top of page

 二つの玉。シロの命とクロの記憶。返してもらったということは、本当にシロは自由の身になったということだろう。
 女神が死んだら術は解けると聞いていた。それなのにシロもクロも無事だったのは、女神が娘に術を預けて逝ったからなのだろう。もしかしたら、彼女なりの温情だったのかもしれない。そもそも、千年も子どもを作らずに独りで生きていたということ自体が、シロたちへなにか思うことがあったという証明なのかもしれない。
 あの時凄絶に笑っていた女神が謝るというのは想像できないが、千年あれば性格は多少なりとも変わるのだろう。シロも変わったように。
 婚約者だったクロを「妹」として扱うのはつらかった。「兄」に向けられる笑顔もつらかった。しばらくは直視できなかった。しかし離れればクロはまた死んでしまう。それだけは避けたかった。神々と同胞の命を奪ったシロが、たった一人の女の命は奪えなかった。
 実際、シロは苦しんだ。愛しい女がそばで笑っているのに、少し前まで家族を作ろうとしていたのに、二度と想いは届かない。離れることすら許されない。
 女神を討って自分も死のうと思ったこともある。しかし、そうすれば「クロがまた死ぬ」ということに耐えられなかった。
 女神を討ってもシロが離れても、クロは死ぬ。そばにいても離れても苦しいのなら、せめてそばにいたかった。
 そうして千年、シロは耐えた。ただ、クロが息災であるように努めた。他人にクロを妹だと紹介するのにもようやく慣れてきた。自分が苦しむことでクロが生き長らえるなら、それでいいと思い始めたのだ。
 だというのに。
 クロの記憶が目の前にある。これをクロに返せば、シロは兄から婚約者に戻ることが出来る。クロが処刑された後でシロがしたことを知れば、クロは傷つき怒るだろう。泣いて、シロを責めたてるかもしれない。自分のせいでと苦しむことも解っている。それでも、クロはまたシロを見るだろう。兄としてではなく。
 記憶を返し、経緯を話し、二人で何かしらの決断をすべきだ。解っている。
 解っているのだ。
「―――………」
 シロは固く目を瞑った。
 瞼の裏では、ふふふとミーコが笑っている。
「…あのクソガキ…」
 最後まで笑っていた。わざと傷つく言葉を選んだシロに、まるで解っているとでも言うように。
 この玉二つを盾にすれば、シロはミーコの言うことを聞かざるを得ない。ここに置けとも攫って逃げろとも言えたはずだ。ミーコは知っていたのだから。二つの玉が、どんな意味を持つのか。
 あの少女はシロとクロに自由を返して、自分は独りで戦場ともいえる神界に帰っていったのだ。神官たちは深々と頭を下げていたが、はたしてあの中に、ミーコの本当の味方はどれだけいるのだろう。
「ち…。面倒くせぇ…」
 つぶやいて、ごろりと横になった。
 腕で視界を隠して、大きく息をした。
 面倒くさいことは嫌いだ。そもそも守護者になったのも、その家系だったからというのに過ぎない。親に逆らって他の仕事を探すのも面倒だったのだ。剣の修業は好きだったから、堂々と帯刀できるという点だけは利点だった。
 元いた星は、生態系の異常により滅んでいった。段々と崩壊していく町の中、偶然クロに出会った。
 ふわりとした空気をまとう女だった。人々は荒み、ごろつきばかりになった町で、クロは一人、編み物をしていた。
 最初は、気が触れているのだろうと思った。滅んでいく世界で、食料の確保よりも編み物に精を出している。諦めているからそんなことが出来るのだと思った。しかし、クロは言った。
「だって、みんなが寒そうだから」
 確かに季節は冬を迎えようとしているところだった。しかしそれでも、明日生きられるかどうかわからないという状況で、食料の確保以上の急務はなかったはずだ。
 誰もが自分の命を繋ぎ止めようと必死な中、クロは他人のことを思って編み物をしていた。

