西園寺の家に帰り、しきりに遠慮はしたが一番風呂をもらい、詩乃は高砂とともに西園寺の寝室に入った。家主である西園寺はキヨ子とともにソファで寝ることになっていて、今は風呂に入っている。ちなみに彼は三番目だ。
詩乃は、そっと寝室を見渡した。リビングと同じくシンプルな部屋だ。違うのは、テレビの代わりに大きな本棚があることくらい。この部屋でいつも西園寺が眠っていると思うと落ち着かない。高砂がいてくれて本当に良かったと思った。いくら枕が自分のものでも、きっと眠れなかったに違いない。
髪を乾かしていた高砂が、自前のドライヤーの電源を切って詩乃に振り向いた。
「寝ましょうか。今日は疲れたわよね。ゆっくり休みなさい」
独身男である西園寺の家に、来客用の布団など無い。従って、詩乃は高砂と枕を並べて一つのベッドに入ることになる。
「先生」
「うん?」
「今日は、いろいろとすみませんでした」
うつむきがちに言うと、ぴんと額をはじかれた。痛くはないが、驚いて顔を上げる。
「ちょっと違うな」
「え」
「謝るところじゃないでしょ?」
優しく微笑まれ、詩乃は少し考えた。そうして、言った。
「今日は、ありがとうございました」
「うん、正解。どういたしまして」
よしよしと、頭を撫でられて、詩乃は自分の頭に手をやった。
「なんだか…」
「ん?」
「高砂先生と西園寺先生って、似たところがありますよね。幼馴染だからですか?」
「ええー? スリムビューティーなあたしと不愛想なあいつのどこが似てるのよ」
「えっと…。すごく、親身になってくれるところとか、頭を撫でてくれるところとか…」
考えながら、詩乃は言葉を紡いでいく。
「今日はなんだか意外でした。西園寺先生が、すごく親切にしてくれて。あ、もちろん普段が冷たいと思っていたわけじゃないんです。でも、まさかお母さんを説得して病院から連れ出してくれるとは思わなくて。腕を引っ張られた時、なんて言うか、救いあげられた感じがしたんです」
と、詩乃は高砂が固まっていることに気が付いた。その表情は、驚愕、と言ってもいい。
「先生?」
「それ本当? 頭、撫でたの? たくみ…いや、西園寺先生が? あなたを連れ出して?」
だいぶ驚いているようで、高砂は一瞬西園寺を下の名前で呼びかけた。そのことには気が付いたが、詩乃も驚いていた。どうしてそんなに信じられないような顔をするのか。
「珍しい…んですか?」
「あ、いや…。珍しいというか、なんというか。封印を解いたのかと」
「封印?」
「あー…。なんて言ったらいいのかなぁ」
うつぶせになって肘をついていた高砂は、ごろんと仰向けになった。
「昔…って言っても数年前までだけど。西園寺は今よりもずっと熱い教師だったのよ。あたしはあいつに影響されたから生徒と仲良くなれたってくらい」
「え!?」
あまりにも意外な言葉に、詩乃はそれこそ驚いた。
「今みたいに無理にクール気取り始めたのは、ここ三年くらい。つまり、美鷹に異動してきてから」
高砂は、嘘や冗談を言っている様子ではない。ということは、事実なのか。
「どうして…」
「うーん…。熱血が過ぎたから、かなぁ。教師になりたてのころね、今の逢坂さんと同じように、複雑な家庭環境で困っている女子生徒がいたの」
天井を見つめながら、高砂は語る。
「あたしは学校が違っていたから、時々西園寺からこういう生徒がいるって話を聞く程度だったんだけどね。あいつはかなりその生徒に肩入れしちゃって。なんとか出来ないかって悩んで、その生徒と一緒にいる時間が長かったの。職員会議とかでも議題にして、なんとか助けたかったみたい」
生徒会室で、話を振られない限りずっと黙っている西園寺の姿が目に浮かぶ。あの西園寺が、自分から発言し、特定の生徒を守ろうとしたのか。
「けど、それがただの善意では済まなくてね。その生徒、西園寺に依存し始めちゃったの」
「依存? 好き、ではなくて?」
「本人は恋だと思ったかもしれないけどね。あれはただの依存よ。相手に寄りかかって助けてもらって甘やかしてもらいたいだけの。――自分の気持ちを押し付けるだけで相手の気持ちを考えないなら、それは恋愛感情ではなくただの依存で自己満足よ」
詩乃に言われた言葉ではない。なのに、詩乃はどきりとした。
自分はどうだっただろう。崇に対して、ちゃんと恋だっただろうか。崇の優しさに、ただ甘えていただけではないだろうか。崇の気持ちを、考えたことがあっただろうか。たけうまに対してもそうだ。会ってみたい、聞いてほしいと願っていたが、それはたけうまに依存しようとしていたのではないか。
