時は過ぎる。そしてまた、春が来る。
「あら・・・もうこんな時間・・・」
愛犬の声で本から顔を上げたソフィルは、時計を見て呟いた。少し前まで高かったはずの陽は傾き、夕刻といっていい時間に入っている。
「ごめんなさいね、ちょっと夢中になっていて」
そう言って、愛犬の頭を撫でてやる。撫でられた犬は、気持ちよさそうに目を細めた。
「夕ご飯の準備をしなくてはね」
愛犬から手を離し、テーブルの上に置いていたしおりに手を伸ばす。本に挟もうとして、ふと動きを止めた。
愛犬が不思議そうに見上げてくる。
少し、笑った。
当時、他人が彼女のコトを語るとき、使われる言葉は大体決まっていた。
「あのきれいな人」
「真面目」
「有能」
そして。
「笑わない」
と。
「機械のようだね」
とその教授は言った。
「美人だが、仕事をするだけの機械。まあ、正確に仕事をするから、便利かもしれんがね。機械に笑顔を求めるほうが無理な話だろう。仕事も出来て、あの容姿だから鑑賞にも持ってこいだ。君にはぴったりだよ」
さも上手いことを言ったかのように自分の言葉にしきりにうなずいている。周りのしらけた目など視界に入ってもいないのだ。
「君の優秀な機械によろしく」
言い捨てて、気が済んだように教授は去っていった。
理性を総動員して、やっと褒め言葉として受け取ることに成功した。そうでなければ、ポマードで撫で付けた頭に火を点けてやるところだった。
自分の理性に心中で拍手喝采を送りながら、ガイアは息をはいた。
ガイアの助手であるソフィル・アークスは、有能だ。美人だし、頭もいい。与えられた仕事を迅速かつ正確にこなし、冷静に物事を観察し、的確に意見を述べ、その上良家の娘ときている。しかも、出世欲に取り付かれて家柄を見せびらかすようなこともしないので、彼女を助手としているガイアは大いに助かっている。
だが、彼女は笑わない。笑わないというより、表情を変えない。だから先刻のように、頭の悪い幹部からは「仕事マシン」と呼ばれる。それが、ガイアは気に食わなかった。
大きな大学ともなれば、当然のように派閥というものが存在している。ガイアは数少ない中立派だが、その態度が気に入らないという人間は多い。
昨年の春に教授となったばかりのガイアは、その鷹揚な性格からか生徒に人気があり、ふらふらとしていると思ったら時に誰よりも鋭い観察眼や切れ者ぶりを見せ付ける。さらにソフィルという有能な助手が付いているのだ。ソフィルが付いているということはすなわち、アークス家が付いているということを意味する。
ガイアとソフィルは単なる教授と助手だが、それでもやっかむ連中はあとを絶たない。
それでなくても、ガイアは講師となったときから目立っていた。黒に近い髪はぼさぼさで、いつも黒いシャツの上によれよれの白衣を着ている。ガイアの担当する科目は理系ではないが、この方が教授っぽいというガイア以外にはわからない拘りのもと、彼はいつでも白衣でいるのだ。
髪の毛はぼさぼさだが、ガイアの外見は誰が見ても美形に入る。大学内で一番背が高いというのも、目立つ理由の一つになっている。
むしろ、ガイアはその外見を隠すためにだらしない格好をしている節がある。それに気がついているのは、助手であるアークス他、ほんの一部の者たちだけだが。
「失礼します。教授」
規則正しいノックをして、研究室の扉を開ける。扉を開けてから、その場で一礼。静かに扉を閉める。その動作の一つ一つが規則正しく、まるで学校の講師のようだ。いや、彼女は本当に講師だが。しかし例え講師であったとて、他の者はここまで模範どおりにするのは最初だけだろう。規則でもないのに毎日スーツを着こなして、抑えた化粧に切りそろえられた髪。装飾品は小さな髪留めのみ。
肩は凝らないのか、と思う。