 数か月後、いよいよ星が駄目になった時、シロが気になったのはクロのことだった。冬の気候は厳しい。まだ、あの女は他人の為に編み物をしているのだろうか。たった一度、ほとんどすれ違っただけのような存在なのに、気になって仕方が無かった。そうして宮殿から町に下りたシロは、その様子を見て愕然とした。
 死臭が漂っている。
 思わず鼻と口を手で押さえて、シロは懸命に女を探した。前に会った時に連れて帰るべきだったと後悔しながら。
 クロは生きていた。少し前までは編み物だったと思しきぼろぼろの毛糸を巻きつけて、倒れていた。痩せ細り、シロの声にも反応しない。
 シロは必死で、クロを宮殿に連れて帰った。その時にはもう、神々の宇宙への出奔の準備は整っていた。どうか頼むと頭を下げて、クロも船に乗せた。
 宇宙航海の期間は長く、その中で、シロとクロは想いを寄せあった。まさかともに船に乗っていた長老に処刑されることになるとは夢にも思わず。
 ようやくこの星にたどり着いて、しばらくしてシロはクロを失った。その喪失感たるや、前の星を失った時よりも大きかった。クロは、シロが半ば強引に守護者にしたのだ。守護者にしなければ前の星とともに散っていたかもしれないが、もしかしたら生きていたかもしれない。
 後悔と罪悪感で、何度も吐いた。原因不明の頭痛がした。めまいが治まらず全身に力が入らなくなった。涙は枯れることを知らず、何日も眠れなかった。なのに、彼女を処刑した長老はすっきりとした顔で眠るように息を引き取った。その死に顔を見た瞬間、復讐心がシロを支配した。仕方が無かったのだ、「犯人」は必要だったのだとこぼした同胞たちも許せなかった。
 結果的に、シロは復讐を成した。その対価が、千年の孤独。命宝を女神が握っている限り、死ぬことも出来ない。婚約者は自分のことを忘れたまま、妹としてシロに笑いかける。クロは千年もの間、自分たちの寿命が長いことに気が付いていない。いや、気付いているかもしれないが疑問に思っていない。それも、女神の術の効果だったのだろう。
 女神を殺しておくべきだったのかもしれない。そうして、自分たちも死ぬべきだったのかもしれない。今度は、ともに。
「……ああ、でも、そうすっと…」
 間接的に、ミーコの命まで奪うところだったのだ。

 控えめな足音が近づいてきて、シロを思考から浮上させた。
「シロ…?」
 静かに引き戸が開いて、クロが顔をのぞかせる。今、クロの顔は見たくなかった。
「起きたか、クロ」
 腕を目の上に乗せたまま、シロは言う。
「うん。あたし、どうしたの?」
「急激な眠気に襲われたらしくて、倒れた。なんも心配することはねぇよ。ちょっと疲れてたんだろ。ミーコが来てだいぶはしゃいでたしな」
「うん…。ねぇ、ミーコは? 神官たちは、来たの?」
「ああ。ミーコは帰った。自分の意思でな」
 神官たちとの会話をかいつまんで話すと、クロは「そう」と小さく答えた。
「それで、どうするの?」
「どうって、どうしようもねぇだろ。本人が帰るっつったんだから。最初に言ったはずだ。あいつの自由だってな」
「シロはそれでいいの?」
「いいも悪いも、俺が決めることじゃねぇよ」
「…今度は、連れて逃げたりしないの?」
 クロにはあるのは偽りの記憶だ。神界において罪を犯したシロが、同じく神界で働いていた妹を人質に取られないよう、連れて逃げたのだと思い込まされている。罪の内容は、当時巫女だった女性への横恋慕。
 神からの宣託を受け、人生を神に捧げることになった女性を見初めて駆け落ちしようとした、と思い込まされているのだ。婚約者のクロが。
 クロが甦ること、偽りの記憶、千年の孤独。すべてがシロへの罰だ。
「ミーコに、言われたの」
「なんて」
「羨ましいって」
「なにが」
「シロみたいなお兄ちゃんがいて」
「………」

―――わらわも、兄妹がほしかったのぅ。シロのような兄ならとてもうれしい。
―――兄妹とは、孤独を和らげてくれるのだろう?
―――ああ、でも。
―――わらわのような妹がいては、シロは面倒だとしかめっ面をするかもしれぬ。それはそれで、見てみたいが。

 ふふふ、と笑う少女の顔が目に浮かぶ。口元に手を当てて、本当にうれしそうに、楽しそうに。この世の害悪など知らないような顔で。
「ミーコはきっと、ずっとさみしかったんだね」
 甘え方を知らない少女。それでも、ヒトの好意にはきちんと礼を言える少女。牢屋に閉じ込められてなお、誰に対しても恨み言一つ言わなかった。自分の要求は、いつでも相手が損をしないものばかり。
 最初に拾った時、ミーコは見晴らしが良いと言って喜んだ。
 肉まんは、見たいとは言ったが欲しいとは言わなかった。
 父親を捜しに出た時、一睡もしていないというのに疲れどころか空腹さえも訴えなかった。
 一方シロは、クロの記憶を目の前にしてなにも決断できずにいる。あんな少女が、大人たちに頭を下げられて無理に決断をしたというのに。
 最後まで、笑って。
「…情けねぇ…」
 つぶやいた声は、本当に情けなかった。