考える詩乃の隣で、高砂は続ける。
「で、その子ストーカーみたいになっちゃって。西園寺も参っちゃってね。学校のほかの教師からはあんたが誤解させるようなことをするからだとか言われて、味方もいなくて。生徒本人からもかなりきついこと言われたみたいね。だって守るって言ってくれたのに、みたいなことを。結婚するんだって公道で喚かれたこともあったって、親から聞いたわ」
親身になって話を聞いていた生徒をまさか警察に突き出すわけにもいかず、かと言ってその女子生徒と結婚する気など毛頭なく、結果的に西園寺は段々と口数が減っていったのだという。
「最終的に、その子は親戚に引き取られて引っ越して、西園寺も異動になったの。美鷹で再会して驚いたものよ。あんなにクールぶってて。本人はもう懲りたから、とか言っていたけど。あいつなりに傷ついたんでしょうね。いろんな人に裏切られたも同じだったんじゃないかな」
「そう…だったんですか…」
これは、もしかして牽制だろうか。詩乃に、同じようにならないでくれと。西園寺を、傷つけないでくれと。
「だから、今日のことを聞いて驚いたの」
天井から視線を外し、高砂は詩乃を見つめた。その表情は、温かかった。
「ありがとね。逢坂さん」
意外な言葉に、詩乃は目を丸くする。
「あいつが熱血を取り戻しつつあるって、良いことだと思うの。もちろん、逢坂さんの現状を喜んでいるわけじゃないのよ。ただ、あんな風にじっと黙っているのは、あいつらしくなかったから」
「いえ、あたしは何も…」
何もしていない。詩乃はただ、助けを求めて泣いただけだ。
「ま、そういうことよ。寝ましょうか。電気、消していい?」
「あ、はい」
詩乃が答えると、高砂がリモコンで電気を消した。部屋が真っ暗になって、詩乃は見えもしないのに天井を見つめる。
枕は自分のものだ。母親と話をする決意も固めた。麻里には謝りに行く。甲斐田ともきちんと話そう。西園寺の言う通り、何度でも話に行こう。声が枯れるまで叫んで、それでも駄目なら手紙を書いて、さらにそれでも駄目なら西園寺が一緒に言ってくれる。心配することなど無い。
なのに、目が冴えて眠れそうにない。
ほどなく高砂の寝息が聞こえてきても、詩乃は微動だにせず目を開けていた。やがて、喉が渇いていると気が付いた。西園寺からは、冷蔵庫のものは好きに飲み食いしていいと言われている。夕飯帰りにスーパーに寄って、食料も仕入れている。朝食用のパンと、牛乳と、教師二人用のビールも、詩乃用のスポーツドリンクも。
今飲むなら暖かい牛乳がいいと思った。以前、たけうまに勧められたように。
ふと、詩乃は顔を横に向けた。暗がりにも目が慣れてきて、高砂の姿が見える。背を向けて寝ている教師の顔は見えないが、肩が規則正しく上下しているのは分かる。今朝、高砂がたけうまである可能性に気が付いた。迷ったが、確かめないでおこうと思う。
自分がマリであると知られたくない。
息をついて、詩乃は高砂を起こさないようにそっと起き上がった。音を立てないように扉を開けて暗いキッチンへ出ると、リビング側の扉から灯りが漏れていることに気が付いた。正確な現在時刻は分からないが、そろそろ日付が変わるはず。西園寺はまだ起きているらしい。
他人の家の冷蔵庫を開けることには多少の抵抗があったが、詩乃はそっと冷蔵庫を開けて牛乳を取り出した。マグカップの場所も電子レンジの扱い方も聞いている。薄暗いキッチンに、レンジが起動する音が響いた。高砂が起きないか心配したが、杞憂だったようだ。
温めが終了するのと同時に扉を開ける。その瞬間、リビングに通じる扉も開いた。
「なんだ、逢坂か」
「先生…」
西園寺が、そこに立っていた。キッチンは暗いので逆光になっていて、表情は見えない。
「どうした。眠れないか」
「はい。それであの、ホットミルクを…。すみません」
「なんで謝る。好きにしていいって言っただろ」
「あ、はい…。先生も、まだ起きていたんですね」
「寝る前に一服してた」
「そう、ですか…」
夜だからだろうか。あたりが静かで薄暗い中、西園寺の声がいつもより低く響く。それともこれは、詩乃の意識のせいだろうか。
「高砂は寝たか?」
「あ、はい」
「じゃあ突っ立ってないでこっち入って来い。そんな暗い中でホットミルク飲む図って、ちょっと怖い」
言って、西園寺はリビングの中に入っていった。少し迷って、詩乃も続いた。