「先ほどおっしゃっていた書類をお持ちいたしました」
「ああ、すまない」
「いえ。他にご用件は?」
「いや、今はいいよ。ご苦労だった」
「とんでもありません。では、失礼いたします」
軽く頭を下げて、すばやく後ろを向き、去って行く。潔いまでの身のこなしに、いっそ清々しさを覚えるほどだ。
「アークス助教授」
「はい、なんでしょうか?」
振り向いた目元は涼しい。それが、正直少し気に入らない。
「もうすぐ昼休憩だし、一緒にランチでもどうだ? もちろん、僕のおごりで」
にっこり笑って誘ってみたら、彼女は軽く眉をひそめた。
「もしかして忘れていらっしゃいますか」
「なにを?」
「本日の休憩時間に、外出許可をくださいと申し上げたはずです。申請書類も提出しましたが」
「あ」
「・・・教授」
「いや、すまない。つい、忙しくて・・・」
及び腰になって言い訳しようとするガイアを、ソフィルは冷たい視線で見詰める。ガイアは、観念してカリカリと頭をかいた。
「悪かった。許可が取り消しになることは無い。行ってきたまえ。気をつけてな」
「ありがとうございます」
言って、彼女はきびきびと一礼をした。頭を上げてからくるりとガイアに背を向ける。肩口で切りそろえられたブロンドのまっすぐな髪が、彼女の邪魔にならない程度にさらりと流れた。
おかしい。ガイアは、ソフィルが出て行ったばかりの扉を見詰め、眉をひそめて首をかしげた。
「なぜ僕が本気で落ち込まなければならない?」
「ふられたからだと思いますよ」
「黙っていろ、そこの見習い」
軽く睨むと、研究員であるリキは肩を竦ませた。ガイアの研究室には、常時ガイアのほか数人の研究員がいるが、授業中の今はリキ一人だけだ。
リキは、ガイアが助教授のときの生徒だ。卒業しても研究員として大学に残っており、講師を目指している。研究員の中ではガイアともっとも付き合いが長い。ゆえにお互いに容赦も無い。
「教授が誘えば、ついてくる女性はいるんじゃないですか?」
「別にいらん。アークスが来ないなら一人でいい。そもそも、彼女以外に声をかけるのは面倒くさい」
「それを助教授に言えばいいのに」
「言えるものならとっくに言ってるわ、馬鹿者」
ガイアは、がたんと音を立てて席を立った。
「昼食に行ってくる。なにかあったらどうにかごまかしとけ」
誰だよ、こいつを教授にしたのは。
口に出してもムダであるコトを、リキは知っていた。
「やれやれ・・・」
リキが咥えるタバコの煙が、研究室の窓から逃げて行く。初春の風が心地よかった。
研究室を辞したガイアは、しかし昼食に向かうでもなく車に乗っていた。食事に行くわけでもないが、単にドライブをしているわけでもない。
向かったのは海が見える丘。
「・・・やっぱりここか」
丘への上り口に車を停めて、ガイアは呟いた。丘陵の一番高いところに、小さな墓がある。そこに立っているのは、ソフィル。
彼女は花束と供物を墓に置くと、自身もその前に座り込んだ。
そのソフィルが振り返っても、木の陰でぎりぎり隠れる場所から、ガイアはソフィルを見上げる。後ろから、しかも下方から見ているのではっきりとしないが、手を合わせているのだろう。跪いて頭を垂れるそれは、懺悔の形にも似ていた。
彼女はいまだ、何を願っているのか。祈っているのか。
まだ、思っているのか。かの人を。
彼女は、長いことそうしていた。ガイアは、黙ってそれを見ていた。彼女のことだ。昼休憩が終わる時間に間に合うように踵を返すはず。そして、一度も振り返らずに降りていくのだ。
この、絶望を縫い付けた丘陵を。
その後、何食わぬ顔で戻ってきたガイアは昼食が長いとソフィルに小言をもらった。
ガイアが定刻どおりに帰ってこなかったので、彼の授業をソフィルが代行したのだ。ソフィルが怒るのは尤もだったが、そのくらいで堪えるようなガイアではない。
