翌日も天気は回復せず、午後に近づくにつれてぱらぱらと雨も降り出した。折り畳み傘をバッグに入れてきている。時間は、四時間目がそろそろ終わろうとしている頃だ。
今朝、学校に来てから、麻里とは挨拶以外の会話をしていない。先週までは、授業中も隙あらばルーズリーフを使って筆談をしていたのに。
詩乃が悪いと解っている。
それでも、昨日はつい本音をこぼして母親と口論をしてしまった。詩乃が、口を開いたばかりに。
口を開く。本音をこぼす。誰かが、大切な人が、不機嫌になる。傷つける。離れていく。
……捨てられるのが怖い。
昨日は結局、店員の助言で灰色のワンピースではなく大人しめな赤のワンピースを買った。制服以外であんなきちんとした服を買ったのは、生まれて初めてかもしれない。七五三はレンタルだったし、小学校の入学式と卒業式は従姉のお下がりだった。
崇へのお祝いも買った。こちらは赤ちゃん用のラグだ。イグサラグなので、これからの季節にちょうどいいだろうと母親が言った。身内に赤ちゃんが産まれるなど初めてのことだったので、今度こそ詩乃は口を出さなかった。そもそも出したくなかったし、お祝いなんて考えたくなかった。崇には会いたくない、その嫁と子どもなど、視界に入れたくもないとは言えない。
口論はあったものの、昨日の母親は全体的に上機嫌だった。どちらかというと、口論の後の方が上機嫌だった。詩乃が謝ったことで、娘が正しい方――再婚に賛成――を選んでくれると思ったのかもしれない。
上機嫌なまま、母親はデパートで夕飯を食べて行くことを提案した。少し高めのパスタを頼んだが、大好きなはずのジェノベーゼソースは味がしなかった。
チャイムが鳴る。四時間目の終了だ。ということは、これから昼休みである。いつもは麻里や他のクラスメート数人と食べているのだが。
麻里は詩乃の前の席なので、詩乃が前を向いている限り必ず視界には入っている。
謝ろう。そう思って勢いよく席を立つと同時に、目の前の麻里も勢いよく立ち上がった。麻里がこちらを振り向いて、思わず二人で顔を見合わせる。
吹き出したのは、麻里が先だった。
「何、張り切って立ち上がっちゃって。そんなにお腹が空いたの?」
「……それ、あたしの台詞」
「じゃあまあ、ご飯食べよっか」
「うん。……ごめんね」
「うん」
詩乃よりも背の低い麻里が、手を伸ばして詩乃の頭を撫でた。
「よしよし」
それで、やっと詩乃も少し笑った。
今日は食堂で昼食をとるという麻里に付き合って、詩乃も弁当を食堂へ持って行った。
「あ、西園寺だ。食堂にいるなんて珍しい」
麻里の言葉に、少しだけ肩を強張らせる。麻里の視線を追うと、確かに食堂の端に西園寺がいた。どんぶりを持って席についているところだ。
「詩乃?」
「え、何?」
「いや、いつもなら西園寺「先生」でしょって言うのになぁ、と…」
「あ…。えーと。うん。西園寺先生、でしょ」
「遅いよ。どうし……あ、いや、なんでもない」
麻里は、自分の右手で自分の口元を押さえた。
「あたし、もう詩乃にいろいろ聞かないことにしたんだ」
「え…」
「誤解しないで。怒ってるから聞かないんじゃないから。この二日間考えたの」
麻里の視線には迷いが無かった。
「詩乃が自分で話してもいいって思ってくれるまで待つことにした」
にっこり笑って、詩乃の親友は続ける。
「あたしはいつでもどこでも、話でも愚痴でも泣き言でも聞く態勢は出来てるから、どーんとぶつかって来なさい」
「…どーんと?」
「そう。もうどーんとおっ?」
麻里が答え終わる前に、詩乃は麻里に体当たりした。二人して体勢を崩して、食堂の床に座り込む。
「………。ちょっと、詩乃さん?」
「お言葉に甘えてどーんといってみた」
「誰が物理的に来いって言ったのかしら」
今度は、二人同時に吹き出した。
手をつないで二人で立ち上がる。麻里になら、いつか話せるかもしれない。今は、誰かを傷つけるだけの言葉だとしても。
いつか、きっと。
「っていうか詩乃…。お弁当」
「あ」
