなくていい。…もう、大丈夫だ」
そう言って、もう一度、西園寺は詩乃の頭を撫でた。
「今まで、よくがんばった」
ぐっと唇を噛みしめる。噛みしめたせいで変な顔になって、見られないように詩乃はうつむいた。うつむいたら、また涙が落ちた。
西園寺は、再び詩乃の手を取って歩き出した。今度はおとなしく付いて行く。促されるまま助手席に座ると、運転席からハンカチが差し出された。
「とりあえず、拭きなさい。その顔でうどん屋に入ったら俺が不審者になる」
「すみません…」
言いながら、ハンカチを受け取る。涙を拭おうとして、詩乃は止まった。
「どうした?」
渡されたハンカチを、じっと見つめる。そのまま尋ねる。
「…先生。このハンカチ、どこに売ってたんですか」
うつろな目をしたマトリョーシカが複数体、詩乃を見つめていた。
「とある量販店に。中々俺の趣味に合うものがなくてな。それは運命的な出会いだった」
「運命って…」
マトリョーシカ。ロシアの伝統的な人形だ。大きな人形の中に、小さな人形が次々に入っている、あのマトリョーシカ。詩乃の記憶では、もっと愛らしい人形のはずだ。だが、このマトリョーシカはどうだろう。まるで何かの呪いみたいに死んだ目をした人形が大小いくつも描かれている。誰だ、こんなデザイン作ったのは。あまつさえ商品にしたのは。ちょっとしたトラウマレベルではないか。夜中には見たくない。
「先生、マトリョーシカが好きにしても、もうちょっと可愛いのは無かったんですか」
「お前もか」
「お前、も?」
「別に俺はマトリョーシカが好きなわけじゃない。そのデザインが純粋に気に入っただけだ。けどなぜか、俺が俺の趣味で買うものは他人には理解されないんだよな。昔から」
「つまり、悪趣味なんですか」
「失礼な。ちょっと個性的なだけだろう」
「でも、先生のネクタイの趣味とか悪いと思ったことはありませんけど」
「母親や同僚からあまりにも文句を言われるからな。学校にしていっているネクタイや靴下は全部そいつらが選んだものだ」
見せられないレベルの悪趣味ということだろうか。それはそれで見てみたいような気もしたが、怖いもの見たさかもしれない。
ふっと、笑った。
「先生って、見かけによらないんですね」
「笑いを提供できて何よりだ。ちなみに、そのハンカチとお揃いの小銭入れもある」
そう言って、西園寺はスーツのポケットから小銭入れを出した。同じく、死んだ目をした人形がそこにいた。まるで小銭を呪っているようだ。
くすくすと、詩乃は笑う。
「怖いですよ、このデザイン」
「俺の美的センスに文句言うな。シートベルト閉めろ。出るぞ」
そう言った西園寺は少々仏頂面で、もしかしたら恥ずかしがっていたのかもしれない。ハンカチを使うまでもなく、詩乃の涙は止まっていた。