むしろソフィルの態度のほうがいつもと違う気がして気にかかったが、墓参りのあとだからだろうと思い込むことにした。彼女が話さないのなら、ガイアが何をしてもムダだ。
*
時計の針はもうすぐ定時を指そうとしている。学生たちもほとんどは帰った。研究室に響くのは、ソフィルが書類にペンを走らせる音と、ガイアの欠伸をかみ殺す声と、リキのライターを弄ぶ音。
やがて定時のチャイムが鳴ろうとした頃、ソフィルが席を立った。書類を手にしてガイアの机の前に立つ。
「書類のチェックがすみました」
「ご苦労。では今日はこれでおしまいだな」
「はい。お疲れ様でした。私はこれを提出してきます」
「ああ、頼む。じゃあ、お先に」
帰らせてもらう、と言おうとして、ガイアはソフィルの表情に気がついた。彼女にしては珍しく、何かを言い澱んでいるような。昼間に小言をもらったときよりも、顕著に態度に現れている。
「どうした?」
「いえ・・・」
普段の彼女なら、何もないのならはっきりと何もないと言うだろう。なにかあったとしても、ガイアに関係ないのなら冷たいほどはっきりとそう言うはず。しつこく聞きすぎてしばらく口を聞いてもらえなかったこともある。あの時は、さすがのガイアも堪えた。
だが、今回は。
少し考えて、ガイアは席を立った。ソフィルを促して、来客用のソファに座る。戸惑うソフィルに、向かいのソファを指差した。
「座りたまえ。書類の提出はあとでいい」
「しかし、提出期限が」
「座れ。―――アークス助教授」
「・・・はい」
有無を言わさないガイアに、ソフィアは折れた。その様子を、リキが見るともなしに見守っている。ソフィルがおとなしく座るのを待って、ガイアは再び口を開いた。
「何があった?」
「・・・・・・・・」
「アークス?」
ややあって、ソフィルは深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
驚いたのはガイアのほうだ。なにを言われるかはわからなかったが、いきなり謝られるとは思っていなかった。そもそも、ガイアが謝らなければならない心当たりはあってもその逆は無い。
「どういうことだ?」
「私のせいで、教授に不快な思いをさせてしまったのではないかと」
ガイアは頭の回転が速い。リキは首をかしげているようだったが、ガイアには言葉の意味が解った。
「・・・昼間の話を、聞いていたのか」
「昼間・・・? いいえ。先ほど、代行した授業の後でマーテル教授とお会いしまして」
「あのタヌキジジイ・・・」
舌打ちをした。
昼間の態度がおかしいと思ったのはそのせいだったのか。墓を降りる彼女を見送った後、自分も墓の前まで行っていたから遅くなったのだが、それで彼女にこんな思いをさせては元も子もない。
しかし、マーテルをどうしてくれよう。やっぱりあの時に火を点けるべきだったのだ。燃やしてしまってはこっちも捕まるので、歳に似合わず量の多い髪を生かしてアフロなんかどうだ。
「いやいや待て待て。ここは一つ、時代に遅れてパンチパーマか?」
「教授、声が出ています」
「気にするな、わざとだ」
「教授。誰かに聞かれたらどうします」
「どうにでもする。―――それで、君は気にしているのかね?」
自分が、「仕事マシン」と呼ばれているコトを。
「いいえ」
彼女はそう言った。ガイアの問いに、はっきりいいえと。ただ、と続ける。
「誰であれ、自分の助手が笑いもしない『機械』だと言われるのは、不快でしょうから」
そう言って、ソフィルはまた頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
