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夜。西園寺の家で、今日は詩乃が夕飯を作った。メニューはカレイのみぞれ煮だ。付け合わせには豆腐とわかめの味噌汁と小松菜のお浸し。昨日の夕飯が中華でこってりしていたので、バランスを考えてみた。西園寺と高砂は、あっさりとすべてを平らげ、すでにビールをあおっている。

「美味しかったー。逢坂さん、いつでもお嫁にいけるわね」

「いえ、そんな…」

「いや、美味かったよ。その年でこんだけ作れればたいしたもんだ。なぁ?」

「…何が言いたいのかしら」

「別に? 一般的な同意を求めただけだが」

 しれっと答える西園寺の肩を高砂がばしんと叩く。そのやり取りを見て、詩乃は笑った。

「でも、お母さんと話が出来て本当に良かったわ。がんばったわね」

「話が出来たというか、一方的に話したというか…」

「それでも、大きな一歩よ。良い仲間に恵まれたわね」

 生徒会の仲間たちは、あのあとそれぞれ塾や習い事に向かった。浩章は好奇心だなどと言っていたが、好奇心だけで受験生が塾に遅れて行こうとは思わないだろう。彼らしい気遣いに、詩乃は感謝している。

「先生たちのおかげです」

 詩乃は、高砂と西園寺に頭を下げた。

「ありがとうございます。先生たちが助けてくれたから、話が出来ました」

 それから、西園寺にはにかんだ笑顔を見せる。

「先生ががんばれって言ってくれたから、がんばれました」

 がんばれなんていう言葉、追い詰められるだけのような気がしていたのに。西園寺の心からのがんばれは、ただ、うれしかった。

「心強かったです。本当に」

 詩乃の言葉に、西園寺は黙ってビールを飲んでいたが、やがて「そうか」と笑った。空いている手で詩乃の頭を撫でてくれた。

「がんばったな」

「はい!」

 その様子を見て、高砂が嬉しそうに笑っていた。

 

 その後二日間、詩乃は西園寺の家にいた。

 事態が動いたのは三日目だ。まず、荒木からの依頼が、思いもよらない形で解決を見た。

 なんだかんだで、詩乃は荒木に会ったことはなかった。最初に彼女を生徒会室に呼び出したときは詩乃にほかの用事が入り、その後も早退したり彼女の方に塾があったりと、中々タイミングが合わなかったのだ。

 彼女の顔写真を撮るために初めて顔を合わせたとき、彼女は詩乃を見て目を見開き、その場にいた麻里、浩章、浩倫に深く頭を下げた。

「ありがとうございます…! まさか本当に見つけてもらえるなんて」

 この言葉に、詩乃たち四人は目を点にした。

「……え、どういうこと?」

 戸惑う麻里に構わず、詩乃に駆け寄った荒木は抱き着かんばかりの勢いだ。

「その節は、本当にありがとうございました! 私、助けてもらって嬉しかったのに、ろくにお礼も言わないで…。ずっと探していたんです」

「それって…」

「ちょっと待った。え、つまり――」

「詩乃がX!?」

「ええっ?」

 麻里たちはもちろん、詩乃だって驚いた。この展開はなんだろう。

「いや、だって…。え、あたしが?」

 身に覚えがない。確かに商店街にはよく行っているが、倒れた自転車を起こすようなこと、あっただろうか。

「ちょっと詩乃、本当に覚えてないの?」

「ええと…。ちょ、ちょっと待って」

 一生懸命思い出そうと努めるが、混乱していて頭が働かない。慌てる詩乃に、浩章が詰め寄ってきた。

「逢坂詩乃。入学式の二日前、どこで何をしていたか白状してもらおうか」

「いやいや、取り調べじゃないんだから」

「なんならカツ丼とってやるぞ。みっちーが」

「なんで俺?」

「そこ、二人ともうるさい。さぁ詩乃、ちゃっちゃと思い出して。大体一か月前、商店街、自転車、荒木さん、カツ丼!」

「いや、カツ丼は関係ない」

「やかましい!」

「あ!」

 喧騒の中、詩乃はやっと思い出した。そうか、あの日。確かに自転車を起こしたような気がする。すっかり忘れていた。何故ならあの日は。

「お母さんから、再婚の話をされた日だ…」

 今回の騒動のきっかけになった日。あの日は崇から第一子誕生の報告もあって、詩乃はひたすら愕然としていた。パソコンの前に座って、憑りつかれたように喉飴を舐めて詞を紡いでいた。

