アパートの周りに誰もいないことを確認し、必要最低限のものだけを持って草野弁護士の車に乗り込んだ。階段を下りた時に大家の部屋を訪ねていく二人組の男を見たが、俺も草野弁護士も何も言わなかった。紫さんはコートのフードを目深にかぶり、一言も発しなかった。
車なら、タケトの家までは五分で着く。窓にまとわりついてくる雪がワイパーで拭われるのを、ただ見ていた。
「紫さん、好き嫌いはありますか?」
赤信号で停まった時、ハンドルを握る弁護士が、ミラー越しに後部座席に問いかけた。
「…いえ」
「それは良かった。うちの奥さんの作る料理は美味いですから、お楽しみに」
「はい…」
「さっきは、脅すようなことを言ってごめんね。どうしても、連れて帰りたかったから」
信号が青に変わる。
「連れて帰らないと、家に入れてもらえなさそうな雰囲気でね。うちの奥さん、怒らせると怖いから」
茶化すような言葉に、俺は少し笑った。
「まあ、可哀想なおじさんを助けると思って、しばらくうちにいてください」
紫さんの表情も、少し緩んだ。
草野家の玄関を開けると、いい匂いが漂ってきた。今日はカレーか。
「いらっしゃい」
エプロン姿の恵子さんが出てきた。
「初めまして。武人の母です」
「初めまして…。あの、すみません。ご迷惑を…」
紫さんが頭を下げる。
「誘拐同然で連れてきたのはこっちのほうよ。ごめんなさいね」
「いえ…」
「まぁ、上がって」
草野弁護士に促されて、リビングに入る。ソファに腰かけると同時に携帯電話が着信音を鳴らして、弁護士は廊下に出て行き、恵子さんはお茶を淹れに台所へ行った。
「…………」
「…………」
気まずい。
紫さんが俺の右隣に座っている。ただ座っているだけなのに、この居心地の悪さはなんだ。
「あの…」
いたたまれなくなって、口を開いた。
「さっきは、すみませんでした。怒鳴って」
「…うん」
「でも」
「うん?」
「自分に価値がないとか、もう言わないでください」
俺は俯いた。
俺は相当なバカだ。バカだバカだと言われるわけだ。自分がタケト達に強いた気持ちに、強いられてからやっと気が付いた。
タケトは、俺の為に大木を殴った。師範や師範代は、俺を護ると約束してくれた。叔母は自分の家族の中に俺を入れようとしてくれた。みんな、俺の為に必死になってくれたのに。それに気づかず死んでもいいと思っていた俺は、なんて愚かだったのだろう。
どうして、自分だけがつらいなどと思い込んだのだろう。
両手を組んで力を入れた。俺が紫さんに言えた義理じゃない。けれども、どうしても言いたかった。
「もう、言わないでください」
しばらく返事はなかった。沈黙に耐えかねて、顔を上げて紫さんを見る。
なんとも言えない顔を向けられていた。
「紫さん」
「うん」
やっと返ってきた声はやっぱり二文字で、彼女はそれ以上何も言わなかった。十分だと思った。
タイミングを計っていたように、恵子さんがお茶を乗せたお盆を持って戻ってきた。いや、実際に計っていたのかもしれない。草野弁護士も戻ってきた。紫さんの向かいに腰かける。
「今、警察から連絡があったよ。きみに話を聞きたいって」
紫さんの表情が強張った。
「ここに来てもらうことにしたよ。大丈夫、来るのはおれの知り合いだから」
強張った表情のまま、紫さんはかろうじてうなずいた。
玄関が開く音がした。「ただいまー」とのんきな声が聞こえる。
「あれ、なにこれどういうこと?」
リビングに入ってきたタケトは、当然ながら困惑の表情を見せた。
「…お帰り」
軽く右手を挙げる俺の隣で、紫さんも「お邪魔しています」と言う。
「うん、ただいま。で、何してんの? 恭介、電話くれてたでしょ。さっきかけ直したんだけど」
それは気が付かなかった。車に揺られていた頃かもしれない。
「悪い。ちょっと…」
言いよどんだ俺の後を、草野弁護士が引き継ぐ。
「ちょっと事情があってね。もうすぐ紫さんに話を聞きに、警察が来る」
父親の言葉に、タケトは眉根を寄せた。
「紫さんに? 恭介じゃなくて?」
俺の境遇を思えば、タケトがそう言うのも無理はない。父親は「紫さんだよ」と繰り返してから、紫さんに向き直った。
「さて、紫さん。どうする? 一人の方が話しやすいなら、おれたちは席を外すよ。もちろん、近くにはいるけど」
