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「いてっ!」

 背中をばしんと叩かれて、思わず叫んだ。

「何すんですか」

 振り向いてからの抗議には、冷たい視線が返ってきた。

「あんたこそ何してんのよ。受け身もとれずに階段から落ちるなんてどんだけバカなの」

「だから、ヒトを抱えていて…」

「自分を護れない奴が他人を護ろうなんて百年早いってのよ。あんた、護られて怪我される方の事を考えたことあるの?」

「それは」

「そんなの、ほっとかれた方がマシよ。今回はたまたまそのヒトは無傷だったみたいだけど、二人そろって取り返しのつかない怪我をしていたのかもしれないのよ?」

 師範代の言葉に、黙り込む。確かに師範代なら、もう少しうまく対処していたかもしれない。俺は紫さんを抱え込むのに必死で、片方の手で手すりを掴むことにすら思い至らなかった。

「しかも右腕と背中に怪我なんて、自分じゃ湿布も貼れないじゃない。あんた自分の境遇解ってるの?」

 解っている。だから師範を頼ったのだ。

 あの後、結局痛みに負けて師範に助けを求めた。師範の行動は素早かった。すぐさまタクシーでアパートまで迎えに来て、病院へ担ぎ込んでくれたのだ。

 右ひじは派手に擦りむいていたが、そのほかは頭にも骨にも異常はなく、背中の打撲だけで済んでいた。痛み止めと湿布を処方され、つい先ほどタクシーで白峰道場に戻ってきたところだ。そこには、美しい顔を般若のようにした師範代が待ち受けていた。

「バカだバカだと思ってたけど、こんなにバカだとは…思ってたけど」

「思ってたんですか」

「救いようがないわね」

 そこまで言うか。さすがにむっとしたところへ、師範が入ってきた。

「そのくらいにしておきなさい。恭介が馬鹿なのは今に始まった事でもなかろうて」

 フォローになっていない。だが、師範の言葉が効いたのか、師範代は怒らせていた肩を少し落とした。

「薬は忘れずに飲みなさいよ。湿布は毎日ここに取り換えに来なさい」

「…はい」

「ついでにあたしのお婿に来なさい」

「なんのついでにもなっていません」

 いつの頃からか、師範代は口癖のようにこの言葉を言うようになった。容赦なく辛辣な言葉を浴びせるくせに、最後にはなんだかんだで婿に来いと言う。一度理由を聞いてみたら、頭がよすぎる男は嫌いだからと言われた。結局バカにされている。

「まったく。本当ならあんたが護ったヒトが病院まで付き添うもんじゃないの?」

「いや、それは…。なんか、動揺していたみたいですし」

 怯えていた、とは言えなかった。なんとなく。

「動揺、ねぇ。なんで?」

 それが分かれば苦労はしない。事情が分かれば、あのヒトから恐怖を取り除けるかもしれないのに。

 彼女は何に怯えているんだ?

「師範、何か知りませんか。背が高くて、帽子をかぶった、顔に火傷の痕がある年配の男」

「と、言われてもなぁ…」

 師範は顎をさすりながら考えている。

「いくらわしでも、街に出入りしとる全員は把握しとらん。まあ、探せば目撃者くらいは見つかるかもしれんが」

「探してもらえませんか。俺も、出来ることはなんでもしますから」

「ふむ。了解した」

 あっさりとうなずいた師範に、少し驚いた。師範代も何も言わない。甘えるなと言われるかと思っていたのに。

「何を驚いた顔をしとる」

「あ、いえ…」

「言うたじゃろ。わしらがお前の後見人、親代わりじゃ。お前は何も心配せんでよろしい」

 乱暴に頭を撫でられた。もう、小さな子どもではないのに。うれしがっている自分がいた。

 

 だが、結果として師範は目撃者を探す必要はなかった。その日のうちに、男の正体がわかったからだ。

 そのテレビ番組を見たのは、本当に偶然だった。師範宅で夕飯をごちそうになっていくことになり、応接室から居間へ移動したらテレビがついていたのだ。

 テレビを見るのは久しぶりだった。黒崎が逮捕されてからは一度も見ていないくらいだ。俺に気を遣ってか、台所で夕飯の支度をしていたのり子さんがテレビを消そうとする。

 その瞬間耳に飛び込んできた言葉に、反射的にリモコンを掴んでいた。

「恭介くん?」

「どうした?」

「今…」

 今、なんて言った?

