「そう。それで、そんなに目が腫れているのね」
冷たくして固く絞ったタオルを詩乃の目に当てながら、高砂は苦笑した。
「かわいい顔が台無しよ」
冷たいタオルがほてった顔に気持ちいい。腫れあがった目元が気恥ずかしくて、詩乃は隠すようにタオルを当てた。
「それで、少しはすっきりした?」
「はい。ご心配をおかけしました」
「いいのよ。謝らなくちゃいけないのはあたしの方だし」
「いえ、先生は何も…」
「それにしたってお前な」
と、横から呆れたような西園寺の声がする。
「なんのつもりだ、この荷物は」
「お泊り道具一式」
「スーツケース二つとボストンバッグが?」
「大丈夫よ。ボストンバッグは逢坂さんのだから」
「大丈夫の基準が分からん。つまりスーツケース二つはお前のだろうが」
「これでも厳選したのよ」
「どの辺をだ。っていうかお前まで泊まるつもりか」
「あたりまえでしょう。いくら担任教師とはいえ独身男の家に女子高生一人で泊まらせるわけにいかないでしょうが。逢坂さんのお母さんだって心配するわよ」
「心配しなくても、俺はどっかカプセルホテルに行くつもりだったよ。病院でもそう言った……いや、言わなかったような気もするけど」
「つまり言ってないんでしょ。そもそもそんなの逢坂さんが気を遣うだけです。ほんっとにあんたは、いまいち優しさの感覚と美的感覚がずれてるのよね。昔から」
「美的感覚は今関係ない」
「あの、先生…」
詩乃が目元からタオルをどかして小さく声をかけると、教師二人は同時に振り向いた。
「ああ、ごめん。いつものことだから気にしないで」
「いつも…。こんな風に泊まってるんですか?」
「いやいや、この程度の言い争いがってことよ」
高砂がぱたぱたと胸の前で手を振って、詩乃はその言葉に安心している自分に気が付いた。何故なのかは分からない。
「そうそう、で、これが逢坂さんの荷物。必要なものは入っているはずだけど、一応確認してくれる? 足りないものがあったら買いに行きましょう」
「あ、はい」
バッグを開けて、詩乃は驚いた。
「先生、これ、お母さんが用意したんですか…」
「ええ、そうよ」
高砂はにっこりと笑った。
詩乃は、その笑顔を見てから再びバッグに視線を落とす。中には、着替えはもちろんパジャマ、歯ブラシ、化粧水や乳液、携帯電話の充電器等、詩乃が毎日使っているものがもれなく入っていた。教科書や参考書も入っている。
「枕まで…」
「変わると眠れないんでしょ? 修学旅行とか、寝不足でふらふらだったらしいじゃない」
母親は、覚えていたのか、そんなことを。
「あと、これ」
そう言って差し出されたのは、詩乃が好きな喉飴だった。机の中やポケットに、いつも忍ばせている喉飴だ。
「渡してほしいって頼まれたんだけど、風邪でも引いてるの?」
「…いいえ…」
どこにでもある普通の喉飴だ。だが、幼いころから詩乃はこれがすごく好きで、幼稚園ぐらいまではどんなに泣いていてもこれを差し出されると泣き止んだのだ。精神安定剤の役割にもなっていて、高校受験の時にはこれを舐めて気分を落ち着かせたりもした。この一週間も、ほとんど手放していない。
罪悪感に似たものがこみ上げてきた。母親を信じていないという事実が、胸を突いた。
「あとこれ、あんたにも」
言いながら、高砂はスーツケースを開けて西園寺に袋を渡す。
「……米?」
「芋とりんごも。娘がお世話になるからって」
西園寺は、ふっと笑った。
「田舎からの仕送りみたいだな」
高砂も微笑んだ。
「そうね。大切な相手じゃないと送らないわね」
高砂の言葉に答えられなくて、詩乃は再びタオルを目に当てた。
高砂が持ってきてくれた私服に着替えてから、三人は中華料理店に向かった。歩いて十分ほどのところにその店はあった。
昼のうどん屋ほどではないとはいえ、大きな門構えとは言い難い店だ。横開きの硝子扉は油で汚れており、色あせた赤い暖簾には黒字で「中華」と書いてあるだけ。しかし、六台ほど停まれる駐車場には空きが無かった。
「おお、相変わらず繁盛してるわね」
「高砂先生も来たことあるんですか」
「数回ね」
「…西園寺先生と?」
「一緒に来たのは一回だけよ。それも、親も一緒に。どうして?」
「え、あの、いえ…」
正面から聞かれて、詩乃は戸惑った。答えが見つからないことに対してではなく、自分がした質問に対してだ。どうしてそんなことが気になったのだろう。
「どうした?」
先を歩いていた西園寺が振り向いて待っている。彼はもう、引き戸に手をかけた状態だ。
「なんでもない。ほら、逢坂さん。行きましょ」
「は、はい」
なんとかうなずいて、詩乃は進んだ。近づくにつれて、中華料理独特のにおいが漂ってきて食欲をそそった。
店内は、駐車場がいっぱいだっただけあって賑わっていた。奥の方の一つだけ空いていたテーブルに座り、壁に貼られてあるメニューを見上げる。かなりの数だった。壁一面がメニューで覆われていると言っても過言ではない。
西園寺は酢豚定食を、高砂は八宝菜定食を頼み、詩乃は迷った挙句にエビマヨ定食を頼んだ。愛想のいい女将に注文をし、やがて出てきたエビマヨは感激するほど美味しかった。