車に乗ったあたりから、草野弁護士の喋り方がフランクになっている。こっちの方が伝わりやすいと踏んだのかもしれない。
「…いえ。居てください」
細い声で、しかしはっきりと紫さんは答えた。同時に、チャイムが鳴った。
「美鷹署の、梶原と申します」
「飯塚です」
恵子さんに案内されてはいってきたのは、まだ若い刑事だった。見覚えがある。先ほど、大家の部屋を訪ねていた二人だ。
梶原という刑事が、まずは草野弁護士に言う。
「草野先生。参考人を勝手に連れていかれては困ります」
「あれ? 警察には国民の移動を制限する権利があるのかな?」
「いや、それは…。しかしですね」
「彼女は息子のバイト仲間で友人ですよ。友人宅に遊びにさえ行くなと?」
おお、弁護士っぽい。感心する俺の隣で、タケトは父親をじっと見ている。
「しかし彼女は」
さらに言いつのろうとした梶原を、飯塚が制した。
「ちなみに、彼らは?」
俺達を見て、聞く。
「息子と息子の友人です」
「同席させるんですか」
「何か問題でも?」
口調は穏やかながら、弁護士は一歩も退く様子を見せない。
ちなみに今、広いリビングのソファ前には紫さんと草野弁護士が並んで立ち、二人の刑事はその向かいに立ち、俺とタケトはその様子を扉近くに立って見ている。恵子さんは新しい客のお茶を淹れに立った。
「紫さんの希望ですよ。普通の女性は、知らない男性二人に質問攻めにされたら、話せるものも話せなくなります。まあ、きみたちが彼女から大した事情を聞き出せなくなっても、こちらは構わないんだけどね」
刑事二人はあからさまに面白くなさそうな顔をした。まあ確かに、警察官と弁護士の仲がいいとは思えない。
時間の無駄だということを理解したのか、刑事たちはソファに座った。紫さんと弁護士も座る。ほどなく、恵子さんが二人分のお茶を持ってきた。
「単刀直入に伺います。立野稔は、あなたの父親ですね?」
「…はい」
「最近、連絡はありませんでしたか」
「ありません」
「見かけてもいない?」
「はい」
「本当ですか? 視線を感じたり、不審な電話がかかってきたりということも?」
「うちには電話機がありません。携帯電話も持っていません」
驚いた。では彼女は、電話が必要な時はどうしてるんだ?
刑事も同じことを紫さんに聞いた。
「どうしても必要な時は、近くのコンビニに行っています。緊急の時は、大家さんに借りたこともあります。バイト先にも公衆電話がありますし」
「それはまた…。不便ではないですか?」
「いえ、別に。そんなに必要としていないので」
淡々と答える紫さんは、緊張しているようだ。無理もない。
「立野稔に、最後に会ったのはいつですか?」
「覚えていません」
「覚えていない? 父親のことですよ」
「あの事件の時、まだ小さかったので。正確にいつが最後かなんて覚えていません」
「手紙のやり取りも、一度もありませんでしたか」
「ありません」
「立野稔は、わざわざ北海道からあなたを探しに来ています。どんな用事なのか、思い当たることはありませんか?」
「…ありません」
嘘だ。
自分でも、なぜかはわからない。だが、嘘だと思った。
壁際にタケトと並んで立っている俺は、両手を握りしめている。紫さんの隣には草野弁護士が控えている。大丈夫だ。そう思うのに。
「しばらくは、こちらに身を寄せるご予定ですか?」
「ええ、そうしてもらうつもりです」
紫さんには答えにくい質問だと思ったのか、そう言ったのは草野弁護士だった。
「立野稔の目的がなんであれ、一人にしておくのは心配ですから。まあ、警察には都合が悪いのかもしれませんが」
図星を突かれたのか、飯塚があからさまに面白くなさそうな顔をした。
「随分とヒトの好い弁護士さんですね。依頼料もいい値段がしそうだ」
「ヒトを護れない弁護士なら必要ありませんよ」
刑事の嫌味にも、弁護士はまったく揺るがない。勝敗は明らかだった。
思い出したことがあったら連絡をくださいと言い置いて、刑事たちは去っていった。姿が完全に見えなくなってから、俺は呼吸を思い出したように深く息をした。
「格好いいな、お前の親父」
「…まぁね」
答えるタケトはむすっとしている。少し笑った。父親にさんざん反発していた時期があるから、まだ素直になれないのだろう。