 訝しがる三人をよそに、テレビの音を大きくした。ニュースキャスターが原稿を読み上げている。

「―――ということで、立野容疑者は依然として逃亡を続けており…」

 たての、ようぎしゃ。立野容疑者。立野、紫。

「駅にある防犯カメラから、九州方面へ逃亡したと思われます」

 九州方面。

「こちらが、防犯カメラの映像です。帽子を深くかぶっていますが、頬にある痣が鮮明に写っています」

 帽子。頬の痣。

 なんだ、これ。

「恭介、これはもしや…」

 師範から声をかけられるが、食い入るようにテレビを見ている俺は返事が出来ない。

「お心当たりのある方は、捜査本部が置かれておりますこちらの番号に情報をお寄せください」

 テレビ画面には、痩せこけた年配の男が映っていた。ニット帽を目深にかぶり、表情はよく見えない。けれども確かに、左頬に痣が見えた。

 誰だ、これ。

 どくんと心臓が大きく鳴ったような気がした。

「恭介」

 師範に肩を掴まれて、やっと振り返る。

「師範。あの、これって、このテレビ局に電話したら詳しいことを教えてくれるでしょうか」

「バカね。あんたがテレビ局に電話なんかしたら、逆に取材されるわよ」

「あ」

 呆れた顔を隠しもしない師範代に、返す言葉がない。

「武人に連絡しなさい」

 言ったのは、師範だった。

「え?」

「この男が誰で、何をやらかしたのか、草野弁護士に調べてもらえ。わしがやるより早いじゃろ」

「でも今あいつバイト中で」

「なら自宅か法律事務所にかけなさい。電話帳ならある」

「あ……。いえ、番号知っています」

 携帯電話を持つようになってから自宅にはかけなくなったから、すっかり忘れていた。事務所の方に電話かけると、すぐにつながった。草野弁護士は一人で事務所を構えているから、当然ながら電話に出たのは本人だった。

 タケトの父親であり恵子さんの夫であり、この地域では知らないヒトはいないであろう、草野直城弁護士だ。彼は、立場のわりに偉ぶったところがまったくない、話しやすいヒトだ。弁護士としてはかなり優秀だが、恵子さんには一向に頭が上がらないらしい。

 名前を告げると、軽く驚いた声が帰ってきた。

『あれ、恭介くん? 珍しいね、どうしたの?』

「あの、お願いしたいことがあって」

 言ってから、弁護士にものを頼むと料金が発生するということを思い出した。だが、構わないと思った。彼女の恐怖に近づけるなら。

『うん、なに?』

 軽く聞いてくる草野弁護士に安心感を覚えつつ、俺はどうにか事情を説明した。情報は少ないが、草野弁護士は快く引き受けてくれた。

『テレビ放映されているような事件なら、すぐにわかると思うよ。折り返すから、ちょっと待ってて』

 見えもしないのにお願いしますと頭を下げて、電話を切った。

「調べてから連絡をくれるそうです」

 師範に言ってから、タケトにも電話をかける。バイト中なのはわかっているが、着信履歴があればかけ直してくるだろう。メールで事情を説明するのは長くなりそうなので止めた。

 気持ちが焦っているのを自覚していた。俺が今持っている情報だけでは何も判断のしようがない。立野という名字の人間が日本に何人くらいいるのかわからない。俺の隣人である立野紫には縁もゆかりもない人かもしれない。俺が焦って何かの足しになるとも思えない。

 それでも、胸がざわつくのを抑えられなかった。

 立野紫は今、どうしているだろう。何かに怯えたまま、部屋にいるのだろうか。たった一人で。

「師範、すみません」

 言った時には歩き出していた。

「俺、帰ります。何かわかったら連絡します」

「お前、怪我は」

「大丈夫です。走れます」

 もともと、今日はアパートに帰ったら走りに出るつもりだったのだ。背中の痛みは残っているが動けないほどじゃない。

「お邪魔しました」

 ひったくるようにショルダーバッグを掴み、駆け出した。走らなければならないような気がしていた。

 外に出ると、薄暗い空から雪が舞い落ちていた。白い息を吐きながら全力で走る。時々背中に痛みが走ったが、構ってはいられなかった。寒さはすぐに感じなくなり、雪が降っているからか周囲は静かで、自分の走る音だけが聞こえていた。