文字通りどーんとぶつかっていったせいで、詩乃の手にあった弁当箱が床に落ちている。確認するまでもなく、中身は悲惨な状態になっているだろう。
「ああ…。麻里のせいで」
「いやどう考えても自業自得でしょ」
「だっていつでもどこでもぶつかって来いって言うから…」
「だから、誰が物理的な話を…あたっ」
「っ!」
こつんこつんと二人して頭に軽い衝撃を受けた。振り返れば、そこに西園寺が立っている。拳の裏で叩かれたらしい。
「生徒会長と書記ともあろうものが、食堂で騒ぐな」
「はーい」
「すみません…」
今日は西園寺の授業が無いから安心していたのに、目が合ってしまった。気まずくて、詩乃は目を逸らす。
「こうしている間にも俺のうどんが伸びるだろう。さっさと注文して座れ」
麻里が首を伸ばして、西園寺が座っていた席を見る。
「先生、今日はうどんですか。好きなんですか? 何が好き?」
「うどんはゴボウ天と決まっている」
「じゃああたしえび天にしよ。先生のテーブルに座っていい?」
「ちょ、麻里…」
「君は生徒会長としてもうちょっと人の話を聞け」
「生徒会長として生徒の話は聞きますよ。どっかの双子とか例外はいますけど。今日は生徒代表で先生と一緒にうどんを食べます。あえての山かけうどんを」
「さっきえび天って言ってなかったか」
「女心と秋の空ですよ。詩乃は先生と行って席取っといて。ざるそば買ってから行くから」
「うどんですらなくなってるじゃないか」
「あの、ちょっと麻里」
「やれやれ…。逢坂、行くぞ。うどんが伸びる」
さっさと歩き出した西園寺の後を、詩乃は戸惑いながらもついて行く。ここで別の席に座ったら、それこそ気まずい。
「逢坂は弁当か」
うどんの前に座り、向かいに詩乃が座るのを待ってから、西園寺はそう聞いてきた。一方的に気まずくて、目を合わせないまま返事をする。
「はい…」
「自分で作っているのか?」
「はい…」
「毎朝大変だろう」
「はい…」
「……白と黒を混ぜると?」
「灰…って先生?」
顔を上げると、西園寺が真面目な顔で詩乃を見つめていた。それから、吹き出した。二年生の時から現国は西園寺に教わっているが、こういう表情を見たことは少ない。
「やっと反応したか」
「先生…」
「良い友達だな」
うどんを箸で掴みながら、西園寺はそう言った。考えるまでもなく、麻里のことだろう。
「…聞いてたんですか」
「聞こえてきたんだよ。まあ、逢坂が独りじゃなくて良かった」
「先生」
改めて西園寺とその前に置いてあるうどんを見て、詩乃は初めて自分から話しかけた。
「ん?」
「赤くないですか、そのうどん」
「普通だが?」
西園寺の前にあるどんぶりは、赤い。どう見ても。
「入れすぎですよ、七味唐辛子」
「残念だがこれは一味唐辛子だ」
「食堂には七味しか置いてありませんけど」
食堂の各テーブルの上には、唐辛子のほかにも塩やしょうゆなどの調味料が置いてある。その一つを手に取ってみたが、はっきりと七味と書いてある。ほら、と詩乃が持ち上げて見せると、西園寺は特に表情を変えずにスーツの内ポケットをまさぐった。
そうして出てきたのは、小さな木製の瓢箪だ。
「なんですか、これ」
「マイ一味唐辛子。京都の老舗から取り寄せている」
「……持ち歩いているんですか」
「寝る時も一緒だ」
さすがに言葉を返せずにいると、西園寺はまた吹き出した。
「外で食事をする時だけだよ」
いや、それでも驚くには十分なのだが、西園寺が楽しそうに笑っているので詩乃は黙っていた。教師といえども、食事時には気が緩むのかもしれない。そう思うと、少し親しみが湧いてくるから不思議だ。
「うわ、あっか!」
頭上から声がして、振り仰ぐと麻里がトレイを持って立っていた。
「先生、赤い! これ赤いよ、何これ!」
騒ぎながら、詩乃の隣に腰を下ろす。西園寺は、出したままの瓢箪を振って見せた。
「マイ一味唐辛子」
「マイって…。知らなかった。先生、辛党なの?」
「いや別に。ちなみに好物はシュークリームだ」
「意味わかんない!」