 一か月後、神の代替わりが公表され、星の年号が変わった。
 この星をよりよいものに改革していく為、手始めとして巫女制度の廃止も同時に公表された。各地の関所には新しく目安箱が設置され、今後はそちらで対応していく、ということらしい。
 記名は自由で、しかも用紙を入れるだけでいいという手軽さから、目安箱は大いに役割を果たしている。
 そうして二年。人々の生活は、なんら変わりが無い。
 朝起きて、子どもたちは学校へ、大人たちは仕事へ行き、それぞれの役割を果たす。新しい神は、一か月に二度ほどの割合で各地に視察に赴き、人々の生活に直接触れる。新米神が特に力を入れているのは、病院の改革だ。特に孤独死だけは無いようにと、高齢者の独り暮らしの家を重点的にまわっているらしい。
 二年前は幼い姿に心配の声も上がったらしいが、神のひたむきさに今では応援の声の方が大きい。
 神の即位前に謀反を企てていたとする者たちは、神界を追放されるだけの罰で済んだ。甘いと言われても、神はそれ以上の罰を与えることを断固として拒否したのだ。

 二年間、神はひたすら政務に励んでいた。
 相変わらず遠巻きに見ている者もいたし、反対にすり寄ってくる者も増えたが、神は愚痴一つこぼさなかった。それが役割だと知っていたからだ。そうでなくとも、愚痴を言える相手はいない。
 毎朝、目安箱に入っている嘆願書に目を通す。目安箱が周知されてきたからか、段々と書類は多くなってきている。夫婦喧嘩の仲裁依頼から、川の氾濫にそなえて堤を作ってほしいというものまで、内容は様々だ。
「ふむ。学校の教室の増加か…。これは急務であるな」
 内容を確認しては、重要度別にかごに入れていく。神自らがそのようなことをしなくても我々がします、と言ってきた神官もいたが、神はその申し出を断った。人々は、目安箱に入れれば神に届くと信じている。裏切るわけにはいかない。
 今日の分の嘆願書を読み終わって、神はふぅと息をついた。部屋は広い。たった三日、世話になった家とは比べ物にならないほど。今日も弱い雨が降っている。
「…息災であるかのぅ」
「神さま、なにかおっしゃいましたか」
「いや、なんでもないのじゃ。今日の分は読み終わったぞ。さて、次はなんであったか」
「客人にお会いいただきとうございます」
「おお、そうであった」
 神に就任してから、とにかくお目通り願いたいと言ってくる者があとを絶たない。即位した直後は各地の関所の責任者だけだったが、最近は権力者から一般庶民まで枚挙にいとまがない。巫女制度を廃止し、神が直接視察に赴くということは、頼めば会ってくれるということだと思っているらしい。神はこの願いを聞き入れ、数日ごとに面会日を作っている。
「では、参るか」
 この星の不文律は平等性だ。神に会えた者と会えなかった者を生まないため、神との面会は御簾越しで、直接言葉を交わすこともない。また、面会するのも一人一人ではなく複数でということになっている。
 客間に入り、神はいつものように上座に座った。即座に、女官が御簾を降ろす。
「今日は何人じゃ?」
「午前中は、二名でございます」
「なんじゃ、今日は少ないな。では、通すが良い」
 ややあって、二人分の足音が近づいてきた。
「神の御前でございます」
 女官がそう言うと、二人が平伏するのが分かった。御簾越しだと影しか分からないので、神はあまり御簾が好きではない。やはり、相手の顔を見て話がしたいのだ。それを神官に言うと、「慣例ですから」と退けられてしまったが。
「では、奏上を」
 女官の言葉に、すうと息を吸い込む気配があった。平伏のままだ。御簾越しとはいえ、神の御前で顔を上げることは許されない。
「……本日はご多忙中、お目通りが叶ったことを恐悦至極に存じます」
 男の声がした。
 低い、しかしはっきりと通ってくる声。
 その声を聞いた途端、神は目を見開いた。
 この声、まさか。
「この度は、当代神さまにぜひともお聞き入れいただきたい願いがあり、こうしてまかり越しましてございます」
 心臓が鳴った。
 小さく口を開いた。
 忘れるわけがない。
 神は立ち上がった。矢も楯もたまらなくなって、御簾を跳ねあげる。
 そこに、男女が一名ずついた。
「……シロ…。クロも」
「わたくしの名は白雨《はくう》。ともにおりますのは柘榴《ざくろ》と申します」
 官吏の衣装に身を包んだシロとクロが、折り目正しく座っている。平伏したままなので顔は見えないが、見間違えるはずもない。
