にあ、という音がして目が覚めた。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなくて戸惑ったが、すぐに思い出した。西園寺の家だ。バルコニーに面した大きな窓から西日が差し込んでいる。いつの間にか、クッションを抱えたまま寝入ってしまっていたらしい。
もう一度、にあ、と音がした。見ると、ドア付近に猫がいる。毛色は茶色のまだら模様で、真ん丸な目で詩乃を見つめていた。小さく首を傾げているところがかわいい。
「あ、ええと…。キヨ子、さん?」
小さな声で呼んでみると、猫は応じるようににあ、と鳴いた。西園寺が挨拶をしたら放っておいていいと言っていたので、詩乃は挨拶をすることにした。
「初めまして。あたし、西園寺先生の教え子で、逢坂詩乃です。お邪魔してます」
キヨ子はじっと詩乃を見ていたが、やがてふいっとドアから離れた。どこへ、と思ったら玄関の前にちょこんと座る。
「キヨ子さん? 出たいの?」
返事は無い。詩乃のマンションはペット禁止なので、詩乃は動物に触れたこと自体が少ない。せいぜい小学校のウサギ小屋や、遠足で行った動物園のふれあいコーナーだ。だが、猫は気まぐれに外を歩き回るという話は聞いたことがある。キヨ子もそうなのだろうか。しかし勝手に外に出すわけにもいかない。
キヨ子の傍に詩乃もしゃがんで、どうしようかと思っていたら、座っていたキヨ子が立ち上がった。次の瞬間、がちゃりと音がして、鍵が回った。
が、詩乃がチェーンも下ろしていたので玄関は開かなかった。わずかに開かれた扉の向こうから、声が聞こえてくる。
「逢坂? いるなら開けてくれ」
「あ、はい!」
慌てて立ち上がって、一度扉を閉めてからチェーンを上げる。扉を開けると、西園寺が立っていた。
「よかった。まだいたな」
「すみません…」
「よかったと言ったんだ。そもそも連れ込んでおいて怒るわけがないだろう。……逢坂」
「は、はい」
「そこ、どいてくれないと入れない」
「あ、すみません!」
顔を赤くして、思わずその場から飛び退るように下がる。と、西園寺が笑った。
「ただいま」
「おかえりなさい…」
「腹、減ってるか? 減っていないなら少し待ってもらいたいんだが」
「あ、はい。待てます」
「助かる。勝手に行くとうるさいからな」
言いながら、詩乃と西園寺はリビングへと移動する。キヨ子も付いてくる。
「うるさいって、誰がですか?」
「高砂だよ。あいつに事情を話したら何がなんでも自分も行くって息巻いてた。今、お前に必要だろうと思われるものを用意しに行ってる」
「すみません、何から何まで…」
「気にするな。あいつなりに出来ることはしたいんだよ。責任感じてるみたいだしな」
「責任?」
西園寺は上着を脱ぎ、ネクタイに指をかけて解き始めた。見慣れなくて、詩乃は目を逸らす。
「お母さんに連絡してしまったことも、斎川のことも。自分のタイミングが悪かったと思い込んでるよ」
「そんなの、高砂先生のせいじゃありません」
「知ってる。だからそれ、本人に言ってくれ。俺が何言っても聞きやしねぇ」
その言い方に、詩乃はふと何かしこりのようなものを感じた。感情の名前は判らない。
「先生たちって、本当に仲がいいんですね」
「ああ、まあ、腐れ縁だな」
「高砂先生、このマンションの場所知ってるんですか」
「時々酔っぱらって奇襲仕掛けてくるよ。飲んで暴れた挙句に俺のベッド占領しやがる」
「べ、ベッドを…」
「おかげでこっちはキヨ子と一緒にソファで寝るはめになる。ったく…」
言葉ほど怒っている風ではない。高砂に対する情が感じられて、詩乃は居心地が悪いような気がした。
「あの、さっきは、すみませんでした」
「何が?」
「あたしのせいで、先生たちまで言い争いを」