リキが、タバコを吸う手を止めている。ほとんど灰になっているコトに気がついて、ゆっくりと灰皿に押し付けた。
「顔を上げたまえ」
俯いた顔は、きっといつも以上に硬い表情をしているのだろう。笑うどころか、もっと渋い顔をしてどうする。
「君は、何かミスを犯したのか?」
「・・・いえ・・・」
言いながら、ソフィルはやっと顔を上げた。ガイアが想像していたとおりの表情で。
止めてくれ。本気で思う。
そんな顔をさせるために、ストーカーまがいのマネをして見守ってきたわけじゃない。彼女の澄んだ切れ長の目が、二度と曇らないように。
「君が謝るコトはない。誰にでも得意不得意はある。君はたまたま笑うのが苦手なだけだ。そうだろう?」
「すみません」
「謝らなくていいといったはずだ。そもそも、あんなタヌキになにを言われようとも、僕に傷はつかない。ま、虫がうるさい程度だ」
「教授、それは言いすぎかと・・・」
「俺の助手を愚弄するものに、敬意を表する気は無いね」
きっぱりと言い放てば、ソフィルは珍しくその目を見開いた。ガイアの一人称が変わるとき、それは、彼の怒りが臨界点に近いときだ。ソフィルはもちろん、リキでさえ数回しか聞いたコトはない。
「教授・・・」
「ま、そういうことだ。僕は気にしない。だから君も気に病むな」
戸惑うソフィルに、ガイアは笑ってソファから腰を上げた。
「話は終わりだ。では、書類を提出して帰って休みたまえ。僕ももう帰る」
ソフィルもソファから立ち上がり、一礼をして研究室から出て行った。そして、残されたのは男が二人。
「おい、りっくんよ」
「その呼び方止めて下さいってば」
「おかしいと思わないか?」
「無視かよ・・・。はいはい、何がですか?」
「なぜ、僕にあそこまでにっこり微笑まれて彼女は無表情なんだ」
「さあ・・・ってか、さっき自分で得意不得意があるとかカッコつけて語ってたじゃないすか」
「僕の計算では、出て行く前に「ありがとうございます」と花のように微笑む予定だったのだぞ?」
「知りませんよ、そんなもん。予定は未定っすからね」
「もういい、行ってくる」
「どちらへ?」
「・・・わかりきっていることを聞くな」
「帰るって言ってたくせに」
「帰るさ。野暮用を片付けたらな」
コートを羽織ってドアに向かいながら、ひらひらとガイアは右手を振る。リキには見えないその位置で、彼の眼光は鋭く光っていた。
ガイアは研究室を出て、廊下を右に曲がって目的地に向かう。
だから彼は気がつかなかった。反対側の廊下の端に、まだ彼女がいたコトに。書類を胸に抱いた彼女が、ぎこちなく笑っていたコトに。
ノックの音がして、今まさに帰ろうとしていたマーテル教授は帰り支度の手を止めた。
「お疲れ様です。マーテル教授」
にこやかに挨拶をするその男の目は、まったく笑っていなかった。
花が、舞う。
街灯が一つ、ぽつんとあるだけの夜の公園で、ソフィルは魅せられたようにその場から動かなかった。
花が落ちる。
月明かりのない夜空は、ソフィルごと公園を飲み込んでしまいそうだ。
が、それを邪魔する男が一人。
「夜空ごときに飲み込ませるにはもったいないな」
「・・・まだ、お帰りではなかったのですか」
振り向かないまま言うソフィアに、ガイアは笑う。
「ちょっと野暮用でね。思ったよりも時間がかかったが」
その言葉に何かを感じたのか、ソフィルは振り返った。
「野暮用?」
仕事はすべて片付けたはずだが。
「たいしたことじゃないよ。身の程ってヤツを教えてやっただけさ」
肩を竦めるガイアに、ソフィルは嫌な予感を覚えた。
「まさか、マーテル教授になにか・・・?」
否定も肯定もしないまま、ガイアは笑っているだけだ。
「あのタヌキはね、自分の助手よりも私の助手のほうが有能だから気に入らないだけだ。負けタヌキの遠吠えとでも言うか」
