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 一度教室に帰り、作り直した書類を持って再び教室の外に出る。麻里が付き合おうかと言ってくれたが、これは書記の仕事だ。ありがたがったが辞退した。

 職員室に、西園寺はいなかった。近くにいた教師に聞くと、国語科準備室に向かったと言う。礼を言ってから準備室に足を運んだ。

 ノックをしてから扉を開けると、西園寺が一人で机に向かっていた。口に何か咥えていて、その何かの先端には灯りが点いている。一瞬、禁止されている喫煙かと思って驚いた。

「先生、それ…」

 見てはいけないものを見てしまった。どうしよう。そう思った詩乃の前に、西園寺は慌てることなく咥えていたものを手に取ってひらりと振った。よく見れば灯りはついているが煙は出ていない。

「禁煙パイプだよ。本物じゃないとはいえ、職員室で咥えていたらさすがに怒られる」

「先生、煙草吸うんですか」

「一週間で一箱ほど」

 喫煙をしたことのない詩乃は、当然ながらその数が多いのか少ないのか判らない。詩乃の周囲には喫煙者がいないので、比較対象もいない。

「どこもかしこも禁煙禁煙うるさいからな。禁止するなら最初から作るなっつーんだよ。歴史遡って煙管から禁止してくれりゃ文句も出ないのに」

 言葉遣いが少々乱暴になっている。肩身の狭い思いをしているのだろう。拗ねているように見えるのが新鮮だった。

「あの、書類を…」

「ああ、そうだったな」

 受け取ったクリアファイルから書類を取り出し、西園寺はさっと文章に目を走らせた。

「合格。これなら上に見せられる」

「ありがとうございます」

 ほっとして胸をなでおろす。と、次の言葉に困った。いや、困る必要はないのだが。

「どうした。もう戻っていいぞ」

「あ、はい…」

 椅子に座ったまま、西園寺が詩乃を見上げてくる。ぎぃ、と椅子が鳴った。

「何か言いたいことでも出来たか」

「いえ…」

「それとも、俺がまだ何か言うと思ったか?」

 図星だった。身構えた詩乃に、西園寺はふと笑う。

「俺が言いたいことは先週言った。心強い友だちもついているようだし、あとは君次第だろう。助けてほしけりゃそう言え。言う気が無いなら周りに心配かけるな。完璧に隠せ。中途半端なことはするな」

 突き放すような言葉だったが、西園寺は詩乃の目をしっかり見ていた。

「ただし、自分が独りじゃないってことだけは忘れるな。それを忘れることは、斎川を裏切ることだと思いなさい」

 麻里を、裏切る。その言葉は、詩乃に響いた。

「…はい、先生」

「よし。もう戻りなさい。昼休みが終わる」

 一礼して、詩乃は踵を返した。

 早く教室に戻って、麻里にもう一度お礼が言いたかった。

 

 そして、放課後。

「はい、じゃあ作戦会議」

 生徒会室である。麻里の言葉に、まずは浩倫が手を挙げた。

「商店街で張り込み」

 続いて、浩章も発言した。

「俺もそれが一番現実的だと思う。荒木さんの塾が無い日に限られるけど、Xを見たのが荒木さんだけである以上、こっちで的を絞るのは限界がある」

 二人の言葉に、麻里は腕を組んでうなずいた。

「そうだよね。地道な作業にはなるけど、それが一番確実だよね。詩乃はどう思う?」

 問われて、詩乃は昨日までに考えていたことを伝えることにした。

「あたしは、逆のアプローチを考えてた」

「逆?」

「あたしたちはXの顔を知らないでしょ。でもXは荒木さんの顔を知っているはず。もちろん一回会っただけじゃ記憶はおぼろげだろうけど、少なくとも倒れた自転車を一緒に起こしたってことは忘れないと思うの。だから、見張るだけじゃなくてこっちから声をかけていけばいいんじゃないかな。荒木さんの顔写真を撮って、商店街で聞き込みとか」

