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 自宅に帰るのは、甲斐田と話すときよりもよほど緊張した。自分の家だというのに落ち着かない。手に汗をかく。ごくりと唾を飲む。

 扉を開けなければ。ああでも、緊張する。

 いや、しかし。

「だからって…」

 詩乃は玄関先で振り向いた。

「なんで全員で来るの?」

「だって心配で」

「乗りかかった船だし」

「ぶっちゃけ好奇心」

 振り向いた詩乃に、麻里、浩倫、浩章が答える。詩乃はもちろんほかの三人も制服姿で、自宅に帰る詩乃に付いてきたのだ。

「好奇心て…。もうちょっと言い方があるでしょ」

 呆れる麻里に、浩章はしれっとしたものだ。

「俺は歯に衣を着せないタイプだから」

「なるほど。着せるほど衣を持っていない感じがよく出てる」

「それどんな感じ?」

「まあまあ二人とも。玄関先で騒いだら迷惑だろ」

 浩倫が言って、詩乃もうなずく。

「とりあえずお茶でも飲ませてもらいながら話そう」

 浩倫が続けて、詩乃もうなず――けない。

「あのね。あたし今からお母さんとけっこう大事な話をするんだけど」

「うん。だからお茶でも飲みながら落ち着いて話そう」

「仕方がない。そうしようか、逢坂」

「あんたたちは帰りなさいよ。あたしは純粋に詩乃を心配してるんだから」

「俺だって純粋に喉が渇いたんだよ」

「そうだよ。純粋な好奇心だよ」

「そこ絶対威張るとこじゃない」

 わいわいと言い合う三人に、詩乃は気持ちが揺れていた。これは詩乃と母親の問題であって、三人には関係が無い。どうしても帰ってくれと言えば帰るだろう。そういう仲間たちだ。だが反面、この三人にいてもらえれば心強い。なんだかんだ言っているが、心配してくれていることは解っている。詩乃や母親が話の途中で感情的になってしまっても、三人がいれば冷静にもなれるだろう。

 どうする。

 いてもらいたい。けれど、一人で母親と対峙すべきだとも思う。西園寺に言われたとおり、声が枯れるまで。

「ごめん、みんな。やっぱり今日は―――」

 帰ってほしい、と言いかけたところで、廊下の向こう側から母親が帰ってくるのが見えた。詩乃が固まり、その様子を見てほかの三人も振り返る。

「詩乃。それに、あなたたち…」

「おばさん、お久しぶりです」

 先頭切ってそう挨拶したのは、麻里だった。

「ええ。久しぶりね、麻里ちゃん。おばあさんは元気?」

「はい。とっても」

 麻里の祖母は、伊藤内科の患者なのだ。おばあちゃん子の麻里は時々病院にも付いて行っているので、患者家族として顔を合わせることも多い。

「浩章くんと浩倫くんも。元気みたいね」

「お久しぶりです」

「ご無沙汰しています」

 生徒会での仕事を逢坂家で行ったこともあるので、みんな顔見知りだ。

「それで、みんなどうしたの?」

「お母さんと、話をしようと思って…」

 小さな声で詩乃が言うと、母親は眉を寄せた。

「あなたはお母さんと話をするのもお友だちがいないと出来ないの?」

「そう、なんだけど…」

「違うんです、あたしたちが勝手に付いてきたんです」

「でも詩乃がいていいって言ったからいるんでしょ?」

「いや、いていいとは一言も言われてないですよ。ただ、喉は渇いています」

「というか、ぶっちゃけ好奇心で」

 言っている途中の浩章の肩を、麻里がばしんと叩いた。

「なんでそこでぶっちゃけるのよ!?」

「歯に着せるほど衣の持ち合わせがないんだよ」

「なるほどね、そんな感じがよく出てるもんね」

「だからそれどんな感じ?」

「あのね、あなたたち。これは私たちの問題だから。悪いけど帰ってもらえないかしら」

「いさせてください。あたしもおばさんに話があるんです」

「麻里ちゃん、それは今度聞くわ。あなたたちは受験生なんだから、余計なことに首を突っ込まないで勉強を…」

「余計なことなんかじゃない!」

 叫んだのは詩乃だった。四人が一斉に注目する。

「お母さん、今あたしたちの前にある問題って、余計なこと? 違うよね?」

「いえ、それは…。私たちにとっては余計なことではないけれど、この子たちにとっては」

「余計じゃないです。―――大切な、友人の問題ですから」

 麻里がきっぱりと言い切って、浩章と浩倫もうなずいた。

 

 結局五人そろって逢坂家のリビングに腰を落ち着かせた。とはいっても二人暮らしの家に五人分の椅子は無く、詩乃、麻里、母親はダイニングテーブルに座り、浩章と浩倫は近くに立っている。

「お母さん」

「…なあに」

 詩乃は、母親がどこか諦観しているような印象を受けた。

「あたしの正しさは、お母さんの代わりだったんだよね? あたしの為じゃなく、お母さんの為の正しさだったんだよね。お母さんが、もう後悔しない為に」

「………」

「お母さんは自分が正しいと思う方をあたしに選ばせてきたけど、それは正しかったの?」

 完全に間違いだったとは、詩乃は思わない。結果的に礼儀や人情は学べたと思う。けれど、その過程が本当に正しいことなのかどうか、疑問にも思う。

 なぜなら詩乃は、それが正しいからではなく母親が喜ぶから選択してきたのだ。それは極論を言えば、母親が犯罪を是と言えば詩乃も是ということになる。

 それは、違うと思う。詩乃は、ある意味で盲目だった。

「でもそのことは、もういい。これからは、ちゃんと自分で考えて選んでいくから。お母さんとぶつかってでも、自分で考える。お母さんは、認めてくれないかもしれないけど…」