「ほんと、意味わかんないよねぇ、そいつ」
もう一つ、声が降りてくる。今度は教師だった。英語教師にして西園寺の幼馴染である、高砂(たかさご)篤(あつ)子(こ)女教師。こちらもトレイを持って、麻里や西園寺を見下ろしている。
西園寺は高砂を無言で見上げた後、麻里に向かって言った。
「こら、斎川。そんなものどこで拾ってきた。元いたところに返してきなさい」
「ちょっと西園寺先生。人を雨の中艶やかな黒髪を濡らして小さく震えつつつぶらな瞳で見上げてくるリトルキャットみたいに言わないでくれる?」
空いていた西園寺の隣、麻里の向かいに腰掛ける高砂を、西園寺は見向きもしない。
「何ちょっとかわいいモノみたいに言ってんだ、図々しい」
「え、もっと崇高な美しいモノのほうが良かった? 麗しの天女?」
「敢えてもう一度言う。図々しい」
二人のやり取りを聞いて、麻里が吹き出す。
「先生たちって、本当に仲が良いんですね。幼馴染ってことですけど、いつからの付き合いなんですか?」
割り箸をぱちんと音を立てて割って、高砂が答える。女教師の昼食はカツ丼だ。
「幼稚園から中学校までは一緒だったのよ。クラスは違うこともあったけど、親同士の仲が良くてね。高校と大学は違ったんだけど、何故か社会に出たらまた一緒になっちゃって。まあ、腐れ縁ってやつね。お互い教職に就いていることは知ってたんだけど、まさか赴任先が一緒になるなんてねぇ」
麻里と高砂の会話には口を挟まず、西園寺は黙って赤いうどんをすすっている。詩乃は口を挟みたいとは思わない。ただ、高砂の前にいる西園寺は、いつもの「先生然」とした表情とは違う顔を見せていて、そのことを新鮮だと思っていた。
こんな顔も、するのか。
「ほら、詩乃もお弁当出しなよ。食べよ」
「あ、うん」
言われて弁当箱を開ける。落とし方が良かったのか、心配していたほど中身は崩れていなかった。
「逢坂さんはお弁当なのね。自作?」
「はい」
「偉いわー。先生なんて全然料理しないもの」
「高砂先生は実家暮らしですか?」
麻里が聞く。
「一人暮らしよ。兄家族が両親と同居してるから」
「え、でも料理はしないんですよね。ご飯はどうしてるんですか?」
「どうにでもなるもんよ。実家が近いから食べに行くこともあるし、他の先生や友人たちと外食したり、インスタントだったり、出前という手段もあるし」
「へぇ。大人だからこそですね。あたしたちなんて、休日の昼間にファミレスに行くのがせいぜいですよ」
「学生のうちはそうでしょうね。でもま、子どもは大人になれるけど、大人は子どもにはなれないのよ。子どものうちに子どもを楽しみなさいな」
最近、詩乃は子どもという単語をよく耳にする。母親、西園寺、高砂。母親にはもう子どもじゃないのだからと言われ、教師たちからはまだ子どもと言われる。
高校生、という期間は不思議だ。
義務教育を終えて、自分の責任で動くことが多くなった。一方で、ある程度は自由に動けるようにもなった。具体的には、腕時計の着用が認められたり、アルバイトが認められたり、自転車に乗る時にヘルメットをかぶらなくなったりだ。もちろん、校則によってある程度は縛られているけれど。
二年生に進級するとき文系と理系に別れ、自分の未来を具体的に考えるようになった。詩乃は公立文系クラスにいる。年度が替わるころには十八歳になって、いわゆる「青少年」からも抜けることになる。けれども、まだ未成年。精神的にも肉体的にも成長途中で、自分がどちらを向いているかも判らなくなることがある。
中学生以下からはもちろん、同じ高校生の一年生や二年生からも、時には成人している人たちからも大人のように扱われる一方、別の大人たちからはまだ子どもだと言われる。
「大人」とはなんなのか。単に年齢の話ではなく、中身の話だ。そして、いつまで子どもでいられるのか。詩乃はどちらでいたいのか。どれも解らない。
その答えが出る時が「大人」になるということならば、「大人」は遠い。
それとも――ある日ふと、答えが出てくるのだろうか?
