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 連れていかれたのは、街の外れにある小さなうどん屋だった。掘っ立て小屋のような店構えで、駐車場には二台分のスペースしかなく、今はほかの車は停まっていない。入り口に年季が入った木の看板があって、墨で「うどん」と書かれてあるが、近づかないと読めないほどに色が褪せている。

「こんなうどん屋さん、知りませんでした」

「穴場だよ。商店街にもうどん屋はあるが、さすがにこの時間だからな。誰かに見られたらまずいだろ。主に俺が」

 答えて、西園寺は木戸を開く。出汁のいい香りが漂ってきた。

 店の奥で新聞を読んでいた店主らしき老婆が顔を上げて、西園寺を見ると破顔一笑した。

「久しぶりだねぇ」

「ご無沙汰しています」

 西園寺にうなずくと、老婆は詩乃に視線を移した。

「そっちのお嬢ちゃんは、初めましてかね」

「あ、はい…」

「座んなさい。なんにするね?」

「え、ええと…」

 詩乃は店内を見渡すが、メニューが見当たらない。困って西園寺を見上げると、彼は老婆に告げた。

「ゴボウ天、二つ。あと俺はかしわ飯ください」

「はいよ」

 老婆は応えて、椅子から腰を上げた。

 西園寺は慣れた手つきでセルフサービスの水を二つ用意する。そうして、カウンターの隅に並んで座った。

「そういえば逢坂。ゴボウ天は好きか?」

「…それ、今聞きますか…。好きですけど」

「そりゃ良かった。じゃあなんの問題もない」

「今、この状況は問題ありだと思うんですが」

「どの辺に? あ、かしわ飯お前も食べるか? 量が多いと思ったんだが」

「いえ、そっちではなく…。点滴は終わったんですから学校に戻らないと…。それに、あたし先生のお宅になんて行けません。そこまでのご迷惑はかけられません」

「学校は体調不良で早退。これは担任としての判断だ。母親がいる自宅に帰せないことは医師も承諾済み。預かると言い出したのは俺の方。迷惑だったらそんなこと申し出る訳がないだろう。何か反論は?」

 畳みかけるように言われ、詩乃はすぐに反応できない。というか、西園寺はこんな性格だっただろうか。つい先ほども思ったことだが、いつもの淡白な西園寺はどこへ行ったのだろう。どんなに生徒に囲まれても、どこか一線引いている教師だと思っていたのに。

 思案する詩乃をよそに、西園寺は言葉を続ける。

「もちろん、他に行きたい所があるなら連れて行くが。どっか親戚の所か、友達の所か」

 親戚、と言われて詩乃の頭に即座に出てくるのは崇だ。けれど、家族のある崇の家に行く気はしない。祖父母の家は論外だ。それこそ心配をかけるだけ。むろん、麻里には会わす顔が無い。

「…ありません」

 詩乃が答えたところで、うどんがカウンターに差し出された。西園寺の前にはかしわ飯のおにぎりも。

「はい、お待ち」

「いただきます。とりあえず、食べなさい。腹が減ってたら出来ることも出来なくなる」

 言いながら、西園寺はスーツのポケットから愛用の一味唐辛子を取り出した。どんぶりが赤くなるほどどばどばとかける。

「だから、それ絶対かけすぎですよ。お出汁の味が分からなくなっちゃうじゃないですか」

「ここの出汁はこの程度にやられるようなへたれじゃない。いいから食え」

 仕方がないので、詩乃も手を合わせてからうどんに手を付けた。

「!」

 びっくりするほど美味しかった。透明に近い出汁は香り良く口当たりも良く、絶妙の湯で加減のうどんとの相性がこれ以上ないほどいい。ゴボウの天ぷらも、素材の食感と風味を完璧に残したままでさっくりと揚げられている。

「…美味しい…」

「おや、ありがとね」

 老婆が微笑む。隣で、西園寺がなぜか誇らしげだった。

「お口に合って何よりだ。けどお前、この店のこと誰にも話すなよ。俺の隠れ家だから」

 割と本気の口調で言っている西園寺の横顔を、詩乃は見つめた。

「? どうした」

「あ、いえ…」

 じゃあ先生、どうしてあたしには教えてくれたんですか。さっきからなんか性格違いますけど、それはあたしにだけですか。

 音になりかけたその言葉を、詩乃はうどんとともに飲み込んだ。

 

 食欲はなかったはずなのに、詩乃はうどんをすべて食べきった。それほど美味しかった。二人分の食費を西園寺が払い、それから再び車に乗り、今度は彼の家に向かう。詩乃は、自分が緊張し始めていることに気が付いた。他人の男性の家になど行ったことがない。