 商店街へ行ったこと自体、忘れていた。

「……ああ」

 そういうことかと麻里たち三人は納得してくれたが、荒木はきょとんとしている。そして、少し表情を暗くした。

「すみません、勝手に盛り上がって…。ご迷惑でしたよね」

「あ、待って。違うの。ええと…。その日はちょっと、自宅でショックなことがあって」

 こんな言い方では何も伝わるまい。しかし詳細を話すのは気が引ける。

「とにかく、荒木さんのことは迷惑でもなんでもなくて。むしろお礼を言うためにわざわざ探してくれたなんて、こっちこそありがとう」

 言葉を選びながら言うと、荒木はやっと顔をほころばせた。

「すぐに思い出せなくてごめんね。学校にはもう慣れた?」

「はい。クラスメートもみんな仲が良くて」

「そう。良かった。入院するのよね。迷惑じゃなかったらお見舞いに行ってもいいかな?」

 詩乃の申し出に、あたしも俺もと麻里たちから声が上がる。荒木は、ますます明るい表情で大きくうなずいた。

「ありがとうございます。すっごくうれしいです」

 小柄な荒木が目を輝かせている。まるで子犬がぱたぱたと尻尾を振っているようでかわいい。そこで、でも、と言葉を発したのは麻里だった。

「あたしたち、ずっとXは男子生徒だと思ってたよ。ごめんね、勝手に早とちりして」

 あ、と荒木は口元に手を当てた。

「私こそすみません。私、助けてくれた人が女子生徒だってこと、手紙に書きませんでした。私がわかっているからって、無意識に省いたんです。確かに、男子とも書きませんでしたけど…」

「そうだよね。確かに詩乃の髪は長くはないわ。女子としては」

「ヒーローイコール男だって思い込んじまったな。先入観てのは恐ろしい」

 うなずきながら納得している浩倫に、みんな同じようにうなずいた。

「そっか…。あたしが、荒木さんのヒーローか」

 つぶやくように言って、詩乃は微笑んだ。

「うれしい」

 麻里を始め生徒会の面々、西園寺に高砂と、助けられてばかりの詩乃も、誰かの助けになっていたのだ。こんなにうれしいことは無い。

「荒木さん。手術、がんばって。…あたしもがんばるよ。色々」

 言って、詩乃は荒木に手を差し出した。詩乃のがんばれは、誰かの励みになれるだろうか。なれるといい。それはきっと、詩乃の強さにもなっていく。

 荒木は、迷うことなく詩乃の右手を両手で握った。

「はい、がんばります!」

 小さくて、温かい手だった。

 

 西園寺家の近くにあるスーパーに寄り、合い鍵を使って部屋に上がる。それがここ数日のルーティンとなっている。今日の夕飯は煮込みハンバーグだ。家主である西園寺ではなく、詩乃と同じく居候をしている高砂のリクエストである。

 買い物代は、教師二人からもらっている。最初は詩乃も払おうとしたのだが、二人は頑として受け取ろうとしなかった。

「キヨ子さん、ただいま」

 詩乃の呼びかけに、キヨ子はにあ、と返してくれる。もっとも、彼女が自分から擦り寄っていくのは西園寺にだけで、詩乃と高砂は彼女の機嫌がいい時だけ撫でさせてもらえる程度の仲なのだが。

 あとはハンバーグを煮込むだけ、というところまで仕込んで、詩乃は宿題に取り掛かった。曲がりなりにも、詩乃は受験生である。勉強を怠るわけにはいかない。一度家に帰った時に勉強道具はある程度持ってきたし、重い辞書や参考書は西園寺の家にもあるので、不足しているものはない。

 携帯にメールが届く音がして、詩乃はペンをテーブルに置いた。西園寺からで、今から帰るとだけ書いてある。それだけのことを喜んでいる自分には、もう気が付いている。

 それから二十分ほどで、玄関のチャイムが鳴った。詩乃が一人でいるときはチェーンまでかけるように言われているので、西園寺は自分の家にも関わらずチャイムを鳴らすのだ。

「はーい」

 チェーンを外して扉を開け、詩乃は固まった。

「…お母さん…」

 そこに、母親が立っていた。母親の後ろに、西園寺と高砂の姿がある。

「詩乃…」

 母親は、すっと内側に入ってきた。そうして、一も二もなく詩乃を抱きしめた。

「詩乃。大好きよ。……ごめんね」

 それだけで、十分だった。詩乃は止めていた息を吐き出し、母親にしがみついた。

「おかあさん…っ」

 母親の涙で詩乃の肩が濡れ、母親の肩もまた、詩乃の涙で濡れた。

 母親の身体は詩乃が記憶していたよりもずっと細くて小さく、この数日、思い悩ませてきたのかと思うと胸が苦しかった。

 