「いくらなんでもお言葉が過ぎます」
「すまなかったな」
「そう思うのでしたら・・・」
「そうじゃない。君に対してだ」
「は?」
「僕の帰りが遅くなったから、タヌキが君に話しかける隙が出来てしまった。これでも、常日頃はそんな隙を作らないようにしていたのだがね」
あの墓を前にして、しばらく動けなかった。
「嫌な思いをさせて、すまないことをした」
「いえ、元はといえば私が・・・」
「君の謝罪はもう聞いた。そしてその必要はないと言った。たまには僕にも素直に謝らせてくれ」
軽い口調とは裏腹なガイアの目を、ソフィルはしばし見上げていたが、しばらくしてからうなずいた。それを見て、ガイアが安堵したように笑う。この男にしては珍しい表情だ。ガイアは、ソフィルから目を逸らしてそびえ立つ木を見上げた。
「花を見ていたのか?」
「・・・散っていくさまを、見ていました」
「そうか・・・」
静かな問いに、静かな応え。ガイアはソフィルを見て、少し迷ってから口火を切った。
「君の目には、まだ絶望しか映っていないのか?」
ソフィルはガイアを見ない。しかしその肩が震えたのを、ガイアは見ていた。
「どういう、意味ですか」
「言葉のとおりだ。君はいまだに、あの丘から動けていないのかと思ってね」
「あなたに関係ないでしょう」
思わず振り返ったソフィアの視線の先には、思いのほか真摯な顔をしたガイアが立っていた。思わず言葉を失う。
「あれから、何回目の春だろうな」
ガイアはそう続けた。
あれから。彼女にとって最愛の幼馴染が、命を絶ってから。
ソフィルの唯一無二の幼馴染は、不治の病だった。治らないと言われていたにも拘らず、あらゆる治療法を試し、懸命にリハビリをして、数ヶ月と言われた命を数年に永らえさせていた。希望を失わず、治療に付き合うソフィルに笑いかけていた。
だがある日、自らの胸にナイフを突き立てて死んだ。
ソフィルにとって幼馴染だったその人物は―――その男は、ソフィルを愛していた。愛していた、とだけ書かれたメモが、あの丘にあったのだ。ナイフが刺さったままの、彼の遺体とともに。そしてその男は、ソフィルの幼馴染であると同時にガイアのたった一人の悪友だった。
ソフィルは己を責めた。なぜ、気付けなかったのか。なぜ、答えてやれなかったのか。いつも気丈に笑いながら、たった一人で病気と闘っていた背中を、ソフィルは知っていたはずなのに。
ソフィルは己を責めた。なぜ、彼を一人で逝かせてしまったのか。先が短いと判っていた幼馴染に、例え同情でも答えるべきだったのに。応えなければならなかったのに。ソフィルはひたすら自分を責めて、責めて責めて、そこから動けなくなった。
ガイアは、そんなソフィルを見ていた。あの丘で男の遺体を発見したときからずっと、ただソフィルを見ていた。
だが、見ているだけなのも飽きた。
「そろそろ彼女を解放させてもらう」
悪友の墓の前で、昼間ガイアはそう宣言してきたのだ。もう十分だろう、と。
「まったく。本当に困ったヤツだよ。最悪の形で君を縛り付けて、自分しか見えないようにして逝きやがった」
厳しい言葉とは裏腹に、その表情は困ったように笑っている。
「まあ、君が自分のものにはならないコトを、知っていただろうからな」
「そんなことは・・・。私も、彼を・・・」
「愛していた、か? それ、ヤツの墓前で誓えるか?」
ソフィルが息を呑む。彼女にとって、自殺した男は恋愛対象ではなかった。誰よりも、男はそれを知っていた。
だがソフィルは応えたかった。答えてやりたかった。それが、例え―――。
「ヤツは、思いの丈をぶつければ、きみが同情するであろうことを知っていた」
低い声がその場に響いた。
「きみはヤツに冷たく出来ないだろう。しかし同情はされたくない。だがきみを渡したくも無い。時間をかけて口説こうにも、自分にはもう時間が残っていない」
