「あたしを気安くお前呼ばわりしないで」
渡辺恵子と知り合ってから、何度彼女の口から同じ言葉を聴いただろう。最初に聴いたのは、彼女が転入してきた初日だった。いきなり彼女をお前と呼んだ担任教師に向かって、恵子はきっぱりとそう言い放ったのだった。ほかのクラスメートとともに、呆気にとられたことをよく覚えている。
恵子は強い。彼女は、とにかく男に負けることを嫌う。負けることも嫌うが、護られることも嫌う。自分を見下す者は完膚なきまでに達者な口で成敗し、自分を懐柔しようとする者はその視界にも入れない。黙っていればとてつもない美人なのに、近づける者はいない。恵子の男嫌いは、教室のみならず学年中で有名だった。
だが、草野直城の見解は少し違う。男を嫌っているというよりは、過剰な自己防衛に近いと思う。
知っている。これ以上無いほど冷たい瞳で誰かを凍てつかせているくせに、陰では独りで泣いていたこと。泣いていること。
***
たまたま早く終わったバイトの帰り、恵子を見つけたのは偶然だった。おそらくは夕飯の買い物の帰りなのだろう。右手にスーパーのロゴが入った袋を提げている。
「けーいこ」
「…あら」
歩みを速めて声をかければ、恵子は多少驚いたようだった。
「夕飯の買い物?」
「うん。そっちはバイト?」
「そうだよ。今日は早く上がれた」
「あっそ。お疲れ」
恵子の返事はそっけない。ここで、にっこり笑って労ってくれるような女ではないのだ。
「給料が入ったらなにか奢ってね」
これがデートのお誘いなら喜んで受けるのに。恵子にあるのは「奢ってもらう」ことだけだ。どうやら、主に奢らされているのは自分と彼女の幼馴染だけらしいので、その点は喜んでいいのだろう。そもそも、渡辺恵子という女は誰彼構わず奢らせるような節操のない女でもない。
「この前も奢ったでしょー」
「忘れた」
「おーい」
「もう消化されたもん。今度は和食がいいな」
「忘れてないじゃん」
「細かいこと気にしないの。何のためにバイトしてんのよ」
「少なくとも恵子に奢るためだけじゃないと思うんだけど…」
「100%そうだと言い切れるの?」
「いや、だって普通さ…」
「言い切れるの?」
「恵子さん、ちょっと聞いてくれても」
「言い切れるんだ?」
「…和食だっけ?」
早々に折れる。もとより直城は恵子に口で勝とうなどとは思っていない。恵子と食事に行くことに逆らえるはずなどないのだ。
「物分りのいい友人で助かるわ」
表情の乏しい恵子が薄く笑って言えば、自分も苦笑する。結局は恵子に弱いのだ。何が一番性質が悪いって、それを悪くないと思っている自分自身だろう。
「友人」という言葉に引っかかりながら、それでも彼女が「友人」という言葉を使うのは、彼女の幼馴染を抜かせば、自分ともう一人の親友だけ。彼女にとって、兄と友人以外は全て他人。それについては喜ぶべきなのだろう。このまま一生「友人」かどうかはともかく。
唐突に、試してみようか、と思う。それは今更試すようなことではなく、確認することでもない。玉砕する公算のほうが高い。それでも、試してみようか。
どうせ奢るのは決定だ。ならば、このくらいはしてみても許されるだろう。勝手に結論付けて、恵子の右手から荷物を取った。
「? なによ。自分で持てるんだけど」
「まあまあ。持たせてよ。送るし」
「まだ明るいし、大丈夫だって。せっかく早くあがれたんでしょ? さっさと帰れば?」
つっけんどんな言い方でも、そこには直城への思いやりがある。自然にもれた微苦笑に、恵子は気づかなかったようだ。
「あのさ、恵子」
「ん?」
「あー…」
「なに?」
「お前の」
口に出してから、躊躇った。わざと「お前」と呼んで反応を見てみようと思ったのだが、適当な言葉が続かない。しまった。ちゃんと考えるべきだったか。こうしている間にも恵子から冷たい台詞が来るかもしれないのに。今まさに絶交されるかもしれないのに。
だが。
「あたしの、なに」
あっさりとそう言った恵子に、力が抜ける思いがした。
「えーと。……そうそう、お前んちの、今日の夕飯なに?」
「夕飯? ハンバーグだけど」
やはりあっさりと答えられ、思わずきょとんと恵子を見つめ、そして笑った。
「どうしたのあんた。拾い食いでもしたの?」
目の前の友人にいきなり真剣に晩御飯のメニューを尋ねられ、答えて笑われれば誰でも戸惑うだろう。普段冷静な恵子とて、例外ではない。
「いや、どうもしてないよ。しかしそうか、ハンバーグか。いいね、ハンバーグ」
笑いがおさまらないまま直城は言う。恵子はますますわけが解らないようだ。どうしたというのだ、この男はという表情が、手に取るようにわかる。
「なに、もしかしてハンバーグ食べたかったの? 言っておくけどあんたの分はないよ」
「美味いんだろうね、お前が作ったハンバーグ」
「当然でしょ。誰に向かって言ってるのよ」
「これは失礼。恵子が作るものに美味い以外の文字はなかったな。…なぁ、今度作ってよ。奢る代わりに材料費出すからさ」
「ものすごく気が向いたらね」
恵子の両親は離婚している。父親は、非常に冷酷で暴力的な男だったと恵子の幼馴染から聞いた。この幼馴染と友人になれてよかったと思う。そうでなければ、自分も恵子にとって「その他大勢」でしかなかっただろう。例え今が「幼馴染の友人」という認識しかなかったとしても。
恵子にとって、異性は「父親属性か、そうでないか」にしか分かれないらしい。少しでも気に入らなければ、一瞬にして父親属性だと決め付ける恵子に容赦は無い。徹底的に冷たくなって、口を開くことすらなくなるから近寄りがたくもなる。けれど、そのあとで震えて泣いているコトも知っている。いつまた、あの男が追ってきて暴力を振るわれるのではないかと怯えているのだ。
泣いている彼女を見つけたのは本当に偶然だったけれど、声をかけずにいたのは竦んだからじゃない。声をかけたら、彼女から泣き場所を奪うことになると思ったから。
恵子はたぶん、恋人のいる幼馴染に恋心を抱いている。ずっと見ていたのだ。それくらいはわかる。そして、彼女が素直に泣けるのは独りのときか、幼馴染の前でだけ。たった一人の家族である兄にすら、心配を掛けたくないからとなにも言わない。
ああ、くそ。歯がゆい。
ねえ、恵子サン。そろそろ気付いてもらえませんかね?
小さなあなたに貸すくらい、俺の胸はいつでも空けてあるんですが。
こっちを見ては、もらえませんか?