「先生、一人暮らしじゃないってさっき言っていましたけど、おうちの方にはあたしが行くこと、もう連絡してあるんですか?」

「連絡は必要ない」

「え、でも」

「ちなみに名前はキヨ子」

 女性名が出てきたことに驚いた。西園寺は独身だったはず。ならば。

「ど、同棲してるんですか…」

 さすがに若干引きながら聞くと、西園寺はふっと吹き出した。

「猫だよ」

「猫?」

「そう。猫と一緒に暮らしている。名前がキヨ子。亡くなった祖母から名前をもらった」

「それって…」

「あ、猫アレルギーとかあるか?」

「いえ、ありませんけど」

 問題はそこではない。確かに一人暮らしではないが、一人と一匹暮らしではないか。

 詩乃を預かるということはつまり、西園寺の家で寝泊まりするということだろう。どのくらいの期間になるのかは分からないが。どうしよう。身の危険を感じるわけではないが、友達が少なかった詩乃は、誰かの家に泊まりに行く経験自体が乏しいのだ。粗相のないようにしなければと、そう思ってますます緊張した。

 

 西園寺が住むマンションは、車で移動するなら詩乃の自宅とさほど離れていなかった。電車で移動するなら一駅だ。美鷹市で唯一の大型ショッピングモールが佇む一角に、そのマンションはあった。八階建ての七階に住んでいると、教師は言う。

 七階までエレベーターで上がって、突き当りが西園寺の部屋だった。緊張は消えていないが、今更どこへも行くことは出来ない。

 西園寺が鍵を開けて、先に入る。どうぞと言われたので、詩乃も続いた。

「…お邪魔します…」

 玄関に入ると、すぐにダイニングキッチンだった。玄関から見て右側に二口のコンロと小さめのシンク、その上に食器棚があり、少ない食器が並んでいる。シンクの隣に冷蔵庫。反対側には扉が二つ。おそらく風呂場とトイレだろう。キッチンの向こう側、詩乃の正面にもドアが二つある。両方摺りガラスが入っており、陽の光がキッチンに差し込んでいる。

「右側がリビング、左側を寝室にしている。とりあえずリビングでくつろいでいなさい。家にあるものは適当に飲み食いしていいから。あ、ビールは飲むなよ」

 冗談交じりにそう言って、西園寺はリビングのドアを開けた。

 六畳ほどのリビングには、テレビとオーディオ、それに、小さなガラステーブルと座椅子、二人掛けのソファがあった。テーブルの上にはリモコンとノートパソコンしか置かれていない。興味本位できょろきょろと見まわして、詩乃は西園寺を見上げる。

「先生、キヨ子さんは?」

「さあ。寝室のベッドで丸くなってるんじゃないか。おとなしい猫だから、出てきたら挨拶だけしてほっとけ。変にちょっかい出さない限り引っかかれることはないよ」

言いながら、西園寺はリビングの収納扉を開ける。中にあるカラーボックスから何かを取り出して、詩乃に渡した。

「鍵…?」

「合い鍵だ。俺は今から学校に戻る。お前は早退だが俺はそうもいかないからな。もし、俺が留守にしている間に外に出ることがあれば鍵かけていってくれ。返すのは学校でいいから。本気で帰りたくなったら家に帰ってもいい。駅の方向は分かるだろ」

 詩乃は西園寺を見上げて、それからうつむいた。

 帰る場所が、見当たらない。

「一応、俺の携帯の番号を教えておくから、出ていくときは連絡くれ」

 言って、西園寺は手帳を破いて番号を書いた。手渡しながら続ける。

「まあ正直、一人で夕飯食うのも飽きたけどな。久々に誰かと会話しながら食べたいし」

 手渡された紙を、詩乃はぎゅっと握った。その様子を見てから、教師は続ける。

「じゃあ行ってくる。戸締りして、誰が尋ねてきても無視してなさい」

「せ、先生!」

「ん?」

 靴を履きながら、西園寺は振り向いた。

「あたし、好きです!」

「………。は?」

「中華料理!」

「……ああ」

「先生、さっき中華料理は好きかって言いましたよね。あたし、好きです。最近は食べてないし、美味しいお店をご存じなら、あの…。つ、連れていってください」

 段々と声が小さくなる詩乃に、西園寺は一瞬視線をさまよわせてから笑った。

「ああ、なるべく早く帰るよ。じゃあな」

「はい。いってらっしゃい」

 西園寺を見送ってから、詩乃は鍵をかけた。チェーンも下ろした。勝手がわからない他人の家に一人残るというのは、中々に居心地が悪い。だが、帰りたいとは思わない。学校へ戻りたいとも思わない。

 リビングの座椅子に座った。近くにクッションがあったので抱えてみる。知らない匂いがした。嫌な気持ちはしなかった。

 詩乃は受験生だ。本当なら、寝る間も惜しんで勉強をするべきだ。他人の家でくつろいでいる場合ではない。わかっていても、鞄から教科書を取り出す気にはなれない。きっと、教科書を開いたところで頭には入ってこないだろう。

 携帯電話を取り出したが、新着は何も無かった。ブラウザを操作する。

 

傷つけたのはあたしなのに、

キズがついたのもあたしだった。

結局、全部あたしのほうだった。

見えればいいのに。

壊れていくさまが。

抉られる心が。

突きつける刃が。

失くしていく想いが。

 

みんなみんな、視えればいいのに。自分がどれほど、愚かであるか。

 詩乃には何も見えない。きっと見る気もない。

 ならば、目をつぶっていても同じだ。そう思って瞼を閉じた。

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