だから、自ら命を絶った。愛していたと書き置いて。それが、優しいソフィルの心にナイフよりも鋭い刃を突き立てるとわかっていたから。
ガイアは、さらに低く、冷たい声で言い放った。
「ずるくて、卑怯な男だったんだよ」
「そんな言い方は止めてください! あなたにとっても親友でしょう!?」
「事実だ。実際に、君はあの時叫んだだろう」
遺体が見つかったあの丘で。冷たい彼を掻き抱いて。誰に対してなのかわからない。おそらくそれは、時というものを作った何者かに。
ソフィルは叫んだ。止まれと願って。戻れと祈って。返せと叫んだ。声など枯れても構わなかった。この身が朽ちても悔いはなかった。
だが時は過ぎていった。止まることも、戻ることも、返してくれることも無く。ソフィルはいまだ五体満足なまま。絶望だけをその目に映して。
また、春が来る。
ガイアは、コートのポケットから手を出すと、舞う花びらを一房手に取った。そして、微動だにしないソフィルにいくらか近づく。
「そろそろ、解放されてもいい時期だと思わないか」
ソフィルは、彼が願った以上に彼に捕らわれた。ガイアの悪友は―――ソフィルの幼馴染は、ソフィルが自分を思うことは願ってもソフィルが己を責めることは望まなかったはずだ。
ソフィルは、元々感情を外に出すほうではない。それは生来のものだが、決定的になったのはあの事件だ。自分を責めて、あの時から笑わなくなった。だがガイアは知っている。ソフィルはただ笑わないのではなく、泣かない代わりに笑わないのだ。そんなもの、人形と同じだ。
「もういいだろう。いつまでそうやって時間を停めておくつもりだ?」
ソフィルが自力で動き出すまで待とうかと思っていたが、やっぱり止めた。ガイアは、待つのが嫌いな性分ではないが、待っていたためにマーテル教授に付け入る隙を与えてしまったのだ。
彼女に動き出して欲しい。一人では無理なら、余計と言われようとも手を貸すまでだ。
「その鎖、俺に預けろ。あいつに叩き返しておとなしくそっちで待っていろと言って来てやる」
ソフィルは俯いた。反論する気も、素直に納得する気も無いのだ。
ガイアが一人称を変えるときは怒り心頭のときのはずだが、彼は今何に怒っているのだろう。やはり、ソフィルになのだろうか。だが、何故彼が自分に怒る?
ガイアは、ソフィルを見詰めていた。出逢ったときと寸分違わぬ、彼女の白い肌を。華奢な姿を。だが、その目は変わった。あの瞬間から。
悔やんでいるのはガイアとて同じだ。なぜ、なにがなんでも護ってやれなかった。あの丘で、最初に遺体を見つけたのはガイアだった。ガイアなら、後から追ってきていたソフィルを制し、手紙をもみ消すことすら出来たはずなのに。あの手紙を見てガイア自身も動けなかった。
あの手紙は、ソフィルだけではなくガイアすらも縛り付けたのだ。それはまるで、呪縛のように。だが、ガイアはいつまでも呪縛に捕まっているほど可愛らしい性分をしていない。
あの悪友に、いつまでも縛り付けられて溜まるものか。そして、ソフィルも。
動けなくなったソフィルが祈る傍らで、ガイアもまた願っていたのだ。
動き出せ。頼むから。もう一度、あの凛とした瞳を。
動き出せ。その鎖、砕き散らしてその身に光を。
動き出せ。縫い付けられた絶望に、鋏が要るならいくらでも差し出すから。
顔を、上げて。
あの、強い貴女を。
どうか。
「私は、誰にも縛られていません」
顔が、上がった。
「誰にも縛られる気はありません。今も。これからも」
強い瞳が、ガイアの目の前にある。それは、冷たいだけの瞳ではなく。感情のこもらない目でもなく。
「鎖など―――。鎖など、最初からありません。錯覚です」
「・・・誰の?」
