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…やぁ、いらっしゃい。

昔話を聞きにきたらしいね。聞きたいならば話してあげるけど、大した話じゃないよ。

二十年ほど前の、とある男の話さね。

 

 

十九世紀、ロンドン。

テムズ川沿い、古代ローマの居住地として始まったこの街は、混沌としていた。

煉瓦造りの建物が立ち並び、整備された石畳の上を上流階級の貴族たちが馬車で優雅に移動する一方で、同じ道路の上には浮浪者が倒れていた。下流階級は人間扱いされず、労働環境は地獄といっても過言ではない。

珈琲や紅茶の嗜好品が普及する裏では食品偽造が横行し、下手に嗜好品に手を出そうものなら毒を自ら取り込んでいるにも等しかった。

 霧の町とは美しい意味合いではなく、大気汚染を揶揄されたものだ。

 そんな街で猟奇的殺人事件が起こったのは、もう二年も前になる。特定されているだけでも五件、疑わしいものを含めれば十件以上の被害者を出したその殺人事件は、二年経った今でも犯人が特定されていない。

 ただ、犯人が鳴りを潜めたことで、事件は段々と風化され始めていた。混沌とした世の中で、人々はただ生き抜くことに必死なのだ。明日、路地裏で餓死しているのは自分かもしれない。そんな恐怖と隣り合わせで、ロンドン市民の大多数は過ごしていた。

 それでも、まだその事件を追う者はいた。縮小された警察本部はもちろん、探偵を名乗る人間や一部報道機関も。

 アーノルドもその中の一人。とある新聞社の記者だ。被害者が二人になった時から、事件が風化され始めた今でも犯人を追っている。

 彼は、呼び出された路地にいた。被害者の一人が倒れていた場所だ。凄惨な事件現場になったその路地には、事件に似合わず白い鐘という名前が付いている。もちろん、名前は事件が起こる前から付いていたのだが。

 

 アーノルドは、かれこれ三十分ほどそこで待っていた。だが、待ち合わせの相手は現れない。時計が一般に普及していない時代、待たされるのは当たり前のことだったが、アーノルドはため息を吐かずにはいられなかった。

 また、ガセネタか。

 取材費目当てでいい加減なネタを持ってくる人間は多い。誰もかれもが、どうにかしてその日の空腹を満たさなければならないのだ。

 日が傾き始めるまで待ってみたが、やはり誰も来なかった。アーノルドは歩き出した。当てはなかったが、暗くなる路地でただ立っていれば暴漢に襲われる危険がある。それでなくてもあの事件が起こった路地だ。暗くなる時間にいたくはない。

 とりあえず新聞社に戻ろうと歩いていると、小さなわき道から少女が出てきた。かつては服だったのだろう襤褸を纏う少女は、薄汚れた顔をアーノルドに向けた。同じく薄汚れた手で何か紙を持っている。そこにはこうあった。

 

――Are You Arnold?

 

 アーノルドは軽く目を見開いた。とっさに周囲を見渡すが、少女のほかには浮浪者が数人うずくまっているだけだ。貴族の人間は、そろそろ夕餉の時間だろう。少し迷ったが、アーノルドはうなずいた。

「……Yes…?」

 少女は、彼の返答にぱっと顔を明るくした。これまでにも、手あたり次第紙を見せていっていたのかもしれない。だが、少女は笑っただけで言葉を発しようとはしなかった。

 あるいは、言葉を知らないのかもしれない。

 少女は、続けて紙を裏返した。

「!」

 書かれていた文章に、アーノルドは息を飲んだ。少女から紙切れを奪い、何度も読み返す。

 これをどこで、と少女に問うても無駄だった。走り出そうとしたアーノルドの裾を、少女がぐっと掴む。そうして、掌を彼に差し出した。舌打ちして、懐から財布を取り出す。小銭をすべて少女に渡すと、汚れた外見に見合わないほどの笑顔が返ってきた。

 だがそこまでだった。アーノルドは紙切れを握りしめて走り出した。やっと、会える。やっと、真実にたどり着ける。あの殺人事件は、なんだったのか。何故、「連続」になったのか。

やけに激しい鼓動は、走っているからだけではなかった。

 

 指定されたのは始まりの場所。最初の殺人事件が起きた場所ではない。名前など付いていない、ヒトがすれ違うのもやっとというほどの小さな路地裏だ。辿り着いた時には辺りは橙色に染まっていた。