 アパートについて、階段を駆け上がる。チャイムを鳴らそうと腕を持ち上げたところで、携帯電話が鳴った。草野法律事務所からだ。

 少し迷ったが、依頼したのは俺だ。息を整えてから通話ボタンを押した。

「中村です」

『恭介くん、今どこ?』

 挨拶もなしに、草野弁護士の固い声がした。

「アパートに帰ってきたところですけど…」

『そうか、良かった。例の人物を見たのはきみのところの大家さんだったね?』

 はいとうなずく。

『警察に連絡したから、すぐにアパートに警官が来ると思う。きみと隣人は部屋にいて。しばらく外に出ないように』

「え…」

『落ち着いて聞いて。その人物の名前は立野稔。強盗殺人未遂容疑で指名手配中だ』

 聞きなれない単語に、反応できない。

『そしてたぶん、きみの隣人の父親だ』

「……父親…」

 やっとそれだけをつぶやいた俺に、草野弁護士は声を低くして続ける。

『娘に会いに来ているんだ。でも会わせない方がいい。どういった理由で会いに来ているのかわからないけど、彼は十九年前にも事件を起こして逮捕されている。非常に凶暴な人物らしい』

 十九年。最近聞いた言葉だ。思い出すまでもなかった。今日、数時間前に彼女が言った。

「十九年前、何があったんですか」

『端的に言うと、同居していた家族を殺害して家に火を点けたらしい。結果的に、娘以外は犠牲になった』

「な…」

『今は事件の詳細を話している暇はないから、とりあえず隣人の居場所を確認して。出来れば一緒にいてあげて』

 雪が舞う。師範の家を出た時よりも激しくなってきて、自分の吐く白い息がやたら余韻を残して消えた。

『きみにしか出来ないんだ。―――恭介くん、出来るね?』

 怒鳴るわけでも脅すわけでもない、しかし力強い言葉に、背筋が伸びた。俺がショックを受けている場合ではない。

「はい。出来ます。ありがとうございました」

 電話を切ると同時に隣人宅のチャイムを鳴らした。紫さん、と呼びかけようとして止める。本当に立野がうろついているなら、聞かれるとまずい。

 ドアフォンに反応はない。二度目のチャイムを鳴らして、扉を軽く叩いてみた。

「恭介です。いないんですか?」

 何度か扉を叩くと、やがて反応があった。

「…いる」

 やっぱり二文字か。しかし、いてくれてよかった。

 安心しかけて、ふと固まった。

 一緒にいてあげた方がいいと草野弁護士は言った。俺は出来ると答えた。嘘はない。

 しかし、どこで一緒にいればいい?

 彼女の部屋か? いや、それはちょっとどうかと思う。

 なら俺の部屋か? いや、それもちょっとどうかと思う。

 真ん中とってこの廊下か? いや、それはさすがに寒い。というかここは外だ。意味がない。

 いっそ大家の部屋で一緒にいればいいのかもしれない。紫さんがどこにいても、警察は彼女に話を聞きに来るだろう。しかし、もしも警察よりも先にまた立野が尋ねてきたとき、それでは逃げ場がない。

 ―――どうする。

「…なに?」

 ドアフォンから、彼女のか細い声がする。その声で、心が決まった。

「ここに、います」

 背中が痛かろうが寒かろうが、もう知るか。扉越しでもいい。こんな心もとない、かすれた声を出す彼女の傍にいられるのなら。

「俺、ここにいますから」

 彼女が実父の存在に恐怖しているのだとしたら、俺にはその恐怖を想像もできない。似ているようでまるで違う。俺は、親父が存在しないことが怖かった。

 それでも。

「ここに、いさせてください」

 懇願に近かったと思う。彼女の声が聞こえてくるドアフォンに手のひらを押し付けて、扉に額を寄せた。

 静寂の中、車が近づいて来る音がして、やがてアパートの近くで止まった。車両は見えないが、警察かもしれない。だとしたらすぐにここにもやってくるだろう。会わせて堪るか、と思った。父親だろうと警察だろうと、彼女の恐怖を呼び起こさせるような相手は、俺がここで門前払いする。