 神が御簾から出てきたというのに、注意するべき官吏はいなかった。部屋には、シロとクロと神だけがいる。
「…面を、上げよ。直答を許す」
 神がそう言うと、シロとクロはゆっくりと顔を上げた。二年前となんら変わらぬ精悍な顔つきで、ミーコの目をしっかりと見ている。
「シロ、クロ」
「ご存知の通り、わたくしは罪人でございます。先代神さまの温情により命を助けていただいたにも関わらず、己の罪に背を向けて生きてまいりました。しかし今はそんな己を恥じ、猛省しております。もし許されるなら、今後は当代神さまにこの命を捧げたいと切望し、この場に臨んだしだいでございます」
 そこで、二人は深々と頭を下げた。
「どうか、我ら二人を神さまの護衛として神関の末席にお加えいただきたいと存じます。我らは決して御前を離れず、裏切らず、微力を尽くして神さまのお役に立てるよう、精進してまいります」
 神が答えるまで、少々の間があった。やがて発した神の言葉は、震えていた。
「シロ、それは…」
 ふらりと、シロの前に歩み寄る。シロは顔を上げた。表情は読めない。
「それは、つまり、あれか。わらわを助けてくれると…。また手を差し伸べてくれると、そういうことか…?」
「お許しいただけるのであらば」
「そなたになんの利益があるのじゃ」
「決まっております。―――あなたを傍でお守りできることです」
 ぽかんと口を開けた神に、シロは笑った。
「とことん関わってやるって、二年前に決めたしな。俺は拾ったものの面倒は最後まで見る主義なんだよ」
 口調を変えて、正座も崩したシロは、服装以外は二年前と変わらない。
「どうせもう心配で仕方がねぇんだ。なら、目の届くところにいたほうがいい」
「…たわけか、そなたは。せっかく自由にしてやったというのに」
「まったくだ。どうしようもないたわけだよ。けどもう、どこで何をしようが俺の自由だ。なら、ここにいる」
 シロは、くしゃりと神の―――ミーコの頭を撫でた。隣では、クロが微笑んでいる。
「クロ。クロも、良いのか? そなた、記憶は…」
「記憶はございます」
 シロは、クロに記憶を返したのだ。そしてこれまでの経緯を、あますところなく伝えた。
 シロの予想通り、クロは傷ついた。悲しんだ。涙は滂沱と流れた。食事も摂らない日々を続けた。それでも、シロを責めることはしなかった。
 一人で泣かれるよりも責められたほうがマシだと訴えたシロに、クロは首を振って見せたのだ。一緒に償うと。
「本当に、つらい記憶でございました。しかし、罪は白雨だけにはございません。わたくしの浅慮が招いた結果の惨劇でもございます。一度は亡くしたこの命、先代神さまへのご恩返しといたしましても、当代神さまの為に使いたいのです」
「クロ…」
「これからは白雨とともに、犠牲になった者たちへの冥福を祈りながら、償いの道を歩みたいと思っております。許されるなら、当代神さまのお傍で」
 そこまで言って、クロはミーコの頬に手を伸ばした。
「ごめんね。二年間も、独りにして。……さみしかったよね」
 ミーコは、目頭が熱くなるのを自覚していた。
 会いたかった。ずっと、会いたかった。また、抱き上げてほしかった。一緒に食事をしたかった。
 本当は、さみしかった。
 シロの千年間の苦しみ、さみしさに比べれば、さみしいと自覚することさえも許されないと思っていたけれど。
「シロ、クロ…」
 ぼろぼろと、こぼれてくる涙をミーコは隠しもしなかった。
 しかし、どう言えばいいのかわからない。なにをどう言えば、二人に伝わるのかわからないのだ。
「わらわは…」
 口を開いたのはシロだった。
「雨が止んだな」
「……は?」
 顔を上げると同時に身体が浮いた。
「約束だったな。晴れたらまたこうしてやるって」
 二年以上前の、一方的な約束。シロは覚えていた。
「庭でも歩くか。さすがに、政務中の神さま連れて下界を散歩は出来ねぇからな」
「シロ」
「前にも言っただろ。言いたいことは言え。俺に利益がある時は聞いてやる」
「シロ…」
 ミーコは、シロの首にしがみついた。そんな様子を、同じく立ち上がったクロが慈愛に満ちた表情で見つめている。
「シロ、クロ。頼む」
「なんだよ」
「なぁに」
「わらわのそばにいてくれ。これからも、わらわを助けてくれ。………わらわは、さみしかったのじゃ」
 シロが微笑んだことは、首にしがみついているミーコにはわからない。クロが手を伸ばして、ミーコの頭を撫でた。
「喜んで」
 その日、神は久しぶりに声を上げて泣いた。
 雨が止んで、空は晴れていた。


bottom of page