三学期が始まって、俺は普通に学校に通い始めた。口数は少なくなったかもしれないが、もともとあまりべらべらしゃべる方でもない。
朝起きて学校へ行って、放課後は空手道場へ行く。休みの日はタケトやほかの友人と遊ぶ。進級するのに困らない程度には勉強もした。
大人たちに腫れもの扱いされるのには慣れた。子ども達に好奇の目で見られるのも、どうでもよくなった。タケトを始め、数人の友人たちが理解してくれていればよかった。中途半端に掛けられる同情の声に、絶対に礼は言わなくなった。
ただ、進路指導の教師には辟易していた。
「どうしても、大学に行く気にはならない? 今の成績なら、推薦もとれると思うの」
「行きません」
「学費のことなら、奨学金制度とか」
「返さなきゃいけない金でしょう」
「あなたのケースなら、援助してくれるところもあるのよ?」
「知っています」
親を亡くした子どものための団体があることは知っている。弁護士であるタケトの父親が紹介してくれた。
「学校としても、あなたのことは全力で支援したいと思っているの。ねぇ、遠慮せずに言って? 中村くんの力になりたいの」
ため息をつかずにはいられなかった。
俺が進学しないと決めたのは親父が亡くなる前だし、そもそも目的もなく大学へ行っても仕方がないだろう。勉強したい人間が行くべきだ。
「もし、何かに悩んでいるんだったら、なんでも言ってほしいと思っているのよ」
目下最大の悩みが目の前にいる。それを説明する気にはならないが。
「中村くん。本当はどうしたいのか言って?」
帰りたい。
「ほら、草野くんと同じ大学に行きたいとか、ないの? 仲がいいでしょ?」
アホか。十七歳にもなって、しかも男が友達と離れたくないから同じ学校に行くなんてことがあると本気で思っているのか。タケトが聞いたら腹を抱えて笑うだろう。だが俺は奴ほど器用じゃない。
むすっとして黙ることしか出来なかった。何を言われても黙り続けた。結局、教師の方が折れた。まだ時間はあるから、気が変わったらいつでも言いに来てね、ということだった。
「…誰が行くか」
進路指導室を出てから、つぶやいた。
こんなことが、三学期が始まってから続いている。進級したらもっと続くことになるだろうと思うとうんざりする。
実際、進路のことは悩んではいるのだ。就職を希望することに迷いはないが、ではどんな会社に就職すればいいのかわからない。どんな職が自分に合っているのかもわからない。明確に何がしたいというものがない。
俺に出来ることはなんだろうと考える。俺は、運動は多少できるが、特に成績がいい方でも手先が器用な方でもない。就職案内を見ても何を選んでいいかわからず、漠然とした不安に取りつかれる。
親父がいないから不安なのか、進路を選ぶ学生はみんなそうなのか、判断はつかなかった。親父がいたら、なんて言うだろう。
こんな日は身体を動かすに限る。今日は空手の稽古日ではないので帰ったら走りに行こうと決めて、自転車に跨った。
アパートに帰りつき、階段を上りきったところで大家と会った。
「あら。お帰り、恭介くん」
「はい。ただいま帰りました」
「今日も寒いわねぇ」
「そうですね」
寒いわね、と言っている割に、大家は軽装だ。上着は丹前を羽織っただけで、足もつっかけを履いている。ちょっと出てきた、という体だ。一階に住んでいる大家が二階にいるということは、二階の住人に用事があって出てきたのだろう。俺ではなさそうだ。
と、大家の視線が俺の向こう側へ移った。
「お帰り、紫ちゃん」
振り返ると、隣人が階段を上ろうとしているところだった。
「ただいま」
「こんにちは」
「こんにちは」
俺の挨拶にも返事をしてくれる。最近は、会うと二文字以上の会話をすることが多くなった。二人とも口数は少ないので、ぽつりぽつりと言葉をかわす程度だが。
「紫ちゃんに用事があったの。帰ってきてくれて良かったわ」
「…あたしに?」
聞き返しながら、彼女は階段を上ってくる。上りきったところには俺が止まっているので、彼女は二段ほど下で立ち止まった。
「なんですか」
「今日ね、紫ちゃんを訪ねてきたヒトがいたの」
「え…」
「年配の男のヒトでね。お名前はおっしゃらなかったけど、お年の割には背が高くて…」
紫さんの目が見開かれた。彼女がこんなに表情を変えるところを、初めて見た。
「帽子をかぶっていたから顔の全体は見えなかったんだけどね。あぁ、でも、頬に火傷の痕みたいな痣があったわねぇ」
大家が言い終わる前に、彼女の身体がぐらりと傾いた。
声は出なかった。咄嗟に身体が動いていた。落ちていく彼女に必死に手を伸ばす。伸ばした後のことなど考えなかった。
引き寄せたというより飛び掛かったというような形で、彼女を抱えて階段から落ちる。
背中に衝撃が走って、息が詰まった。
「…っ!」
紫さんが細身で助かった。俺の腕にすっぽりと収まる体型じゃなければ、抱え込むことはできなかっただろう。
地面に落ちた後も、衝撃が抜けずにしばらく動けなかった。気を失っているのか、紫さんも動かない。重さはさほど感じなかった。こんなに軽くて大丈夫だろうかとぼんやり思っていた。肩よりも少し長い彼女の髪が顔にかかって、その向こう側に空が見える。
「恭介くん、紫ちゃん!」
悲鳴のような大家の声で我に返った。大きな音を立てて大家が階段を下りてくる。
