渡辺恵子。
幼いときに両親が離婚。兄とは別々の親戚に預けられるも、たびたび家出を繰り返し、学校にも通わない日々が続いた。幼馴染の家にもよく逃げていたらしい。
数年後、彼女が中学生の時に社会人となった兄が恵子を取り戻し、現在は兄との二人暮し。過保護で心配性な兄と幼馴染にだけ、彼女は心を開く。
草野直城が恵子について知っているのはこれだけで、他は彼女が見せている部分しか知らない。
例えば異性を嫌っていることとか。例えば料理が美味いこととか。例えば恐ろしいまでに口が達者だとか、気の強さでは右に出る者はいないとか。
それに、誰よりまっすぐ生きていることとか。
「…泣けば?」
「冗談言わないで。なんであたしが泣くのよ」
振り返った恵子の瞳は強い。曲げない意志と、譲らない信念の証。自分の誇りを一つ守るたびに、彼女は一つ以上傷付いていく。
「悲しかったんじゃないかと思って」
自分を曲げないということは、難しいことだ。人間は弱いから、どうしても多い意見に従ってしまうときがある。それでも自分を貫くことに、どれほどの強さと覚悟が必要か。
「あんな程度で傷付くほど弱くないわよ」
「じゃあ俺が泣こうかな」
「意味が解んない」
「いや、恵子の代わりに泣いておこうかと」
「だからあたしは泣きたいわけじゃないってば」
「なら笑ってよ」
そう言ってみたら、彼女は何も言わなくなった。
「笑ってよ」
「…うるさい。笑う理由が無い」
さっさと歩き出した彼女の後ろを、やや遅れてついて行く。
「けーいこ」
小さい後姿だ。今にも泣きそうなのに俯かない彼女は、きっと唇を噛んでいるのだろう。しばし考えて、口を開く。
「…布団が吹っ飛んだ」
ぴたりと彼女が止まる。ものすごく不機嫌そうな目で睨まれた。
「駄洒落を言うのは、誰じゃー」
続けて言ったら、今度はものすごく白い目で見られた。
「隣の庭に塀が出来たそうだ」
「ふうん」
ものすごく棒読みだったけど反応があった。けれど出来れば「へー」と言ってほしかった。
「なんのつもりよ」
そしてものすごく冷たい声で言われた。
「いや、笑う理由を作ってみようかと」
「バカじゃないの?」
「そうかもね」
歩みを止めた恵子と、止めなかった直城。自然、距離は縮まった。
「バーカ」
「いいよ、別に」
ひたすらまっすぐに彼女が彼女を貫いて生きていけば、必ず理解しあえないものは出てくる。恵子は、愚直なまでに澄んでいるから。自分を傷つけるものすべてを睨み付けて、尖って尖ってむき出しの牙は、拒絶することで自分を守ってきた。
「だって、あたしは」
「うん?」
見上げてきた恵子の黒い瞳は、少しも揺らいでいない。なのに影があるコトに、本人はきっと気付いていない。
「だって…」
言ったまま、俯いた。
「だって?」
「なんでもない。言いたくない。カッコ悪い」
「いやいや、俺に比べればカッコいいよ」
「あんたよりカッコよくてもたいしたことない」
「酷い…」
傷付いたらどうしてくれるんだ。確かにあんまりカッコよくはないかもしれないが。
「なんか飯でも食べに行きましょうか」
「そんな気分じゃない」
「うん。なににする?」
「あんたの耳はどうなってんのよ」
「あ、でも外で食べるとハンバーグはまたお預けかな」
呆れたようにため息をついて、恵子はそういえばと前置きした。
「作るのはいいけど俺がいるときにしろって、お兄ちゃんが言ってた」
「げ、マジで?」
警察官である彼女の兄は、目下のところ直城の最大の敵。きっと人生のラスボス。恵子にとっては最大の理解者。偉大なるお兄様にとって、直城の存在が面白いわけがない。
「つまり、俺はお前が作ったハンバーグを、お兄様と仲良く三人で囲まなきゃいけないわけか?」
「そういうことね」
「針の筵なんですけど」
「なんで? あ、お兄ちゃんと二人が良いの?」
「それこそなんでだよ…」
恐ろしいことに、彼女は本当に疑問に思っている。こちらの気持ちなどまったく通じていないのだから、都合がいいのか悪いのか。
「悪いんだろうな、たぶん」
本人に通じていないのに周りにはバレバレで、からかわれるやら睨まれるやら。なにもしていないのに、過保護なお兄様には会うたびに逮捕されかかる。
「やれやれ」
まあいいか。それよりも、今はこれだけ、伝えておきたい。
「お前はなにも悪くないよ」
切れ長の眼が大きな見開かれた。その目を、まっすぐに見詰め返す。嘘はどこにもない。
「恵子は悪くないよ。正しいかどうかは、よく解らないけど」
今回彼女が傷付いたのは、小さな嘘をつけなかったから。どうしても、彼女は自分が正しくないと思うことは出来ない。今だけでもそう言っていれば丸く収まるという一言が、彼女には言えない。嘘を言うくらいなら、沈黙を貫く。
強く気高く、誰よりも脆い彼女。
彼女のひたむきさは、時に他人を傷つけるだろう。疎ましがられるだろう。今日のように、迫害されるコトもあるだろう。
それでも。
「間違ってなんかないよ」
絶対に、その脆さを弱さにはさせないから。
代わりに泣くのは禁止されたので、とりあえず代わりに笑ってみようか。
「なに食べに行こうか」
「美味しいもの」
即答した彼女に、棘はない。
「デザートもね」
「はいはい」
いつか、彼女は彼女でいるために独りでいると言い出すかもしれない。そんなことはさせない。死んでもさせない。
恵子サン。どうぞ、ご覚悟を。