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 海と、淡い紫色と、静寂。

 

 彼女が好んだもので知っているのはこれだけで、他のコトは何も知らない。

 彼女の病気のコトも結局は詳しく知らされなかったし、たった独りで生きて、たった独りで逝った彼女のコトを知るには、一緒にいた期間があまりにも短すぎた。

 ひたすらに儚く散っていったのに、その存在だけはどうしようもなく強烈で、未だにあの視線を思い出して動けなくなるときがある。

 

 遠くにかろうじて海が見える小さな丘に、彼女は眠る。故人の意思で、極限られた数名しかこの場所は知らない。

 彼女の存在そのもののように小さな墓の前に立って、恭介は自身の耳で鈍く光るピアスに手を触れた。

 

「………………」

 

 名前を呼ぶことも、もう無い。呼んでも返事が無いコトを、痛いほどに知ったからだ。

 冷たくなっていく身体を、抱きしめたときに。

 触れるピアスは、あの身体のように冷たい。

 

 逝くなと叫んだ自分の声が、完全に無に帰したあの日。

 どうしてほしいとも言われず、ただ渡されたピアス。

 打ちつけられる雨の中、涙と雨の区別が付かなくなった瞬間。

 零れ落ちて消えていった、彼女の命。

 

 

 陽が沈んでいく。

 夕日から逃げるように伸びる恭介の影は色濃く、生きているのだと思い知らされる。自分は、生きているのだと。

 

 恭介は墓に背を向けた。

 振り返ることはしない。そんなことをしても彼女はそこにいないからだ。

 

 

 

 

「あれ、恭ちゃん?」

 呼ばれて振り返ると、門下生の上原洋子が立っていた。

「…おう。買い物か」

「うん」

 務めていつも通りに返事をすると、上原はにっこり笑ってうなずいた。

 ちょうどスーパーの前を通りがかったところである。

「恭ちゃんも買い物?」

「いや、俺は通りがかり」

 じゃあな、と言いかけたところで、遠くから声が聞こえた。

「洋子ちゃーん! と、師範代!」

 棗リオナである。カーディガンを翻して、走ってきている。

「待ち合わせだったのか」

「うん。今日ね、うちで夏休みの宿題やっつけお泊り会なの。あと、智ちゃんと優華が来る」

 二人とも門下生の名前だ。恭介はふぅんと生返事をした。今日は早く家に帰りたい。

「洋子ちゃん、遅れてごめんね。で、師範代は何してんの?」

「通りがかり」

 追い付いてきたリオナに素っ気ない返事をして、恭介は今度こそ二人に「じゃあな」と背を向けた。さっさと帰ろう。

 墓参りの後はいつもこうだ。気分が籠りがちになる。いや、実際に家に籠る。誰にも会いたくないし、彼女がいない世界を見ていたくもない。行くたびに気分が沈むのに、それでも墓へ向かう足は止められない。

 どこへ行っても、会えないことは解っているのに。

 

「えぇー!?」

 聞き逃すには大きすぎる声がして、恭介は反射的に振り返った。確かめるまでもなく、リオナの声だ。見れば、携帯電話を手にした洋子が、困ったような顔で何かを話している。謝っているようにも見える。