「あの…。草野…先生」
おずおずと、草野弁護士に話しかけたのは紫さんだ。
「うん?」
「依頼料、なんですが…」
「依頼料? あれ、きみはおれになにか依頼したっけ? 覚えてないなぁ」
軽い調子で言って、弁護士は笑う。
「何も心配しなくていいんだよ」
やっぱり、格好いい。俺は俺の親父以外を親父としては考えられないけれど、別のところで、こんなヒトには憧れる。
夕飯のカレーは、本当に美味しかった。もうカレーというよりカリーと発音しなければ、と思うほど美味しかった。タケトは毎日こんな食事を摂っているのか。ちょっとうらやましい。
俺の隣で、紫さんもおとなしく出されたカリーを食べていた。食は細かったが「美味しい」とぽつりとつぶやいたのが印象的だった。
夕食後、紫さんはタケトの姉の部屋に案内された。タケトの姉は大学生になってから一人暮らしをしているので、生活用品はそのままの部屋が空いているのだ。俺はタケトの部屋に布団を運んでもらった。タケトが風呂に入っている間に師範に電話をかける。
『そうか。まあ、無事なら良い。お前、背中の痛みは』
「あ、今はもう全然…」
『よろしい。じゃが薬は忘れるなよ。湿布は誰かに替えてもらえ』
「はい」
親のような師範の言葉が、少しこそばゆかった。
『ところで恭介。十九年前の事件については、草野弁護士から何か聞けたか』
「あ、いえ、まだです」
『そうか…』
師範は、何かを考えるように間を置いた。
「師範?」
『忘れるなよ、恭介』
「はい?」
『お前は、ヒトを護れる』
「え…」
『お前は浩介の息子で、他人を護ることができる人間じゃ。―――忘れるなよ』
「あの、何を言って…」
『今はわからずとも良い。心のどこかに留めておけ』
「…はい」
そう答えるしかなかった。
電話を切るとほぼ同時に、ノックがして風呂上がりのタケトが部屋に入ってきた。ペットボトルを二本手に持っている。片方を俺に投げた。
「ま、飲め」
「どうも」
言って、キャップを開ける。冷たいスポーツドリンクが心地よかった。ちなみにタケトには、刑事が帰った後に大体の事情を話してある。
「そういやお前、今日の進路指導部はどうだった?」
「どうもこうも。なんの変わりもねぇよ。俺の力になりたいんだとさ」
「あっそ。相変わらず笑わせてくれるね」
「まったくだ」
学校は、黒崎が捕まった後に記者会見を開いた。そこで、世間には謝った。師範宅に身を寄せていた頃、マスコミが取り囲む中を謝りに来たこともあった。けれど、俺が学校に復帰してからは目を合わせようともしない。
別に、もう何も期待はしていないが。
「まあ、お前の好きなようにしたらいいよ。卒業するまであと一年以上あるし」
「タケトはどうすんだ? 進路」
「大学に行くよ。法学部」
そういえば、タケトと進路のことを話すのは初めてのような気がする。
「法学部って、弁護士に?」
幼い頃、父親に対しては反発心しか持っていなかったような友人の言葉に、少し驚いた。
「んー。弁護士になるかはまだ分からないけど。でも、法律を学んでおいて損はないと思うんだよね」
「そうか。確かに」
タケトは頭がいいから、なんにでもなれるだろう。うなずいて、遠くを見た。
―――俺は、どうしよう。
「武人!」
大きな声で呼ばれて、何事かと視線を戻す。ノックもなしに扉が開いた。
「父さん、どうしたの」
「紫さんが倒れた」
ペットボトルが床に落ちた。
紫さんが乗った救急車に恵子さんが同乗し、俺とタケトは草野弁護士が運転する車で救急車の後を追った。恵子さんが紫さんのバッグから診察券を探し出し、かかりつけの病院が判明した。
俺達は何も話さなかった。気を失った紫さんの白い顔が、目に焼き付いて離れなかった。
救急車はすぐに病院につき、紫さんは治療室に運ばれた。そして、担当した医師は俺達が家族かどうかを確かめた。
草野弁護士が違うと答え、身分を明かす。医師は、草野弁護士の名前は知っていたようで、あなたがと小さくつぶやいた。ややあって、重々しく口を開く。
「これは、立野さんに許可を取ったうえでお話しすることですが」
息をするのを忘れていた。
「彼女は、もう長くありません」
その時、自分がどんな顔をしていたのか分からない。