日曜日は、どんよりとした曇天だった。四月の半ばにこの天気では、少々肌寒い。それでも母親は、朝から買い物に向けて上機嫌だった。
「やっぱりワンピースがいいかしら。それともジャケットがあるものがいいかしら。詩乃はどう思う?」
どうでもいいよ。なんでもいいよ。
そうは言えず、詩乃はショーウインドウの前で一応考えるふりをした。
この二日間、西園寺の言葉が頭の中でリフレインしている。
諦めるのか。
諦めて、迷惑をかけない代わりに心配をかけて生きていくのか。
「そんなこと…」
そんなこと、思っていない。
なのにあの場で言えなかった。
だって先生、いったい何をどう言えばいい?
「詩乃?」
気が付いたら、母親が顔を覗き込んでいた。
「どうしたの。気分悪いの?」
「なんでもない。ええと…。あ、服ね。どうしようかな」
言いながら、適当な服を手に取ってみる。普段なら、見向きもしない値段の服だ。そもそも、服を買う時にこんなデパートに来たことすらない。母親の気合いの入りようが判る。
母親は、すらりとしたデザインの灰色のワンピースを手に取って詩乃の身体にあてた。ジャケットもついているタイプだ。普段制服か部屋着しか着ない詩乃にとっては違和感しかない。
「こんなの、着たことないな。似合わないよ、きっと」
「そんなことないわ。詩乃の顔立ちなら、こういうしゅっとしたのが似合うのよ」
母親の気合い――というより浮かれ具合に、詩乃はふいっと視線を逸らした。
「じゃあこれでいいよ」
そう冷たく言ってしまったのがまずかった。母親が、眉を寄せたのだ。
「詩乃が着る服なんだから、自分で気に入ったのを選びなさいよ」
「だから、それでいいって。服の良し悪しなんか判らないし。お母さんが似合うと思うんなら似合うんじゃないの」
「何その言い方。せっかくの食事会なのよ? あんただって着たい服があるでしょ」
「食事会したいなんて言った覚えはないけど」
これもまずかった。まずいとは思ったが、放った言葉は取り消せない。
母親は、はっきりと不快感を示した。
「詩乃。言いたいことがあるならはっきり言いなさい。義彦さんに会いたくないの?」
会いたくないに決まっている。
「詩乃が嫌だって言うなら、お母さん再婚なんかしない。ずっと詩乃と二人で生きていく。それで満足?」
「誰もそんなこと言ってない。嫌だなんて言ってないよ」
「だから一度会ってみましょうって言っているのよ。会ってみて、義彦さんがどういう人なのか見てから決めていいって言っているでしょう。お母さん、これまで一度でもあんたの意見を聞かないことがあった?」
ほらね、先生。
心の中で、つぶやいた。
あたしは口を利かない方が、いいんだよ。
「ねえ、お母さん、ずっと言ってきたでしょう? 正しい選択をしなさいって。正しく選択するためにはまず情報がいるの。賛成するにしても反対するにしても、まずは義彦さんを知らなくてどうするの?」
デパートの洋服売り場で、洋服を手に持ったまま母親は言う。
「ちゃんと知った上で、それで反対するならお母さんも何も言わない。ご縁が無かったんだって諦める。けどね、今回に限ったことじゃなく、あなたには正しく生きてほしいの」
日曜日のデパートだ。客は多い。さほど大きな声ではないにしろ、逢坂母娘をちらりちらりと見て行く視線を感じる。
「詩乃は賢い子だもの。もう小さい子どもじゃないんだし、お母さんが言ってること、解るわよね?」
詩乃の肩に手を置いて、母親はそう言った。詩乃が口に出来ることは一つしかなかった。
「……うん、お母さん。ごめんなさい」
目を伏せて、詩乃は言った。
母親が言っていることが、間違いだとは思わない。実際、詩乃が再婚は嫌だ止めてくれと言ったら、母親はその言葉を聞いてはくれるだろう。
けれど、聞いた後で諭すに違いない。
再婚に賛成するほうが正しいのだと。反対する方が間違っているのだと。母親は詩乃に正しい選択を求め、詩乃は諭されると正しい方を選ばなければならないので、結局賛成することになる。
詩乃が自分で正しい方を選んだと見せかけて、その実は母親が正しいと信じる方に詩乃の意見を持って行っているだけだ。
小学校の高学年の頃には、もうその事実に気が付いていた。
気が付いてはいたけれど、詩乃に出来ることは何も無かった。
母親が正しいと信じている方を選ばないと、母親が泣くからだ。どうしてわかってくれないのと悲しむからだ。
詩乃は母親が大好きだ。何故なら詩乃には母親しかいない。この人に見捨てられたら、きっと世界が終わってしまう。だから、泣かせたくない。喜ばれたい。悲しませたくない。
詩乃には父親がいない。母親がすべてだ。その母親に泣かれた挙句、正しい方を選ばないからいらないとでも言われたら――。
「反省してくれたならいいわ。さあ、詩乃に似合う服を選びましょうね」
考えただけでぞっとする。
お母さん、お父さんはいなくなっちゃったけど、あたしがいるよ。
物心ついたときから、何度となく思ってきた。
あたしがいるよ、お母さん。泣かないで。正しい方を選ぶから。
だから、お願い。――あたしを捨てないで。
*
弱くない人間が強いとは限らない。
*