「なにか、調べたの?」

 彼女の問いは確信を持っていた。すみませんと謝ることで肯定する。

「恭介くん」

 勝手なことをと言われるかもと思ったが、彼女が言ったのは別のことだった。

「怪我、大丈夫?」

 少し時間を置いてから、背中のことだと気が付いた。

「大丈夫です。骨にも異常はありませんでした」

「ごめんね」

 機械を通して聞こえてくる彼女の声は、少しくぐもっている。

「俺が勝手にやったことです」

「病院代、払うね」

「いえ、俺も親代わりに出してもらいましたから。老後の面倒を見ることで話はついています」

「もし…」

「え?」

「もし、次に同じことがあったら、今度は放っておいていいから」

 扉に付けていた額を離した。ドアフォンに押し付けたままの手のひらに、力がこもった。

「あたしに、そんな価値はないから」

「…価値?」

「恭介くんに怪我をさせてまで護ってもらうような、そんな価値はないの。…もう、いいの」

 彼女の顔が見たいと強烈に思った。青白い顔を捕まえて、何を言ってやがると怒鳴りたかった。しかしできなかった。この時、俺はやっと理解した。

 親父が亡くなった直後、俺が死んでもいいと思っていた時。タケトや師範、師範代はきっとこんな気持ちだったのだ。

 なんて思いをさせてしまったのだろう。どれだけの思いを、味わわせてしまったのだろう。自責の念に駆られるが、振り払おうと軽く頭を振った。今そんなことをしていても仕方がない。タケトも言っていたではないか。自責の念から生まれるものに大した意味はないのだ。

 今、意味があるのは紫さんの方だ。

 あの時、どうして出会って間もない彼女に見抜かれたのかと不思議に思ったが、ようやく分かった。なんのことはない。彼女も同じだっただけだ。

「………俺は、望みません」

 考えて、やっとそれだけ絞り出した。

「俺は! あなたが傷つくことも、いなくなることも、怖がることも、一切望みません!」

 ドアフォンではなく、扉に向かって声を上げた。

「望まねぇよ、そんなん望むような奴がいたら、俺がぶっ飛ばしてやる!」

 握った拳を壁に叩きつけた。止まらなかった。

「もういいってこの前ここで話したばかりじゃねぇか。もう傷つくな! 俺が…」

 初めて味わう感情が込み上げてきて、言葉に詰まる。どう言えばいい。どうすれば伝わる?

 目を閉じて、こつんと扉に額を付けた。

「…俺に出来ることなら、なんでもするから…」

 絞り出した声は小さかった。

 ややって、かちゃりと、チェーンが外される音がした。静かに扉が開く。ためらうように出てきた彼女の黒目がちな目が、俺を見上げた。

「恭介くん」

 ああ。やっぱり、機械を通していない方がいい。

「泣いてるの?」

 伺うように首を傾げて、黒髪がさらりと流れた。今は表情に恐怖の色はなくて、少しほっとした。

「きょう…」

 白い指が、俺の顔に伸びてくる。届く前に、階段を上がってくる音が聞こえた。びくりと肩を震わせて、彼女の顔が強張る。咄嗟に、彼女を背中に庇うように立ち位置を変えた。

「恭介くん」

「おじさん…」

 上がってきたのは、草野弁護士だった。

「どうして」

「いても立ってもいられなくなってね。恵子に話したら迎えに行けって怒鳴られちゃって」

 草野弁護士は妻である恵子さんにとことん弱い。これはタケトも本人も隠そうともしない事実だ。

 そっとこちらを伺うように顔を出した紫さんに、草野弁護士は安心させるように笑った。

「立野紫さんですね? 初めまして。草野武人の父です」

 穏やかな口ぶりはタケトに似ているが、やはり違う。

「息子がバイト先でお世話になっています」

「……いえ」

 小さく答えた紫さんは、少しは警戒心を解いたようだった。弁護士であることよりもタケトの父親であることを伝えた結果だろう。

「さっそくですが、事情は少々伺いました。ここにいては危険と思われますので、うちにいらっしゃいませんか」

「え?」

 反応したのは俺で、紫さんは戸惑うように弁護士を見つめた。

「妻が非常に心配しています。事情を知れば息子も心配するでしょう。うちなら娘の部屋が空いていますし、タケトもいますから。恭介くんもおいで」

 思いがけない申し出に、紫さんは明らかに戸惑っていた。

「でも、あたし…」

「それとも、ここにいたいですか? 一人で」

 脅しのような言い方だ。俺は眉をひそめたが、草野弁護士の表情になんら変わりはなかった。

「知らないヒトに、お世話になれませんから」

「今知り合ったでしょう。大丈夫、何も問題はありませんよ」

「でも」

「立野稔に会いたいなら、どうしてもとは言いませんが」

 紫さんは答えなかったが、答えは明白だった。会いたかったら、あんな表情をするわけがない。

「紫さん、行きましょう」

 半開きになっていた扉に手をかけた。やっと彼女の全身が見えるようになる。俺を見上げる彼女の顔が青白くて、身体が細くて、痛々しかった。

「行きましょう。…一緒に」

 やや時間を置いてから、彼女はうなずいた。

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