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「詩乃さぁ」

 職員室は、生徒会室からだと昇降口を通り過ぎたところにある。向かう途中の廊下で、麻里が口を開く。浩章と浩倫はいないので、麻里は口を開いたのかもしれない。

「ん?」

「どうしても言いたくないなら、いいんだけどさ」

 うつむいて、ぽつりと言葉を紡ぐ麻里は、少し拗ねているようにも見えた。

「あたし、話を聞くくらいなら出来るのに」

「麻里…」

 何もないと答えた詩乃の言葉を信じていないのだ。無理もない。

 どうしても話したくないわけではない。崇のこと、母親のこと、聞いてもらったら少しは楽になるのかもしれない。

 けれど、話したところで何が変わるというのか。

 崇にはもう子どもが産まれている。幸せな家庭を築いている従兄に、子どもじみた嫉妬心など知られたくない。相手にもされずに笑われでもしたら、ひどく惨めではないか。詩乃が卑小な人間であることを確認するようで口に出したくない。

 母親のプロポーズの話にしても、母親はきっと詩乃が同意すると信じている。自分が選んだ相手なのだから詩乃も気に入るに違いないと思っているのだ。詩乃が反対したところで、母親を悲しませるだけ。ならば、同意する以外に詩乃に何が出来るというのか。

子どもっぽく家出でもするのか。馬鹿らしい。それこそ、周囲に迷惑をかけるだけだ。

母子家庭でずっと生きてきたのだ。少しでも他人に迷惑をかければ、父親がいないからだと母親が罵られるのを見たのは一度や二度ではない。

 だから、黙る。

 そうやって、詩乃は生きてきた。

「麻里、ごめん」

「何が?」

「……言えない」

 二人とも立ち止まった。昇降口の目の前だった。

「そう」

 麻里は、さみしそうにそう答えた。

「じゃあ、あたしは帰るね。書類の提出、よろしく」

 普段なら、麻里は職員室までついてきてくれる。けれど今、詩乃に引き留める術などあるはずがなかった。ぎこちなく手を振って、麻里を見送った。

 うつむきがちに職員室へ行くと、西園寺はパソコンに向かって何か作業をしていた。

「西園寺先生。いいですか」

「ああ。逢坂か。どうした?」

「生徒会の書類を持ってきました」

 答えて、クリアファイルを差し出す。書類を一通り見てから、西園寺は立ち上がった。

「先生?」

「ちょっと来なさい」

 そう言って、西園寺は立ち上がった。詩乃を促して職員室を出る。連れて行かれたのは、国語科の準備室だった。今は誰もいないが、国語科の教師が授業準備をする部屋で、授業に使う資料やプリント、教師個人の蔵書などが置いてある。

西園寺の机は整然としていた。ほとんど机の上に物が出ていない。

「そこ、座って」

 西園寺は自分の椅子に腰かけ、隣の椅子を指さした。おとなしく座ってから、詩乃は西園寺を窺う。心当たりは無いが、何か叱責を受けるのだろうか。母親が呼び出されるような内容だったらどうしようと不安になる。

「あの、先生…」

「これ」

 そう言って西園寺は、先ほど詩乃が提出した書類を目の前に掲げた。

「自分で読み直ししたか?」

「はい。しました」

「他の役員たちにも読んでもらった?」

「はい。あ、いえ…。今日は麻里だけだったので、あたしが読み上げて聞いてもらいました。特に問題はないと言ってくれましたけど…」

「うん。様式に問題はない。読みやすいし、内容もよくまとまってる。逢坂はこういう書類を作るのが本当にうまくなった」

「ありがとうございます」

「でも、だからこそこれは目立つ」

「え?」

 西園寺は、胸ポケットから赤ペンを取り出して、書類に何か記入していった。首を伸ばして覗いてみたら、いくつか丸印が付けられていた。

「パッと見ただけでも、これだけ」

 丸印の入った書類を、西園寺は再び詩乃の目の前に掲げる。

「誤字と脱字」

「………あ」

「他人を決めつけるようだからこういう言葉はあんまり使いたくないんだが…。逢坂、これは君らしくない」

 返す言葉が無かった。

 A4サイズの書類に、一枚目だけでも丸印が五つある。昨夜自分で見直したし、さっきも麻里の前で読み上げたというのに、その上で五つ。普段の詩乃なら有りえない数字だ。

「一つや二つならともかく、これはさすがに多いだろう。ついでに言うと、昨日提出した課題プリント、あれにも凡ミスがあった」

「え?」

「問題、覚えているか?」

「覚えています。文章問題があって、空白にふさわしい言葉を選択していくっていう…」

「そう。俺は、空白にA、B、Cと名前を付け、選択する候補の言葉に小文字でa、b、cと付けていた。そのことは?」

「覚えています」

「逢坂は全問正解だったよ。けどあれじゃ点はやれない」

「というと…」

「回答欄に、答えの言葉ではなく記号が入っていた。問題をちゃんと読めば起こらないミスだ。どう考えても、普段の君じゃない」

 書類を机に置き、西園寺は椅子ごと詩乃に向き直った。

「何か、困っていることがあるんじゃないのか」

 詩乃は、血の気が引いていくのを感じていた。

 いつでもどこでも自分が完ぺきになんでもこなせるとは思っていない。誤字もすれば脱字もする。問題を読み込まず、勝手に判断をして凡ミスをすることだってある。

 けれど、それにしたって今の状態はひどい。どれも、普段通りに注意を払っていれば防げたミスだ。事実、高校生になってからはそんなミスをしたことなどほとんどないのに。受験を意識するようになってからはなおさらだ。書記として、生徒会の書類作りはほとんど一任されているというのに、情けない。