「そんなこと、決まっているでしょう?」
ガイアと、ソフィルの。そしておそらく、あの男の。
ガイアは息を吐き出した。
「どうやら、同じ錯覚を見ていたようだな」
「不本意ですが」
「ずいぶんな言い草だな。その錯覚から解放しようと必死だったのに」
「解放されたのはあなたもでしょう」
「確かにな」
言って、ガイアは笑った。ガイアの知っているソフィルが、そこにいた。
「何がおかしいのですか」
「いや、失礼」
ガイアは片手を上げてわびるが、口に手を当ててくつくつと笑ったままだ。
「意味が解りませんが」
「解らなくていいよ。きみを笑ったわけではないからそう怒るな」
「はぁ・・・?」
少しは気が済んだのか、ガイアはようやく口元から手を離した。
「ちなみに、きみは笑うのが苦手かね?」
「そういうわけでは、ありませんが・・・」
「笑わなくなったのも、ヤツがいなくなってからだったな」
「・・・・・そうですね」
ソフィルは、もともと感情豊かに泣いたり笑ったり怒ったりする性分ではない。それでも、数年前まではまだ笑っていた。穏やかに、優しげに。口をあけて声を上げて笑うというようなコトはなかったものの、彼女が笑う姿はとても楽しそうだったと、ガイアは記憶している。
ガイアはそれでいいと思っていた。そんな風に笑うのが彼女なのだろうと。だが、そうと思わないものも多かった。
ソフィルが、もっとちゃんと笑えと言われていたことを知っている。家族や、友人や、そしてガイアの悪友に。彼女はいつも穏やかに笑うから、まわりに合わせているようにも見えたのだろう。
「いつか、彼女が大口を開けて笑っているところが見たい」
そう聞いたことがある。それを、ソフィルに伝えていたことも知っている。だから、ソフィルが徹底的に笑わなくなった理由も容易く想像がつく。
どんなに笑っても、もう彼に見せることは出来ない。ならば、笑う意味などない。
「きみは、とても正直だな」
「なんですか、唐突に」
「そう思っただけさ。きみが笑うのは本当に笑えるときだけだろう。へらへらと笑っている連中より、よほど信用できるよ。―――笑うことは、べつに義務じゃないからな」
ソフィルは、今度こそ本当に目を見開いた。
「アークス。どうした?」
急激に、心が軽くなっていくのを自覚していた。ずっと心に重石がついていたことに、重石がなくなった今になって気がついた。
―――ああ、そうか・・・。
ガイアは言っていたではないか。謝らなくていいと。笑わないことは罪ではない。だからガイアは気にしない。したがって謝る必要もない。そういうことだと、教えてくれていたではないか。
無理に笑おうとしなくてもいいのだと。
「アークス?」
目を見開いたまま黙ってしまったソフィルを、ガイアが覗き込む。ソフィルは、二、三度瞬きをして、ガイアを見た。
「よろしいのですか。ご自分の助手が、鑑賞も出来る機械だと言われても」
「機械はそんなことは言わないよ」
淡々と言って、手に取った花弁をくるくると指で弄ぶ。
「まあ、確かに笑っているほうが僕の好みではあるがね」
「教授のお好みなど知りません」
「僕の好みか。そうだな。あの悪友によく似ていると答えておこうか」
「は?」
「どうしてアイツと悪友だったか、言ったことはあったかな」
「あ、いえ。学生時代の、同級生だったとしか・・・」
ソフィルは、幼馴染と同じ学校ではなかった。だから、彼の学校生活を知らない。
「大学の、入学式のときに知り合ってね、妙に馬が合って、いろいろといたずらをしたんだよ」
「いたずら?」
「気に入らない教授の研究室で、ラジオをいじくってひたすら東の国の民謡を流すようにしたり、白衣を黒衣に染めたり、タバコにタバスコしみこませてみたり・・・」
「もう結構です」