「………」

 門下生が困っている、らしい。二人も。

 これを無視できるような性格だったら、恭介は「師範代」には任命されてないだろう。

 少しも迷わず、恭介はまた足の向きを変えた。

「どうした」

 二人に問うと、説明したのはリオナだった。

「洋子ちゃんち、今日使えなくなったんだって。お父さんの会社の人が急に来ることになったからって」

 なんだそんなことか、と思った。

「智ちゃんも優華もこっちに向かってるのに…」

「場所変えれば済む話だろ」

「智ちゃんとこも優華のとこも兄弟がいるし、あんまり騒げないじゃん」

「宿題するのに騒ぐ必要あるのか」

「騒ぐついでに宿題するの!」

「………」

 帰ればよかった。

 だがここで解決を見ないまま放り出すわけにもいかない。どうしたものかと恭介は息をついた。沈黙を破ったのは上原だ。

「そうだ、リオナんちは? ここから近いんでしょ? 一人暮らしだから騒いでも文句言われないし」

「え、でもうち狭いよ?」

「座れればいいよ。ね? 夕飯は私が作るから」

 その瞬間、リオナが一瞬固まったのを、恭介は見逃さなかった。

「あ、いや、夕飯はファミレスとかで…。ほら、タケちゃんもいるし」

「だめ。リオナはそうやっていつも店屋物でしょ? たまには手作りのものを食べなきゃ」

「それは、ありがたいんだけども。でもうちには…」

 リオナはそれ以上喋らなかった。

 喋らない理由が、恭介には想像がついた。おそらく、リオナの家では夕飯が作れないのだ。

 包丁が、無いのだろうから。

 幼い時に傷つけられた反動で、刃物のいっさいに近づけないリオナ。カッターナイフですら持てないのに、包丁など家にあるわけがない。だが、その事実を知る者は少ない。

「上原」

 恭介は、携帯電話を取り出した。

「今日は師範のとこを使わせてもらえ」

「え、なんで?」

「棗んちはマンションだろ。夜遅くまで騒いでほかの部屋に迷惑がかかったら、謝りに行くのは棗だ」

「あ…そっか」

 リオナの家は恭介の木造アパートとは違い、立派なマンションだ。そうそう声が漏れることはない。だが、リオナの家に行ったことのない上原にそこまで思いつくはずがない。

「智と優華に連絡しろ。師範には俺が了解とってやるから」

 うん、とうなずいた上原が携帯電話を操作するのを、リオナはほっとしたように見ていた。無意識なのだろう、そっと自身の左腕に触れたのを、恭介は視界の端でとらえていた。

 

 白峰師範に連絡したら、簡単に了解が取れた。夕飯は自分たちで作ること、宿題をちゃんとすることが条件だ。上原はまだ携帯電話で話しているので、その旨はリオナに伝えた。

と、リオナが自分を見上げている。

「なんだ?」

「ありがとね」

「別に」

 素っ気ない返事に、リオナは力なく笑う。

「あたし、ヘタレだよねぇ。早く、克服したいのに」

 刃物恐怖症のことを言っているのだろう。

「急ぐ必要はねぇよ」

「うん。でも、なんか、落ち込む」

 恭介は、一瞬だけ目を細めた。それから、リオナの頭を撫でた。

「なに?」

「いや…」

 落ち込んでいるときに落ち込んでいると言えるのは、リオナらしいと思う。好ましいとも思う。過去を乗り越えようとしているところも含め、自分とは大違いだ。

 自分は、さっさと引き籠ろうとしているのに。

 複雑な表情でリオナの頭から手を放すと、電話が終わったらしい上原がこちらを向いた。

「智も優華も大丈夫。ねえ恭ちゃん、今から買い物するけど付き合わない? 一緒に師範のところで夕飯食べようよ」

「あ、それいいね。行こうよ、師範代」

 恭介は少し考えた。

 今日は、なるべく一人になりたかった。沈んだ気持ちは、そう簡単には浮上してくれない。今までは、浮上するまで一人で閉じ籠ってきた。籠る以外に、どうしようもなく沈んでいく気持ちに耐える方法を知らないからだ。

 だが。

「まあ、上原が作るんなら、食えるもんが出来あがるな」

「何それ。誰が作ると食えないもんが出来あがるわけ?」

 予想通り、すかさず噛みついてきたリオナに、恭介は少し笑う。今日、初めて笑った。

 

 “彼女”に思う。

 生きています。俺は。貴女がいないこの世界でも。

 

 見守ってくれるとは思わなかった。だが、許されるような気はしていた。

 そんな、夕暮れ。

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