もう、一週間以上前の話だ。今と同じく、食後の緑茶をすすっているときだった。
「あのね、詩乃。お母さんね、プロポーズされてるの」
十七年間生きてきて、それなりに日本語は知っているつもりだった。
けれど母親のその言葉は、理解するのに数十秒をかけなければならなかった。
「詩乃がいいって言ってくれたら、受けようかと思ってるの」
そう語る母親は、ふざけているようには見えない。そもそも、冗談を言う人ではない。
「詩乃も何回か会っている人でね。職場の人なんだけど、ほら、わかるでしょ? 伊藤義彦さんっていうお医者さん」
どういう反応をすればいいのかわからず、詩乃は瞬きをした。その男なら知っている。看護師である母親の職場で、何度か会った。失礼ながらあまり二枚目には見えないが、優しそうな医師だと思った覚えがある。ただ、母親よりはだいぶ年上のはずだ。
「ごめんね。いきなりこんな話をしてもびっくりするだけよね。でもお母さんも義彦さんも急いでなんかいないから、考えてみてほしいの」
「義彦さん…ね…」
つぶやくようにそう言って、詩乃は立ち上がった。
「わかった。考えとく。お風呂入ってくるね」
一気に言って、浴室へ向かった。母親の顔は見なかった。
そうしてその夜、崇から母親の携帯電話へ連絡があり、第一子の誕生を聞かされた。その日、詩乃は自分が何を思いどんな行動をしたのか覚えていない。
ただ、母親と崇のはしゃいだ声を遠ざけたかった。逃げ出したかった。その気持ちしか覚えていない。
ああ、あたしは選ばれないんだな。ぼんやりと、そう思っていた。
詩乃の父親が亡くなってから約十四年。母親は一人で詩乃を護り、育ててくれた。もちろん祖父母に預けられたり一時保育に預けられたりもしたが、基本的には一人だ。経済的にも心理的にも、もちろん肉体的にも大変だっただろう。女同士、本気で喧嘩をしたこともあるが、それでも二人で仲良く平和に暮らしてきた。父親代わりというプレッシャーもあったのだろう、母親は間違ったことが大嫌いで躾には厳しかったが、おかげで一般常識とある程度の礼儀は身についたと思っている。
新しい家族など、考えたことも無かった。考える必要など無かった。
あの時、母親の話を聞くまでは。
あれから一週間以上。何も言わない詩乃に対し、さすがに母親も返事が気になっているのだろう。
「ねえ、義彦さんがね、ぜひ一度詩乃も交えて食事がしたいって言っているの。来週の日曜日を考えているんだけど、どう?」
うつむいたままの詩乃に、母親は言う。
「義彦さんがどういう人かを見てから決めていいから。詩乃も、ろくに話したことが無いのに決められないでしょう?」
「それは…そうだね」
「じゃあ決まりね。来週の日曜日ね」
「うん…」
うなずいた詩乃に、母親はそうだと声を上げた。
「今度の日曜日には食事会用の服を買いに行かない? 崇くんへのお祝いも一緒に」
「…そだね」
頬の内側を噛むようにして、うなずいた。
*
so long
告げた時の顔を思い出せない。
残酷なヒト。
残酷なワタシ。
残酷なサヨナラ。
いつかまたとは思わない。もう、想わない。
思い出せないあなたに祈る。
……幸せになって。
*
崇が結婚した時に書いた詞だ。読み返して顔が歪む。我ながら大嘘だ。苦笑すら白々しい。新しいページを開いてこう書いた。
*
嘘をついた。
嘘をついた。
嘘をついた。
そこにいるのは、誰よりあたしが良かったのに。
――彼女じゃなくて誰でもなくて。
*
こんな風に、誰に向けてでもなく書いたところで、気付いてほしい人には絶対に気付かれない。解っている。それでも、詞を書くことは詩乃にとって空気と同じだ。
誰にも見えはしないが必要不可欠なもの、という意味で。
パソコンの前で、ぼんやり考える。
崇が入籍したのは二年前。資金が溜まったら挙式をすると言っていたが、貯まる前に奥方の妊娠が発覚して、挙式は延期になった。詩乃はそっと胸をなでおろしたものだ。
大好きな崇が選んだ相手など、視界に入れたくもない。一緒にいるところなど想像したくもない。子どもの我儘だと言われればそれまでだが、笑っておめでとうなどとは口が裂けても言いたくなかった。何故ならそんなことは露ほども思っていないから。崇が選んだのだからいい女性であることは間違いない、それをどこかで理解していても。
ため息を吐く間もなく、母親の言葉が甦る。話を聞かされてから一週間以上、頭から離れたことはない。ぼうっとしていることが多くなり、あの話をされた日からこっち、どう過ごしてきたかも覚えていないくらいだ。あの日、商店街へ買い物に行って夕飯を作ったような気もするが、何を作ったのかさえも覚えておらず、受験生だというのに勉強にも集中できない。
考えなくてはいけない。わかっている。答えは出さなければならない。知っている。
けれど。
「…まずは、書類作らなきゃ…」
現実から逃げるようにつぶやいて、詩乃は文章作成ソフトを立ち上げた。現実逃避だろうがなんだろうが、書類は作らなければならないのだ。やることがあって助かったと、思っていた。