「ああ、あれか。別にお前のせいじゃないし、あの程度の諍いは日常茶飯事だ。さっき学校でも普通に話したし、俺も高砂も気にしていない」
「先生!」
思わず、詩乃は叫んだ。
「ん?」
「あの、あたし、キッチンに出ますので、それ以上着替えるのは…」
「あ」
ネクタイに続きシャツのボタンまで外そうとしていた、実際には上の三つは外し終えていた西園寺が手を止める。
「悪い。つい、いつものくせで」
「……いいえ」
「寝室で着替えてくる」
がりがりと頭をかき、西園寺はリビングから出ていった。ふぅと詩乃は息をつく。これは中々、自宅とは違った意味で緊張の連続かもしれない。
ほどなく、普段着に着替えた西園寺がリビングに戻ってきた。
「なんか飲むか? と言ってもコーヒーか麦茶くらいしかないが」
「あ、じゃあお茶をお願いします」
「了解」
冷蔵庫からプラスチックのポットを取り出して、硝子のコップに注いでくれる。
「あたし運びます」
「いいから座ってろ。麦茶運ぶくらいで気を遣わなくていい」
言われて、おとなしく座って待っておくことにした。キッチンから、麦茶を持った西園寺とキヨ子がやってくる。
「キヨ子さん、賢いですね」
「なんだ、いきなり」
「先生の足音が判るみたいで、玄関で待ってたんです。動物の耳ってすごいですよね」
「ああ、なるほど。そういえば毎日玄関開けるといるな」
「なんていう種類ですか?」
「雑種だけど、動物病院の医者はベンガルが入ってるとか言ってた」
「そうなんですか」
詩乃は不思議な感覚がしていた。学校の担任と、向かい合って麦茶を飲みつつ世間話をする日が来るとは。しかも、西園寺はスーツから私服に着替えている。長袖Tシャツにジーンズという姿は見慣れない。
麻里に報告したいな。
そう思って、うつむいた。今の詩乃に、麻里に合わせる顔などないのに。
ねぇ麻里。西園寺先生の自宅はこんな感じだよ。私服、けっこう恰好いいよ。キヨ子さんは賢いよ。
どれも言葉にならない。
「どうした」
「先生。麻里は…。麻里は、どうしてました?」
「どう…な。昼休みに甲斐田と並んでるとこ見かけたよ。一応、普段通りだったけど、まあさすがに元気は無かったな。放課後は予定通り会議をして、生徒会への勧誘方法を決めていた。内容は学校で議事録を見せてもらえ。あとは、双子が多少不思議そうな顔しいてたから、逢坂は早退したと俺から伝えておいた。…斎川の元気が無いことに気が付いたとしたら、双子くらいじゃないか」
「そう…ですか…」
落ちる沈黙。破ったのは西園寺だった。
「斎川と話をしたいなら、早い方がいい」
「でももう、なんて言えばいいのか…」
保健室で見た、麻里の表情が蘇る。傷つけた。愕然とさせた。明るくて優しくて大切な友だちに、あんな表情をさせたのは詩乃だ。詩乃の言動だ。
「ごめんなさい。先生にも、裏切るなって言われていたのに」
「俺に謝ることじゃない。教師の忠告くらいで間違えなくなるのなら、誰も苦労しない」
「あたしもう、麻里に合わせる顔がありません…」
声が震えてくる。麻里はいつだって、詩乃を思いやってくれていたのに。待つと言ってくれたのに。詩乃が台無しにした。
踏みにじったのだ。麻里の気持ちを。
「どうしよう先生、麻里に、嫌われたくないのに…っ!」
両手で顔を覆った詩乃の頭を、ぽんと西園寺が叩いた。
「それ、本人に言ってやりなさい」
「でも、あたしの言葉なんて」
「届ける努力もしてないのに届かないとか言うな」
少し厳しい声で遮られ、詩乃は顔を上げた。
「斎川がお前の話を聞かなかったことがあるのか?」
問われて、詩乃はゆるゆると首を振った。
「…ありません」
「お前の親友は、泣いて謝るお前を無視するような奴か」
「…違います」
「なら問題ない。……なぁ、逢坂。今のお前にとっての最大の問題は、なんだと思う?」
持っていたコップをテーブルに置いて、西園寺はそう聞いてきた。