ソフィルが頭を抱える。
「悪友というより共犯者ではありませんか」
「そうとも言う。だが、いたずらが見つかったときにはいとも簡単に犯人は自分ではなくこいつですとお互いを売っていたからな。そんなことをしながら四年間過ごしたよ」
「悪友というのは、つまり親友のことかと・・・」
「まさか。親友ならお互いを売ったりするまい? ヤツとは意見も合わなかった。だが、人間は嫌いなものが一致すれば味方となれる生き物だよ」
「そうですね・・・」
「同じものばかり好んでいても困るしな」
独白のように呟いて、呆れているソフィルの目の前に、ガイアは花弁を差し出した。
「なんですか?」
「受け取っておきたまえ。別に花びら一つで笑いをとろうとしているわけじゃない。そのつもりなら花屋でバラの花束でも買ってくる」
「似合いません」
「君に似合えばそれでいい」
「受け取れません」
「そう言うな。どうせ散り逝く定めだ。明日になれば生徒や講師たちに踏み潰されて泥と化す。これ一つだけでも、君が持っていれば花が咲いていた証にはなるだろう?」
「では、教授が・・・」
「僕が花びらを持って帰ってどうする。気持ちが悪いだけだろう」
「それもそうですね」
「いいな、君の切り返しはもはや心地いいよ」
「変態ですか」
「きついなぁ」
「お褒めに預かり光栄です」
「それでこそソフィル・アークスだ」
しばしにらみ合いが続いたが、結局はソフィルが折れた。静かに手を伸ばし、ガイアの手から花弁を受け取る。鮮やかに色ついたままのそれは、ソフィルの白い手に、きれいに納まった。
「どうしろとおっしゃるのですか、こんな花びらを・・・」
「きれいだろう?」
「それは、そうですが・・・」
「君の目に、絶望以外のものが映ればいいと思っただけだよ。きれいな花とか」
「気障です。繰り返しますが似合っていません」
「失敬な」
「何を今更」
「それもそうか」
ソフィルは花びらが潰れないようにその手で包み込んだ。
そして、少し笑った。
鮮やかなままの花びら。今は、ソフィルの手によってしおりとなり、いつも持ち歩かれている。もちろん、ガイアはそんなコトは知らない。知らせるつもりもない。
毎年の墓参りは、今でも欠かさない。墓へ行って、手を合わせて、どうかご冥福を、と祈る。何も変わっていない。だが、墓へ向かうソフィルの気持ちは、以前のように引き裂かれるような罪悪感には覆われていない。
少しずつ、少しずつ穏やかな気持ちで墓の前に立てるようになった。まだ、笑いかけることは出来ないけれど、それも叶わない未来ではないように思う。いつか墓の前でソフィルが笑えたら、彼は喜んでくれるだろうか。喜んでくれると信じたい。
遺された者に出来るのは、信じることだけなのだから。
そうだ、次の墓参りには愛犬を連れて行くのもいいかもしれない。捨てられていた子犬を、ある雨の日にガイアが拾ってきたのだ。ほとんど押し付けられるような形で引き取ってから、数ヶ月が経っていた。今では、この愛犬なしの生活など考えられない。
「行きましょうか」
ナイトテーブルにかけてあったショールを肩にかけ、ソフィルは開いていた本にしおりを挟み、パタンと閉じた。立ち上がってキッチンへと向かう。愛犬が、その後をとたとたと付いて行った。
時は過ぎる。そしてまた、春が来る。
何度も何度も巡る春は、感情もなく、意識も無く、思惑もなく過ぎて行く。それが時というものであり、不平等に満ちたこの世界の中で、唯一平等をもたらしているものだ。
ソフィルは思う。あの時、自分は切実に叫んでいたが、仮に時が止まっても戻っても、そして返ってきたとしても、自分は縛り付けられたままだっただろう。
時が過ぎるということは、生きていることの証明だ。
そう思って、ソフィルはやはり、顔を上げて笑っていた。