 けれど詩乃はもう、自分で考えることを知った。その重要さに気が付いた。

「あとね、お母さん。お母さんが、どんな選択ミスをしてお父さんの死につながったのかは知らない。けどね、それ勘違いだと思う」

 ぴくりと、母親が反応した。

「勘違いだよ。だってお父さん、お母さんのことが大好きだったんだから」

 父親が亡くなったのは、詩乃が四歳の時だった。記憶はおぼろげだが、覚えていることはある。

「お母さんの言うことを聞いて、仲良くしなさいって。お父さんは、二人のことが大好きだって言ってたよ」

 父親は病気で亡くなった。苦しい闘病生活の中、詩乃にはいつも笑顔だった。痩せ衰えていく父親を、詩乃なりに心配して父親にしてほしいことを聞いたのだ。そうして返ってきた言葉が、その言葉だった。

「判断ミスって何? お母さんが違う判断をしていたら、お父さんは今も生きていたの? そういう病気だったの?」

「それは…。あの人は、癌で…。でも、もしかしたらもう少しくらいは」

「それ、お母さんの思い込みだよ。お母さんの判断ミスで死ぬなんてお父さんが思っていたら、あんな言葉は言わなかったはずだし、あたしに笑ってくれることもなかったと思う」

「でもね、詩乃。あのとき、お父さんが退院したいって言ったときに、もう少しでも病院に留まらせておけば、その分生きられたかもしれないの。お母さん、お父さんが家にいればあなたにも淋しい思いをさせずにすむと思って退院させてしまったけれど、その判断が間違えていたとしか思えないの。そもそも、お母さんは看護師なのよ。お母さんがもっと早くに気が付いて受診させていれば」

「それを決めるのは、お母さんじゃなくてお父さんだよ」

 詩乃の言葉に、母親ははっとした表情を見せた。

「お父さんは、家に帰ってこられて喜んでたよ。あたしも喜んだよ。お父さんもお母さんも家にいたから。それのどこが判断ミスなの?」

 母親は答えない。次に口を開いたのは、それまで黙っていた麻里だった。

「あたしも詩乃の言う通りだと思います。おばさん、うちのおばあちゃんが入院してたの知ってますよね。伊藤内科じゃなかったけど」

「ええ…」

「うちのおばあちゃん、帰りたい帰りたいって言って、予定よりも少し早めに帰ってきました。そしたらおばあちゃん、うちを見た途端すごくほっとした顔したんです。自分の家なら、お迎えが来ても怖くないわって。みんながいるからって。詩乃のお父さんとは病気が違うし、おばあちゃんは今は元気ですけど。でも、同じような気持ちだったんじゃないでしょうか。入院先のベッドで、一人でお迎えを待つのは怖かったと思うんです。せめて、家族のそばにいたいって思っていただけじゃないでしょうか。その希望を聞いてあげたことの、何が判断ミスでしょうか」

「俺もそう思います」

 すかさず口を挟んできたのは浩倫だ。

「俺、小学生の時に怪我して入院したんです。たった一週間の入院でも、やっぱり怖くて眠れませんでした。怪我は痛かったけど、どこにいても痛いなら家にいたいってずっと思ってました。そういう気持ちって、患者本人にしか分からないと思います」

「…癌なら、それこそ痛みとの闘いだったろうな」

 浩章がぼそりとそう言うと、母親はきつく目をつぶった。そんな母親に、詩乃はさらに言葉を続けることを躊躇った。母親を責めたいわけではない。けれど、これ以上続けたら責めているようだ。まだ、一番言いたい言葉を言っていないのに。

 膝の上でそろえた両手を、ぎゅっと握りしめた。

 

――がんばれ。

 

 西園寺の声が、聞こえた気がした。

 詩乃は大きく息を吸った。

「お母さん。あたしね、お母さんを盗られるのが嫌だったの」

「………」

「あたしだけのお母さんでいてほしかったの。知らない人がいきなりやってきて、お母さんと結婚するなんて嫌だったの。……あたしが、お母さんに甘えたいだけだったの」

 白くなるほど力を入れた拳に、麻里が上からそっと自分の手を重ねてくれる。それで、肩から力が抜けた。

「経済的なことを考えてくれていたとしても、嫌なの。十四年間も父親がいなかったのに、知らない人が急に父親になるって言われても困るよ。お母さんだって、あたしのクラスメートがいきなり息子になるって言われても困るでしょ。同じだよ」

 麻里の暖かな手を、詩乃も握り返した。

「あたし、お母さんと二人で十分幸せだよ」

 母親は、何も答えない。答えが見つからないのかもしれない。詩乃は息をついた。

「あたしが言いたいことは、これだけ。あたし、今日も先生の所にお世話になるね。……枕とのど飴、ありがとう。おかげでよく眠れたよ」

 母親は、詩乃を見た。切なげな、なんとも言えない表情だった。

「みんな、行こう」

 麻里たちに言って、詩乃は立ち上がる。麻里も立ち上がり、お邪魔しましたと頭を下げた。浩章と浩倫もそれに倣って、四人は逢坂家を出る。玄関を出たところで、詩乃は大きく息をついた。

「お疲れ」

 ぽんと、詩乃が背中を軽くたたいてくる。

「うん。付き合ってくれてありがと」

「気にするな。ぶっちゃけただの好奇心だ」

「何度も言うけどそこぶっちゃけるとこじゃないよね」

「お茶が飲みたかっただけだ」

「水たまりでも啜っていなさい」

 軽口をたたき合い、四人で笑った。

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