「最大の、問題?」
うなずかれて、少し考える。
「お母さんの、再婚…? あれが無ければ…」
「違うな。それはきっかけであってお前自身の問題じゃない」
否定され、詩乃は西園寺を見る。まっすぐ見つめ返された。
「いいか。お前の最大の問題点はな、他人を信用していないところだ」
何を言われたのか、一瞬分からなかった。
「お母さんは再婚したってお前を捨てたりしないと信じていない。斎川に悩みを話したら楽になれると信じていない。生徒会役員、後輩たちが自分の提案を聞いてくれると信じていない。探せばほかにもあるんじゃないか」
「そんな…。あたし、そんなこと…」
「無いのか? 絶対に?」
答えられない。
「お前が母親に言いたいことはなんだ? 再婚しないで、じゃない。もっと根本的なものがあるだろう」
「あたし…」
「斎川に話をしなかったのはなぜだ? 斎川の負担になると思ったからだけじゃないよな」
「先生」
「あの会議で、お前の提案を黙っていたのはどんな理由だ? 後輩からもっと良い意見が出ると、本気で思っていたか?」
……ああ。
詩乃は、上げていた顔をまた下に向けた。同時に、涙がこぼれ落ちた。
「あたし、ただ…」
「うん」
「お母さんを、盗られたくなかった…」
詩乃だけのお母さんでいてほしかった。ほかの人の世話なんて焼いてほしくなかった。あの手を誰にも譲りたくなかった。ただ、詩乃だけを見ていてほしかった。なんて子どもじみた独占欲だろう。それを認めたくなかったから、亡くなった父親までを引き合いに出して利用した。
「麻里とは、対等でいたかった」
麻里は教室でも生徒会でも真ん中にいる。めったに弱音を吐かない彼女に、自分だけ悩みを吐き出したくなかった。誰からも頼られる彼女に、唯一頼られる存在でいたかった。でもそれは、ただの劣等感だ。麻里を対等に見ていなかったのは詩乃の方。
「提案は、否定されるのが嫌で…」
黙っていてと、麻里たちに頼んだ。後輩たちからの意見を心から期待していたわけではない。むしろ逆だ。そんな案よりこっちがいいと言われるのが怖かった。
全部全部、詩乃の為だ。ただ、自分が傷つかない為に。自分自身の為だけに。
認めてしまったら、あまりの情けなさに涙はいよいよ止まらなかった。自分がこんなに小さい人間だとは思わなかった。考えたこともなかった。どころか、片親でそれなりに苦労してきて、ほかの高校生よりも大人だとさえ思っていた。
なんて傲慢だ。
「…先生」
「うん」
「消えたい…」
西園寺は、今度は頬を叩くことはしなかった。ただ、膝の上で握りしめていた詩乃の両手を包んでくれた。
「消えなくていい」
下を向いているので、西園寺の手にもぼとぼとと涙が落ちる。それでも西園寺は、力強く詩乃の手を握ったままだった。
「今自覚できたなら、もう大丈夫だ。お前は消えなくていい」
「どうしよう…。どうしよう、先生。お母さん、きっと怒ってる。哀しんでる。心配してくれてたのにあんなこと言って、嫌われたらどうしよう。麻里も傷つけたし、甲斐田さんだって泣かせたし、あたし、どうしよう…!」
「話をすればいい。みっともなかろうが恥ずかしがろうが、きちんと話せ。言いたいことを全部言え。聞いてくれなかったら聞いてくれるまで叫べ。拡声器でも校内放送でもなんでも使え。それで声が枯れたら何十枚でも手紙を書け。右手が折れたら左手でも書け。思いつく限りの手段を使って、聞いてくれと慟哭しろ。それでも駄目なら――」
「駄目なら…?」
「俺が、代わりに言ってやるから」
西園寺は、握っていた手を放して詩乃の頭を優しく撫でた。
「がんばれ」
詩乃はついに、声を上げて泣いた。
西園寺は詩乃の頭を自分の肩にもたれさせて、ただ撫でてくれていた。詩乃の涙が止まるまで。
がんばれという言葉が、こんなに心強く響いたのは初めてだった。