そんなことを考えて箸が止まっている詩乃とは対照的に、麻里は器用に食べながらも会話を続けている。それでも麻里の食事の所作は上品に見えるのだから、これはもう一種の才能だろう。麻里はけっこうなおばあちゃん子だから、その影響もあるのかもしれない。
「ところで、先生たちは本当に何もないんですか?」
「ん? 何もって?」
「だから、ロマンス的なもの。ずっと一緒だったんでしょ?」
麻里は時々大胆だ。いや、豪胆かもしれない。そんな噂を、本人に堂々と聞こうとは。よくよく周囲を見れば、詩乃たちのテーブルが注目されている。生徒会長、書記、教師が二人と揃っていれば、仕方のないことかもしれない。
高砂は一瞬だけきょとんとしていたが、やがて笑い出した。
「恋愛感情ってこと? あはは、正直冗談じゃないわね」
「こっちの台詞だ」
ぼそりとつぶやいた西園寺を無視し、高砂はぱたぱたと手を振る。
「こいつはもう弟みたいなもんなのよ。近すぎて逆に有り得ないわ」
「お前みたいな姉こそ冗談じゃない。心底冗談じゃない。切実に冗談じゃない」
普段は淡白に見える西園寺が、まるで高校生のじゃれあいみたいなことをしている。誰かに向かって「お前」と言っているのも初めて聞いた。驚いている詩乃の隣で、麻里が吹き出した。
「西園寺先生、そんな顔もするんですね。なんか意外」
「そうか、一つ勉強になったな」
しれっと答える西園寺はもう教師の顔で、その切り替えにまた驚いた。
「ねぇ先生、もう一つ聞いてもいいですか?」
「教師への質問は生徒の権利だよ」
「先生の眼鏡って伊達っていう噂がありますけど、本当のところはどうなんですか?」
麻里が聞くと、西園寺ではなく高砂が笑った。「また聞かれてる」と呟く。ということは、噂の真意を確かめようとした生徒が他にもいたのだろう。それも、複数。
もったいぶることなく、西園寺はすぐに答えた。
「それしょっちゅう聞かれるんだが、デマだよ。誰が言い出したのか知らないが、俺は眼鏡が無いと自分の心さえ見えない」
「近視?」
「乱視の方がひどいな。おまけにコンタクトはアレルギーが出る。俺は一生眼鏡とともに生きることを義務付けられたんだ」
「そんな大げさな」
「裸眼で見えてる奴にはわからんだろうな」
「そういうものですか。眼鏡、触ってもいいですか?」
「断る。心が見えなくなると言っただろう。生徒会長が教師から光を奪うつもりか」
すげなく断る西園寺。麻里はもう一度「大げさな」と繰り返した。
「そうでもない。自分の心が見えないということ。それはつまり心に灯りが無いのに等しい。――君も、そう思わないか」
自分に振られているのだと、詩乃が理解するまでに数秒かかった。
「……え」
眼鏡の奥から、西園寺はじっと詩乃を見ていた。詩乃が言葉に詰まっていると、すっとその切れ長の目を伏せる。
「まあ、いつでもどこでも自分がどこを向いているのか判っている奴のほうが少ないかもしれんが」
心を見透かされたような気がして、どきりとした。
なんと答えていいのか判らずに戸惑う詩乃の前で、西園寺は両手をあわせて「ごちそうさま」と言った。そのままトレイを持って席を立つ。
「行っちゃうんですか? もっと先生と話したいのに」
麻里の言葉に、西園寺は残念だがと前置きして言う。
「仕事があるからな。生徒たちは昼休みでも俺は仕事中だ。――逢坂、書類は直したか?」
「あ、はい」
「別に急がなくてもいいが、今日中には持って来なさい」
「はい」
詩乃が答えると、西園寺はじゃあなと言ってから歩き出した。食器返却口にトレイを置いて、食堂から出て行く。
「もうちょっと笑顔があればいいのよね、あいつは」
そう言ったのは高砂だ。残り少なくなったかつ丼を箸で寄せながら、「そう思うでしょ」と同意を求めてくる。すぐにうなずいたのは麻里だ。
「冗談なのか本気なのかわかんないときがありますしねー。ねぇ詩乃」
「うん、まあ…。でも、西園寺先生が急ににこにこ笑いだしても、それはそれで…」
濁した言葉の先を正確に読み取ったらしく、麻里も高砂も吹き出した。
「確かに、それはそれで不気味ね。もう不吉よ、不吉!」
しばらく声を上げて笑ってから、高砂は残っていたカツ丼を平らげた。
「でもま、あいつの言うことにも一理あるわ」
「え」
一瞬だけ、高砂は慈しむような視線を詩乃に向けた。
「完全に灯りが見えなくなる前に、必ず誰かに言いなさいね」
「それって、どういう…」
意味ですかと聞きかけて、はたと気が付いた。西園寺と高砂が家族ぐるみで仲が良いとなると、もしかしたら親経由で何かを聞いているのかもしれない。西園寺教諭がぺらぺらとしゃべるとは思わないが、親までそうとは言い切れない。なんせ、西園寺自身も親から聞いているのだから。新しく親族になるかもしれない相手が息子の教え子にいるとなると、ある意味で良い話の種にはなるだろう。詩乃はまったく愉快ではないが。
「じゃ、あたしも行くわ。実は会議の資料を作ってないから。また教頭に怒られちゃう」
軽く手を振って、高砂も食堂から出て行った。麻里と詩乃が残される。しばらくの間、詩乃はぎゅっと唇を結んでいた。
「詩乃? どしたの?」
心配そうに覗き込んでくる麻里に、詩乃は無理をして微笑んだ。
「ううん。なんでもない」
言ってから、あまりにも白々しいと思った。なんでもないことないということくらい、麻里じゃなくても解る。けれど、麻里はつい先ほどもう聞かないと宣言したばかりだ。それ以上は何も聞かず、たわいもない話をして食事を終えた。