 詩乃の言葉に、全員が感心するようにうなずいた。

「確かにそれなら、荒木さんがいなくても探すことが出来るな。ただ見張るよりもだいぶ時間も短縮できる」

「そうね。あたしも賛成。荒木さんに写真の協力を頼もう。出来れば当日着ていた服装で。で、それを焼き増し。費用は活動費から」

 誰もが異議なしと答えたところで、ぽつりと浩章が言った。

「一年生は、データベースの存在は知らないだろうなぁ」

「ああ、あったな、そんなものも」

 美鷹学園高等学校の生徒の情報は、すべてデータ化されているのだ。名前、顔写真、生年月日はもちろんのこと、住所も電話番号も身長も体重も成績も家族構成も、それを見れば生徒の何もかもが判るようになっている。これはもちろん学校側で閲覧が厳しく管理されていて、一般の生徒はデータの存在さえ知らない。たとえ生徒会役員であっても。詩乃たちが知っているのは、たまたま口を滑らせたうかつな教師がいたからだ。

「まあ、確かにデータベースから検索したら、絞り込みは簡単かもしれないけどね。でも見たいとは思わないな、あたしは。他人のプライベートに踏み込むようで居心地悪い」

「俺も」

「じゃあ言わないでよ」

「悪い、つい思い出したから」

 結局データベースは最後の最後の手段にしようと浩倫が言って、今日は解散となった。

 だらだらと四人で昇降口へ向かいながら、口を開いたのは麻里だった。

「早いとこ見つけてあげたいなぁ、ヒーロー」

「そうだね。荒木さんに安心してもらいたいね」

 詩乃が同意すると、浩章もうなずいた。

「いいよな、ヒーロー。まあ、俺は生まれながらにしてヒーローだけれども」

「奇遇だな。俺も生まれながらにしてヒーローだよ」

「…浩(ひろ)章(ふみ)と浩倫(ひろみち)だから、とか言ったらぶっ飛ばすよ、そこの双子」

「お、鋭いね。さすが生徒会長」

「さすが生まれながらの生徒会長」

「やかましい」

 ぺしんと麻里が双子の肩を叩いて、詩乃も少し笑った。

 

 いつものように麻里と自転車で途中まで一緒に帰り、別れてから詩乃は長いため息を吐いた。この頃、家に帰るのが億劫で仕方がない。だが、詩乃が帰る場所はあのマンション以外にない。

――助けてほしけりゃそう言え。

 西園寺は言った。だが詩乃は、助けてほしいと自分が思っているかどうかも判らない。ただ、『正しい方』がどちらなのか教えてほしいとは思う。詩乃が正しい方を選ぶと、母親が喜ぶから。そうは言っても、それを決めるのも、いつも母親なのだが。

 重たい気を引きずりながら家の鍵を開けると、中は暗かった。母親はまだ帰ってきていないらしい。重たかった気が少し軽くなった。と、携帯電話が光っていることに気が付く。母親からメールが入っていた。残業で遅くなるので、夕飯は家にあるもので済ませてほしいとのことだった。自分は職場の人と出前でも取るからと。

 職場の人、というのが気になる。看護師である母親が残業するならば、当然医師である伊藤義彦もいるのだろう。二人きりだろうか。さすがにそれはないだろうか。けれど、二人で会話をする機会はいくらでもあるはず。何を話すのだろうか。詩乃がまだ色よい返事をしていないことを嘆いていたりするのだろうか。

 詩乃の知らないところで。詩乃の母親が。詩乃だけの母親だったのに。

 軽く目を瞑り、頭を振った。考えていても答えは判らない。まずは日課だ。

「お父さん、ただいま」

 遺影の父親は、今日も静かに微笑んでいる。

「今日ね、麻里が、待つって言ってくれたよ。…うれしかったよ」

 口に出して、報告してみる。どうせ誰も聞いていない。きっと、父親でさえ。

「あと、先生がね、あたしは独りじゃないんだって言ってた。やっぱり、教師なんだね。書類も、合格って言ってくれたよ」

 沈黙を嫌うように、話し続ける。

「荒木さんの探し人、見つかるといいよね。誰かにお礼を言いたい気持ち、解るから」

 遺影の父親は答えてくれない。ただ、微笑んでいる。

「お父さん。…あたし、あたしね」

 その先は、続かなかった。何が言いたいのか、自分でも分からなくなってしまった。

 ああ、本当だ。西園寺の言うとおり、詩乃の心には灯りがないのに等しい。

 たぶん、もうずっと前から。

 崇なら、なんて言うだろう。昔は、彼に聞けば解決しないことなんてなかったのに。

 もう何年も、頭を撫でてもらっていない。

 しばらくうつむいてから部屋に入って着替え、パソコンの電源を入れた。

会いたい。

会いたい。

 

逢いたい。

本当のあたしはコレだけで、他は全部嘘かもしれない。

それならそれでも構わない。

少し、わらった。……ただ、怖くて。

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