 伊藤義彦と話をしてきた、と母親は言った。

「待ってもらうことにしたわ。詩乃が、自然に会ってもいいって思えるまで」

「別れたわけでは、ないの?」

「そもそもね、付き合ってもいないのよ」

「は?」

 リビングにある小さなテーブルを挟んで、詩乃と母親は向かい合っている。家主の西園寺と居候の高砂は、ソファに寄りかかった状態だ。

「付き合ってないのにプロポーズしたの? されたの?」

「まあ、そういうことね。あの人、そういうところがありますよね、先生」

 言って、母親は西園寺に視線を向けた。

「……ご存知でしたか。私が、伊藤の甥であると」

「知ったのは昨日です。わざと隠していたみたいですよ」

「すみません。騙すつもりはなかったのですが」

「謝っていただくことではありません。予(あらかじ)め聞いていたら、それはそれで迷う材料となっていたでしょうから」

 くすっと笑って、母親は詩乃に視線を戻した。

「私もね、正直寝耳に水だったの。プロポーズされてから色々話をして、それで前向きに考え始めたのよ。最初に話があったのは、もう一年以上前になるわ」

「そう…だったの」

「もっと正直に言えば、詩乃の言う通り、経済的なことも考えたの。詩乃が本気で出版社に就職したいなら、大学で何を学んでもプラスに働くはずだもの」

「お母さん…」

「それが、詩乃の為だと思ったの。そして、それを詩乃に言うべきじゃないと思っていたの。でもとんでもない思い違いね。確かに自己満足だわ。そのことも打ち明けてきたの。情が無いとは言わないけれど、お金のことも考えたって」

 正直すぎると詩乃は思ったが、口には出さなかった。

「あの人が、せめて納得してお金を出せるように、詩乃のことを気に入ってもらいたかったの。だから必死で、あんなワンピースまで買って…。馬鹿だった。恥ずかしいわ」

 母親はそっと手を伸ばし、詩乃の頬を撫でた。涙が渇いたその頬を。

「詩乃の気持ちが一番大事なのに、詩乃の為と思い込んで結局追い詰めて…。本当に、ごめんなさい」

 こんなに申し訳なさそうな母親は初めて見る。その気持ちが痛いほど伝わってきて、詩乃はゆるゆると首を振った。

「先生方にも、大変なご迷惑をおかけいたしました。こんなにお世話になって、なんとお礼を言えばいいか…」

「いいえ。教師ですから」

「共同生活も楽しかったですよ。終わるのが残念なくらいです」

 西園寺と高砂が口々にそう言うと、母親も少し笑った。

「こんなことになって…。西園寺先生が伊藤先生と気まずくなったりは…」

「しませんよ。ご心配は無用です。近い将来に笑い話になりますから」

「なんなら今も笑いますよ。私が」

 お前かよ、と西園寺の唇が動いたことに詩乃は気が付いたが、それが音になることは無かった。母親がいる手前、自重したのだろう。

 さて、と高砂が手を叩く。

「じゃあ話がまとまったところでご飯にしませんか。逢坂さん…あ、詩乃ちゃん。ハンバーグに余裕はあるんでしょ」

「あ、はい。もう煮込むだけの状態にしてあります」

 カレイを煮込んだ時に高砂が弁当にも持っていきたいと言った為、夕飯はいつも多めに作るようにしたのだ。

「よし、さすがね」

 高砂がにっこり笑うと、詩乃はなんだか安心する。西園寺に頭を撫でられても安心する。息がしやすくなる。この数日で、詩乃にとって二人はそういう存在になっていた。

 

 そうして詩乃は、母親とともに自宅に帰った。今日は一緒に和室で寝ようと言われ、勢いよくうなずいた。

「あのね、詩乃。これだけは覚えておいて欲しいんだけど」

「何?」

「私にとって、今一番大切なのは詩乃。一番愛しているのはお父さん。これだけは、今後も死ぬまで変わらないわ。そのことは、伊藤先生にも言ってあるの。一年前から」

「………」

「言わない言葉が伝わるわけがないのよね。ああ、本当に恥ずかしい」

 和室に敷いた布団に仰向けになって、母親は両目を覆った。泣いているのかと心配したが、母親は笑っていた。

「詩乃は、これからは私に遠慮せずに自分で考えた答えを信じなさい。言いたいことはなんでも言って。答えが出ないことは、一緒に考えましょう」

「…うん、お母さん」

 詩乃の言葉には意味が無い。

 何度も何度もそう思った。実際、詩乃の言葉で諍いが起こったこともあった。傷つけた人もいる。けれど、詩乃は言葉を発しても言葉を尽くしてはいなかった。叫んでも喚いてもいなかった。西園寺の言う通り、届ける努力もしないままに届かないと決めつけていた。

 伝えようとしなければ、伝わるものなどないのに。

 言葉に力を。心底そう思う。

 大好きな母親とともに、詩乃は眠りに落ちた。

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