 そこに、ヒトがいた。

「…初めまして」

 弾む息をなんとか整えようとするアーノルドに、その人物は赤い唇を歪めて笑った。かなり若い。アーノルドよりも年下だろう。二重の意味で驚かずにはいられなかった。

「女…か?」

「ええ、そうよ」

「お前が…」

 言ったきり言葉が続かないアーノルドに、女は一層笑みを深くした。橙色に肌を染められながら、もう一度「ええ、そうよ」と繰り返す。そうして続けた。

「会いたかったわ。――初代ジャックさん」

 一陣の風が吹き抜けた。

 

 数十秒かけて息を整えたアーノルドは、平静を装って女に対峙した。

「…それは、二代目が勝手に名乗った名前だろう。俺はジャックじゃない」

「そうね。それは失礼したわ。じゃあプロトタイプとでも呼べばいいかしら」

 女の歪んだ笑みが不気味だった。

「お前は、なんなんだ?」

「判っているでしょう。切り裂きジャックよ」

「何故だ!」

 アーノルドは知っている。あれは、猟奇殺人などではなかった。連続殺人でもなかった。売春婦が一人、行きずりの男に殺害されるという、珍しくも無い事件になるはずだったのだ。

 それだけだったのに。

 実際、アーノルドが手に掛けたのはあの女一人だったのに。

「何故って、あなたと同じよ。売春婦が嫌いなの。汚らわしいわ」

 そう告げたときの女からは笑みが消えていて、本心であることが伺えた。

「何故、俺のことを…」

 言いながら、アーノルドは頭の片隅で納得していた。

 二年前、売春婦たちの警戒心の強さは雇用主を悩ませるほどのものだった。にも拘わらず、切り裂きジャックは犯行を簡単に重ねていた。そのはずだ。相手が女なら、強い警戒心も緩んだだろう。しかも、年若い女ならなおのこと。

「…犯人は、医療関係者という情報がある。お前は看護婦なのか?」

 この時代、女医はほぼ存在しない。アーノルドのその問いに、女は「そんなわけないでしょう」と答えた。笑みが戻ってきている。

「どうにも売春婦の胎が気に入らなくてね。あなたもそうでしょう?」

 その通りだ。どうしても、あの胎から産まれたという事実を受け入れたくなかった。

「…俺に、なんの用だ。何故二年も経ってから呼び出した?」

「別に。ただ、会ってみたくなったの。あなたには感謝しているのよ。きっかけをくれたから」

 意味が分からず、アーノルドは眉間に皺を寄せた。

「存在が許せなかったのよね。あの女たちも」

「……も?」

 くすりと、女が笑う。

 その瞬間、唐突に理解した。

「お前……」

 この女、似てはいないか。

 この笑い方。歪んだ唇。雰囲気。声。面影。

 似てはいないか。

 自分にも流れる、あの女の――。

 

「やっとご理解いただけたかしら。……ねえ、兄さん」

 背中を、氷塊が滑り落ちた気がした。

「意外って顔をしているわね。そんなに驚くことかしら?」

 驚くことではないのかもしれない。冷静に考えてみれば、売春婦が産み落とした赤ん坊が自分だけだと思い込む方に無理がある。それでもアーノルドは、その可能性を考えたことが無かった。孤独な人生ゆえに、自分だけだと思い込んでいたのだ。

 何も言えないアーノルドに、女は――彼の妹は近づいてきた。反射的に、足を引いた。自らの手で殺した母親の顔がフラッシュバックする。あの女は、最後までアーノルドが自分の息子だとは気付かなかった。

 恨み言は言わなかった。アーノルドの人生は、言葉で言い表せるような辛酸ではなかった。強固な殺意は言葉を凌駕する。

「そんなに怖がらなくても、何もしないわ。ただ、最期に顔が見たくなっただけよ」

 逢魔が時。ただでさえ、路地裏に光は入らない。橙色は段々と薄墨色に取って変わられようとしている。近づかないと顔が見えないのは理解できるが、それよりも気になったのは。

「…最期?」

 妹は笑っていた。それまでの歪んだ笑みではなく、すがすがしいほどの笑顔だった。

「おい」

 声を掛けた時には、妹は倒れた。

「おい!」

 思わず駆け寄って抱き起こしたら、妹は口から血を流していた。その姿が、重なった。

「っ!」

 重なった。アーノルドによって命を絶たれた母親と。そして、彼女と。

 固まったアーノルドの腕の中で、うっすらと妹が目を開ける。もう、生気は無い。くすくすと、妹は笑った。光の途絶えた路地裏で、光の途絶えた目をアーノルドに向けて。

 くすくす。

 その笑みが、アーノルドの脳裏から消えることは生涯なかった。

 

 その後…?