パソコンは好きだ。今の時代、将来どんな職に就いてもパソコン技術は役に立つ。詩乃が希望する出版社だって、それは変わらないはずだ。進級した直後に配られた進路調査票には、出版社への就職率が高い学部のある大学を記入した。もちろん公立だ。推薦がもらえれば、入試はだいぶ楽になる。
お気に入りの喉飴を引き出しから取り出し、口に放り込んでから詩乃は書類を作り始めた。
「えーと…。まずは上岡先生のほうから」
二年三組一同が書いた文章は、熱意は伝わってくるがいま一つまとまっていない。とにかく上岡に対する不平不満を殴り書きしてあるだけだ。これをきちんと文章にまとめ、見やすいように書き直さなければならない。
まずは要望を書き、どうしてそこに至ったのかを具体例を挙げながら説明する。要望は文章で、経緯は箇条書きで。年配の、老眼鏡が必要な教師が読むことも考慮して、フォントは少し大きめに。どれも西園寺からのアドバイスを基にしている。
一時間ほどかけて納得のいく書類を作り上げると、次は一年四組荒木加奈子の依頼だ。こちらは西園寺にはまだ提出しないが、目安箱に入っていた内容はすべて清書してファイルに綴じることにしている。
メモ用紙にあった文章をそのままパソコンで起こして、別紙には荒木加奈子を呼び出した際に聞くべきことを書いた。これは詩乃たち生徒会役員用の走り書きのようなものだ。
一応、授業が多いというどうしようもない要望も清書し、印刷してクリアファイルに綴じ、鞄に入れた。すべての作業が終わったのは、二十二時近かった。
パソコンの電源を落とそうとしたとき、開きっぱなしにしていたブログに新着コメントがあることに気が付いた。送り主はたけうま。もっとも多くコメントをくれる相手だ。
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マリさんへ
今日はよく晴れていましたね。私は雨もそれなりに好きですが。
しかしあなたは正直者ですね。とても良いことだと思います。
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マリというのは詩乃のハンドルネームだ。これは偶然そうなっただけで、友人の斎川麻里からとったわけではない。麻里と知り合う前からこのハンドルネームを使っている。そして、今問題なのはそこではない。
「……正直者…?」
嫌味だろうかとまず思った。今までのやり取りで、そんな嫌味を言われたことはないが。
パソコンの電源を落とすのを止め、コメントに返信した。
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たけうまさんへ
こんばんは。
さっそくですが正直者とはどういうことでしょうか。
嘘を吐いたと、告白しているのですが。
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少し待っていると、返信があった。たけうまもまだブログを開いているらしい。
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マリさんへ
すみません、言葉足らずでしたね。
自分に対して正直だと申し上げたんですよ。
誰かに対して嘘を吐き、そんな自分を責めている。そう感じたものですから。
本当の嘘吐きは、他人も自分も騙して作った偽りに満足し、それを真実だと思い込もうとします。
あなたは自分に対してとても正直で、だから苦しんでいるのでしょう。
不愉快な気持ちにさせたのならお詫びします。ごめんなさい。
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たけうまさんへ
こちらこそ突っかかってごめんなさい。最近、ちょっと色々あって、動揺しているのかもしれません。良かったら、また聞いてやってください。
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マリさんへ
もちろんです。私で良ければいくらでも聞きますよ。私に出来るのは、聞いて、思うところを伝えることくらいですが。
マリさんはまだ学生さんでしたね。詳細はわかりませんが色々あったのなら動揺するのは当然です。
ホットミルクでも飲んで、ゆっくり休んでください。少し甘めにすると落ち着きますよ。
おやすみなさい。
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たけうまさん
ありがとうございます。
おやすみなさい。
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パソコンの電源を落とした。
リビングへ行って、冷蔵庫から牛乳を取り出す。母親は入浴中らしい。
温めて、少し蜂蜜を入れて飲んだ牛乳は美味しかった。