リビングでは、ソファでキヨ子が丸くなっていた。寝室にいる高砂と同じように、背中が小さく上下している。丸くてほわほわでかわいい。
そのソファの上ではなく、西園寺は床に座ってソファに寄りかかった。ぽんぽんと床を叩くところを見ると、隣に座れということだろう。素直にてくてくと歩き、詩乃は隣に膝を抱えて座った。両手で持ったホットミルクはまだ熱く、少し冷やさないと飲めない。
「少し砂糖でも入れるか?」
「え?」
「ミルク。甘いほうが眠れるような気がする」
詩乃は一瞬目を丸くした。その言い方。まるでたけうまのようではないか。いや、ホットミルクは甘くするものだというのは一般的なのかもしれないが。
「逢坂?」
「あ、えっと…。じゃあ、少し、お砂糖入れます」
「持ってくる」
「いえ、自分で行きます」
「砂糖の場所まで教えてないからな。おとなしく待ってなさい」
西園寺の言うことももっともだったので、詩乃は浮かしかけた腰を下ろした。
スティックシュガーとティースプーン、それに自分用のビールを持って、西園寺は戻ってきた。
「ほら」
「ありがとうございます」
礼を言って砂糖をマグカップに入れる。牛乳の匂いが少し甘さを帯びて、詩乃は自分が落ち着いていくのを自覚した。
「あの、先生」
「うん?」
缶ビールのプルタブを開けながら、西園寺が詩乃を見る。
「ありがとうございました」
「どの話だ?」
「どのって…。まあ、確かにいろいろありましたけど。全部です」
ビールを流し込むと、西園寺の喉が動いた。男の人なのだと、そう思った。
「病院から連れ出してくれた時、本当に、助けてもらった感じがしたんです。なんていうか、引っ張り上げてもらったような…」
「そうか。そりゃ良かった」
「ずっと、気にかけてくださったことも。先生からしてみれば、お身内が関わっているからなんでしょうけど。先生には事情を説明しなくてよかったから、あたし、少しは気が楽だったんだと思います」
考えながら、詩乃はまだまだあると言葉を続ける。
「甲斐田さんと話していた時も、先生が声をかけてくれなかったらどうなっていたか。落ち着いたら、あの子ともちゃんと話します。あの子はきっと、あたしとは別の意味で不器用なだけだと思うんです。…悪いことをしてしまいました」
「誰が悪いって話じゃない。まあ、二人とも不器用で生真面目なのは誰が見ても分かるが」
「はい。麻里とも話す決心がつきました。明日、ちゃんと話そうと思います。聞いてくれなくても、聞いてくれるまで」
「ああ」
「それに、うどんもエビマヨもすごく美味しかったし…」
「うん」
「あたし、先生に言われるまで、自分がこんなに甘えてるなんて考えもしませんでした。本当に、未熟者で恥ずかしくて…」
そこで、ふっと西園寺が笑った。
「高々齢十七の小娘が成熟してたら、教師の立場は無いよ」
「それはまあ、そうですけど…」
「青の時代ってのは恥ずかしいもんだよ。お前だけじゃない。俺も高砂も、冷静に思い返せば後ろからぶん殴って簀巻きにして川に投げ捨てたいくらいだ。若気の至りとはよく言ったもんだな」
「……後ろからぶん殴って簀巻きにして川に投げ捨てたいほどのこと、何かしたんですか?」
少々の間があった。
「先生?」
ごくごくと、西園寺はビールを仰ぐ。
「先生…」
「まあ、それはともかく」
ビールを床に置いて、西園寺は言った。
「自分が甘ちゃんで未熟だってことに気付けたなら、もう大丈夫だ。昼間も言っただろ」
「そうですね…」
飲める温度になってきた牛乳を、詩乃はこくりと飲んだ。甘くて美味しくてほっとする。
「…お母さんの代わりの正しさ、か」
隣で、西園寺がつぶやいた。
「ショックだったか」
詩乃はうつむいた。そして小さくはいと答えた。
ぽつりぽつりと、幼いころから正しい選択を迫られていたということを話した。グループ分けも、班長も、偽善的な親切も。
「あたしが正しくあれば、お母さんが喜んでくれたんです。片親だけど立派に育ってる、育ててるって言われるのが、嬉しかったんだと思います。あたしも、お母さんが喜んでくれるのが嬉しくて」
けれどいつのころからか、それは負担に変わっていった。
一般的な正しさではなく、母親が喜ぶ選択が詩乃にとっての正しい選択へと変わっていった。自分が選びたい方向でなければ、もちろん心労になる。けれど、それを口に出すことは間違ったことだと思い込んでいた。
「どうしてこうなったんでしょう…。あたしはただ、お母さんに喜んでもらいたくて」