 そうだね。その後、その男は死に物狂いで妹のことを調べたよ。確かに妹は、同じ女の胎から産まれていた。兄妹、というわけさ。彼女は売春婦たちに育てられていた。

 息子を捨てた母親が、何故娘を傍に置いていたのかはわからない。気まぐれかもしれないし、自分が動けなくなったら娘に稼がせようとしていたのかもしれない。まあ、そんなことは些末だ。

 男は孤独な人生だったよ。孤独なままだ。産まれてすぐに捨てられて、野垂れ死にしていた方が幸せだったのではないかという程にね。

 具体的に、か。そうさなぁ。一つ一つはこれも些末なんだよ。例えば、養父母に奴隷扱いされていたとかね。どこにでもある話だ。養父母は貴族の端くれでね。体面をよくするために孤児に施しを与えていたのだが、実は拷問道具の収集家でね。わかるだろう?

 そう、収集するだけでは飽き足らず、奴隷たちに試用していたのだよ。それでも命があったのは、幸いではなく不幸なことだよ。

 彼はその生涯でたった一度だけ愛した相手がいたんだがね。駆け落ちしようとしていたその相手は、母親と同じ売春婦だったのさ。もちろん、彼はそのことを知らなかった。調べたのは養父母さ。彼らになんと言われたか、想像がつくだろう。「やっぱり、そういう女を求めるのだな」ってね。

 ああ、確かによくある話だ。けれどね、実際にそんな目に遭ってごらん。よくある話だからって、簡単に割り切れるかい?

 極め付きは、その相手の自殺だよ。彼の目の前でね。ゆらりゆらりと、彼女が揺れていたんだ。

 もう彼に生きる気力は無くなった。だが死ぬ前に諸悪の根源を始末したくなった。それで、自分を産んだ女を探し出して殺したのさ。自分が入っていた胎を掻っ捌いてね。それで自分も死のうと思っていたら、なんと知らぬ間に連続殺人に発展した。おかしいねぇ。君も笑っても構わないよ。

 彼はもう一人の殺人鬼を見つけるまで死ねなくなってしまってね。まあ確かに、そんなことは知ったことじゃないと死んでしまっても良かったんだろうけども、心残りだったんだろうね。人間、死ぬと決めてしまえば腹を括れるもんだよ。

 妹のことかい?

 そうそう。彼の妹は、服毒自殺だった。待ち合わせの前に薬を飲んでいたんだ。ゆっくり効いてくる薬をね。彼女は懐に手紙を遺していたよ。彼女が母親を愛していたのかどうかは判らないけれどね。そこには、どのみち病気で先が長くないことと、兄の犯行を目撃したのだということが書かれてあった。彼は愕然としたよ。息子が母親を殺しているところを、妹に見られていたのだからね。

 その手紙か。あるよ。見るかい?

 どういうわけか、捨てられないんだ。あれから何十年も経って、もう誰もが忘れている事件なのにね。

 何故死ぬのを辞めたのか?

 ふふ。おかしいだろう? 死ねないんだ。だって考えてごらん。彼らには確かに同じ血が流れていたんだ。あの、汚らわしい血がね。

 妹の存在が露になったことで、彼は他にも同じ血を持つ者がいるということに気が付いた。それで、根絶やしにしたくなったんだ。その、すべての血流を。まるで、それが自分の使命だとでもいうようにね。

 彼は女たちのことを調べて調べて、父親の可能性がある者を殺そうとしたんだ。けれど失敗してね。警察や勤めていた新聞社の奴らからも精神病だなんて言われて、こんな療養所に閉じ込められているってわけさ。

 あれから二十年か。まだ、この血を分け合う人間はいるのかな。だとしたら? 決まっているじゃないか。根絶やしにするんだよ。彼は――俺は、壊れてなどいない。何故なら最初から壊れていたんだから。

 

 …そういえば、きみの名前を聞いていなかったな。新聞記者だという話だけれども。どうやってここに辿り着いたんだい?

 どうした? そのナイフはなんだ?

 

 

 ――ああ、そうか。

 きみも、根絶やしにするために生きていたんだね。

 そうか。俺を送ってくれるのか。きみの、母親のところへ。俺が唯一愛した女のところへ。なら、仕方がないかな。

 

 何故笑うのか? だっておかしいだろう?

 母親を殺した俺が、妹を亡くした俺が、この血を根絶やしにするために生きていた俺が、息子に殺されるなんて。

 

 きみ、三代目を名乗るかい?

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