「……すみません…」

「謝らなくていい。別に責めてないよ。ただ俺は教師で君は受験生だから、君の集中力を削いでいるものがあるなら、それを取り除く協力がしたい」

 穏やかにそう言って、西園寺はもう一度繰り返した。

「何か、困っていることがあるんじゃないのか。……例えば」

 続いた言葉に、詩乃は目を見開いた。

「お母さんの再婚のこととか」

「!」

 小さく口を開けて、詩乃は西園寺を見た。

「どうして…」

「伊藤義彦は、俺の母親の兄貴なんだよ」

「それって、つまり」

「俺の伯父だ。世間は意外と狭いな。話がまとまれば俺と君はいとこ同士だ。書類上は」

 淡々と言ってのけた西園寺に、詩乃は言葉が継げなかった。

「俺には同じ体験が無いから、君の気持ちが解るとは言えない。戸惑っているだろうなと想像する程度だ。だから、君の気持ちは君から言ってもらうしかない」

「先生…」

「困ってるんだろう? 君はどうしたい?」

 西園寺の口調は、授業をしている時となんら変わりが無い。淡々としている。けれど、責められているわけではないのに、何かを言わないといけないような気になってくる。

 言えることなど何も無いのに。

 いや、西園寺はもしかしたら。もしかしたら、その伯父に――。

「言っておくが、伯父から探りを入れるように頼まれたりはしていないよ」

 詩乃の心を見透かしたように、西園寺はそう言った。

「というか、俺の教え子だってことも知らないはずだ。俺は親伝いに結婚したい相手がいるって聞いただけだからな。伯父から直接聞いたわけでもない。正直、いい歳したおっさんの色恋沙汰なんかどうでもいいし」

「どうでもって…」

「けど、その為に――しかも身内の為に教え子が困っているなら話は別だ。…逢坂」

「は、はい」

「君が困ることなんて、君のお母さんも、俺の伯父も、友だちも、誰も望んでないんだよ。だから、俺にじゃなくていいから、困っていることがあるなら誰かに言いなさい。母親の再婚なんか、思春期の子どもが一人で抱えるには重すぎる」

 そう言ってくれるのはうれしい。確かにうれしいという気持ちが詩乃の中にある。

 だが、言ったところで何が変わる。崇のことも母親のことも、詩乃には何一つ変えられない。変えられたことなど、一度も無い。

「…ありがとうございます、先生。でも」

「うん」

「あたしは子どもですけど、教師にも出来ることと出来ないことがあることくらいは、知っています」

「うん。それで?」

「そういう風に、出来ているんです。あたしが何を言ったって、何も変わらないし、却って迷惑をかけるだけだし、あたしの言葉なんて…届いたこと、ないし」

「だから諦めるのか」

 その言葉は、国語科準備室に冷たく響いた。

「諦めて、うつむいて、迷惑をかけない代わりに心配をかけて生きていくのか?」

 下唇を噛んで、詩乃はうつむいた。ああ、また、うつむいている。

「まあ確かに。教師も人間だからな。出来ることと出来ないことはある。それでも、お子さまの君よりは出来ることが多いんだよ。子どもだから知らないかもしれないけど」

 子どもを連呼する西園寺に多少はむっとしたが、それでも詩乃は黙っていた。学校で問題を起こせば、母親に迷惑がかかる。そうして、また言われるのだ。片親だから躾がなっていないのだと。

 知らず、両手をぐっと握りしめていた。

 西園寺はしばらく何も言わなかったが、やがて息をついた。

「まあいい。俺が言いたいことは言った。君も、言いたいことが出来たら言いに来なさい。この書類は再提出。いくら中身が立派でも、こんな誤字ばっかりで職員会議には出せないからな。上岡先生にも鼻で笑われるだけだ。月曜日、放課後までには出しに来なさい」

「…はい…」

 返事をしてから、詩乃は立ち上がった。扉に向かいかけて、一度足を止める。

「先生って、もっと淡白な人かと思っていました。……お身内が関わっているからですか」

「どう思われているかは知らなかったが、高砂ほどじゃないにしろ、俺も一応教師なんだよ。元気がない生徒を気に掛けるくらいは、な」

「そう、ですか…」

 ぺこりと頭を下げて、詩乃は扉へと向かった。がらりと音を立てて扉を閉め、ぺたぺたと音を鳴らしながら数歩歩く。歩みを止めた。

 先生が、いとこになる。けれど、それがなんだというのだろう。特に何も変わらない。

 ポケットから喉飴を取り出して、口の中で転がした。

 

振り向きざまに。   

 

ああそうか。

壊れていくとはこういうことか。

理解、納得、現在進行中。

 

止められるものなら止めてみなよ。myself?

 お願いだから止めてみせてよ。そう思っても、やっぱり誰にも届かない。

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