「お母さんのことを、思いやり過ぎたんだろうな。よく出来た娘さんだよ」
西園寺はそう言ったが、詩乃は首を横に振った。
「違います。あたし、そんなんじゃないんです」
マリ、というハンドルネームに、詩乃の思いは込められている。それを西園寺に言うことは出来ないが。
「あたし、違うんです…」
これでは、西園寺も何が言いたいのか分からないだろう。それでも説明できずにいる詩乃の頭を、西園寺はよしよしと撫でた。
「そうか。わかった」
わかってなどいないだろうに、彼はわかったよと繰り返す。
「…あたし、こんなに頭撫でられるの久しぶりです」
「お、そうか。悪い」
すっと手を放す西園寺に、詩乃は慌てて追いすがった。
「違うんです。久しぶりで嬉しいんです。だってお母さんはもう全然だし、昔よくこうしてくれた人は」
崇は知らない女性と結婚してしまった。きっともう、撫でられても嬉しいとは感じない。
「だから、あの」
「そうか。よしよし」
そう言って、西園寺はまた撫でてくれた。少々乱暴に。頭を撫でてほしいなど、まるで小さな子どものようだ。来年には大学生になろうというのに。けれど詩乃は、されるがままになっていた。母親の手とはもちろん崇の手とも違う西園寺の大きくて骨ばった手が、妙に心地良くて安心する。自然に瞼が下がってきた。
「逢坂?」
詩乃は意識を手放していた。すうすうという寝息が、詩乃からの返事だった。
西園寺は、そっと詩乃の手からマグカップを引き取った。少しだけ中身が残っている。それをテーブルの上に置いて、扉に向かって小さく声をかける。
「篤子」
呼びかけに応じて、高砂が扉を開けた。
「眠った?」
「ああ。運ぶから手伝ってくれ」
「はいはい」
リビング側の扉を大きく開けて、高砂はキッチンを横切って寝室の扉も開け放つ。掛け布団をどかして詩乃が寝られるスペースを空けた。
詩乃を寝かせて布団を掛け直してから、西園寺はじろりと幼馴染を見た。
「何よ」
「お前、逢坂に余計なこと話してないだろうな」
「女子会の中身なんて、男に話すわけないでしょ」
「女子って歳かよ、厚かましい」
言った瞬間、高砂の拳が西園寺のボディに入った。
「お前…」
「静かにしてよ。逢坂さんが起きるでしょ」
西園寺は言葉につまり、舌打ちして寝室から出ていった。高砂も後を追い、途中キッチンの冷蔵庫からビールを取り出して西園寺に並んだ。
「熱血を取り戻しつつある幼馴染に乾杯」
「寝たふり以外に特技の無い幼馴染に乾杯」
「お黙り、このなんちゃってクールが」
「うるさい、このなんちゃって女子が」
「何をう、この優しさと美的感覚ズレズレ大魔王」
「美的感覚は今関係無いだろ。そもそもお前が言うな、間の悪いこと山のごとし女王」
「一味唐辛子オタクのくせに」
「黙れ、ミラクル料理音痴が」
「ミラクルすっとこどっこいに言われたくない」
「ミラクルなすっとこどっこいってどんなだよ」
しばらくにらみ合っていたが、やがてお互いに飽きたので止めた。仕事中はお互いに社会人として規律を守っているが、二人きりになるとこんなものだ。詩乃よりは年上というだけで、この二人も年若いことに変わりはない。
ごくりと音を立ててビールを飲んでから、高砂は言った。
「心配しなくても、あの子はあんたに依存なんかしないと思うわよ」
「……お前、やっぱりなんか余計なこと言ったな?」
「あのね、拓巳。人生に余計なことなんて無いの。辛くても苦しくても、あれもこれもが必要なことなの」
「なんだその良い笑顔は」
「こちとら生まれたときからこんな良い顔よ」
「篤子」
たしなめるように名前を呼ばれて、高砂が肩を竦める。
「柄にもなく素になっちゃって。あんたが生徒のことをお前呼ばわりしてるのなんて何年振りかしらね。そんなにあの子が心配?」
「…一応、俺の身内のせいでもあるからな」
「ふうーん?」
目を逸らした幼馴染に、高砂はくすりと笑った。
「さ、寝ようかな。寝不足はお肌の敵だから」
「心配しなくてももう手遅れだっ!」
ぎゅむむと幼馴染の頬をつねり上げてから、高砂はビールを一気に飲み干した。
「お休み、いい年して豆電球点けてないと眠れないたっくん」
「ああ、お休み、万年竹馬二番手殿」
お互いに嫌味を言い合ってから、同時にふんっとそっぽを向いた。
もちろん詩乃は、この教師二人の子どものようなやり取りを知らない。朝起きたら高砂と寝ていた位置が逆になっていたが、高砂がトイレに起きたのだと言われて納得した。