「大丈夫!? しっかりして、救急車を呼ぶから!」
「いえ、俺は大丈夫です。それより、紫さんが…」
言いながら、左手で彼女を抱えたまま右手を身体の後ろについて上半身を起こした。ぐったりとした彼女はまさに顔面蒼白で、ぴくりとも動かない。
「…紫さん」
目の前に、血の気を失って目を閉じている人間がいる。嫌な光景を思い出させるには十分だった。
―――嫌だ。
「紫さん!!」
多少乱暴に揺さぶる。
「紫さんっ、ゆかりさ」
瞼が動いた。ゆっくりと持ち上げられていく。
「紫ちゃん、大丈夫? わかる?」
大家も覗き込んでくる。しばらく視線を彷徨わせてから、紫さんはやっと俺を見た。
「恭介くん…」
呼ばれてから、彼女を抱きかかえたままであることに気が付いた。当然ながら、近い。なんだろう、なんかまずくないか、これ。いや、疾しいことなどどこを探してもないが。
「大丈夫ですか? どこか打ったり怪我したりとか…」
少しの間があって、「平気」と彼女は答えた。
それは良かった。何よりだ。ならば、俺が思うことは一つだ。…どいてくれないでしょうか。
今、俺が地面についている右手を彼女の膝の下に入れれば、簡単にお姫様抱っこができる。いや別にしたいわけではなく、つまりそういう態勢だということだ。
だからそろそろどいてほしい。俺の精神衛生を安心安全かつ冷静に保つために。
「紫さん」
「助けてくれたの?」
黒目がちの瞳が近い。その瞳は、揺れているように見えた。
「どうして?」
咄嗟の行動に理由などない。敢えて言うなら紫さんが落ちそうだったからだ。
「あたしに…」
言いかけて、彼女は黙った。俯く。瞳が見えなくなった。
「紫ちゃん、大丈夫? めまいでも起こしたの?」
大家が声をかけてきた。
「立てる? 恭介くんも、一応病院へ行きましょう。タクシーを呼ぶから」
俯いたまま、紫さんは首をゆるゆると振った。
「大丈夫です。ちょっと、貧血ぎみなだけなので」
大家が手を差し伸べて、彼女はやっと立ち上がった。そのことに、安堵した。彼女がいなくなって俺の腕には重さがなくなり、その代わりと言わんばかりに痛みが襲ってきた。
「いっつ…」
右ひじは、制服に隠れて見えないがたぶん擦りむいている。身体の後ろ側、腰より上が痛い。どこが痛いのかもわからないくらい痛い。ずきずきとじんじんを混ぜ合わせて煮詰めたような痛みだ。骨に異常はないと思うが、正直、立ち上がるのもつらい。だが、そのことは紫さんにも大家にも気づかれたくなかった。意地と言われたらそれまでだが、なんでもない風を装ってこっそり歯を食いしばり、気合と根性で立ち上がる。
大丈夫だ。この程度の痛み、白峰道場で師範代に殴られた時の方がずっと痛い。
紫さんと大家は、散らばってしまった紫さんのバッグの中身を拾っていて、俺が顔をしかめたことには気が付いていないようだった。良かった。
「あら、紫ちゃん。風邪でも引いているの?」
大家がそう言って拾ったのは、俺も見たことのある薬袋だった。それも、一つではない。
「あ、あの…。はい」
答える彼女の声は小さい。風邪なのだろうか。本当に?
俺が最初に薬袋を見てから、もう一か月以上が経っている。そんなにずっと風邪を長引かせているのだろうか。
「あの、それより、そのヒト…」
さっと薬袋をバッグに仕舞って、彼女が大家に問いかける。俺は放り出していた鞄を拾った。
「ああ、そのヒトね」
大家は、少し考えるようにして答えた。
「どちらさまですかって聞いたら、出ていってしまったの」
「あたしが、ここに住んでいることは…」
「大丈夫。言っていないわよ。最近はいろいろと怖いものね」
大家はにこりと笑って言っているが、紫さんの蒼白な顔は変わらなかった。そうだろう。大家は、住んでいるのかいないのかを答えずに相手の素性を聞いたのだ。住んでいると思われても仕方がない。
「紫ちゃん、心当たりがあるの? 大丈夫?」
彼女は答えない。けれども、彼女にしては珍しすぎるほどの動揺した顔が、言葉よりも雄弁に語っていた。大家は鈍くはなかった。自分の対応がまずかったかもと思い始めたらしく、慌てだす。
「今度また来たらはっきりいないって言うわね。でも、もし何かあるんだったら、警察に…」
「いいです」
強く、はっきりと彼女は言った。
「警察は、いいです。大丈夫です」
少しも大丈夫そうじゃない。けれども、それを言ってはいけないような気がした。大家に軽く頭を下げて、彼女は俺を素通りして階段を上り始める。手すりに体重をかけるようにして上っていく様は、心もとないとしか表現できなかった。
気が付いたら、追いかけていた。
「紫さん」
階段を上がりきるところで追いついて、声をかける。振り仰いだ彼女の表情に、言葉が出なかった。
彼女は怯えていた。
「ゆ…」
俺から一瞬で目を逸らし、紫さんは自分の右手を胸の前で握った。何かに耐えるように。
「…大丈夫。だってまだ、十九年しか経ってないし…」
ぼそぼそと口の中で何かつぶやいている。かろうじて聞き取れた言葉は意味が不明だった。
十九年がなんだ?
「大丈夫。…まだ、大丈夫」
「紫さん、あの」
俺の声に反応はなかった。彼女はくるりと俺に背を向けて、自分の部屋の鍵を開けて中に入ってしまった。
取り残された俺は、しばらく呆然とその場に佇んでいた。