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 病室の彼女は、いつもよりも白く細く見えた。固く閉じられた目の下には隈が入り、浮かび上がる鎖骨が痛々しい。

「…紫さん」

 呟くように呼んでみる。反応はない。胸が小さく上下していなければ、生きているとは思えない。

「紫さん」

 目を開けてほしい。あの黒目がちな目を、俺に向けてほしい。

「紫さん」

 段々と声が大きくなる。ここが病院であるとか、夜中であるとかは考えなかった。何度目かの呼びかけの後、彼女はゆっくりと目を開けた。

「紫さん。わかりますか」

「…うん」

「病院です」

「うん」

「ご気分は」

「うん」

「答えになっていません」

「うん」

「紫さん…」

「うん」

「……くないって…」

「うん…?」

「長くないって、どういうことですか…」

 ベッドの縁に手をかけて、俺は床に膝をついた。医師は、本人にも告知してあると言っていた。半年前に、余命半年であると告げたと。

 半年前に余命が半年だったのなら、彼女はもう―――。

「恭介くん」

 顔を上げると、紫さんが穏やかな目で俺を見つめていた。

「優しいね」

 口調も穏やかだ。

「恭介くんも、タケトくんも、草野ご夫婦も」

「…俺が通っている空手道場の師範たちも、優しいですよ。今度、紹介します」

「うん。恭介くんが、優しいヒト達に囲まれてて、良かった」

「あなたも含まれますけどね」

「あたしは含まれないよ」

「どうしてですか」

「人殺しだから」

「は…?」

「あたしが、殺したの」

「何を言って…」

「本当は、あたしが殺したの。……だからあのヒト、あたしに復讐しに来てるの」

 紫さんは、目を瞑った。

「そんなことをしなくても、もう…」

 言葉が切れた。呼びかけても返答はない。もしかしたら、今までの言葉はすべて寝ぼけたうえでの譫言だったのかもしれない。

 規則正しく胸が上下するのを確認してから、俺は部屋を出た。ロビーのソファに草野弁護士とタケトがいた。

「恭介、紫さんは?」

「少し話したけど、もう眠ってる。…恵子さんは?」

「入院の手続きとか、紫さんのパジャマとか用意しにいった」

「そうか…」

 空気が重い。無理もない。俺自身も相当重い空気を背負っている。だが。

「おじさん」

「うん?」

「十九年前、何があったんですか」

 非常灯以外の電気を落とされた暗いロビーに、俺の声が響く。

「彼女は、本当は父親じゃなくて自分が殺したんだって、さっき言っていました」

 タケトが驚いて腰を浮かしかける。父親に目で制されて、おとなしく座りなおした。

「信じているわけじゃありません。でも、紫さんが嘘を言ったとも思えないんです」

「そうだね。それはあり得ないよ」

「言い切れるの?」

 父親の言葉に、タケトが反応する。首肯してから、弁護士は続けた。

「物理的に、彼女には無理だね」

「それは、どういう意味ですか」

「資料を見ながら説明したほうが早いんだけど…。家に置いてきちゃったからなぁ」

 草野弁護士は、タケトを見た。

「二人で家に帰りなさい。おれの部屋に十九年前の事件の資料がある」

「父さんは?」

「今日は恵子と一緒にここにいるよ。彼女を一人には出来ないからね」

 正直、俺は病院にいたい気持ちといたくない気持ちの狭間にいた。彼女の傍にいたい。けれども、弱っている彼女をただ見ているのもつらい。なんでもいいから動いていたかった。

 

 タクシーで帰る途中は、俺もタケトも一言も発しなかった。草野家に帰りついてから、やっと発した言葉は「寒いな」だった。

 リビングの暖房機器に電源を入れてから、タケトが持ってきた資料をテーブルの上に広げる。

 一通り事件の概要を読み終わり、今までとは別の意味で、絶句した。

 十九年前、三月。北海道は雪だった。立野稔は、離婚話を切り出した妻を包丁で切り付け、制止しようとした同居の両親を刺し、同席していた弟をも、もみあいの末に刺した。その上、証拠を残さないために家に火を点けた。

 警察に通報したのは、瀕死の状態だった弟だ。両親はほぼ即死だったらしい。司法解剖の結果、両親は刺されたことによるショック死、弟は失血死、妻は焼死だった。

 当時四歳だった紫さんは、家の庭で呆然とたたずむところを保護されたらしい。裸足で煤をかぶっていたが、大きな怪我はなかったとあった。ただ、身体中に虐待されていたと思わせる傷跡があったらしい。近隣住民は、それまでもたびたび家族に怒鳴る立野稔を目撃していた。

 弟が亡くなる直前に残した証言から、立野稔はすぐに逮捕され、刑に服すことになった。下された判決は、無期懲役。

「無期懲役? じゃあなんで出てきてるんだ?」

 俺が眉を寄せてつぶやくと、タケトが面白くなさそうに解説してくれた。

「無期懲役でも仮釈放はあるんだよ。模範囚…つまり、いい子にしていたら出られることもある」

 そうなのか。言葉の響きから、無期懲役は終身刑だと思い込んでいた。そうとは限らないと、タケトは言う。

「千七百人に一人とか、そんな割合らしいけどね。でも、零じゃない」

 ヒトを四人も殺しておいて、紫さんに消えない傷を負わせておいて、無期懲役の判決を下されながらも外に出てきたのか。納得がいかない。

「司法について納得がいかないことはとりあえず置いとこう。それよりも、今は紫さんだ。確かに、父さんの言うとおりだよ」

「ん?」

「たかが四歳の女の子には、大人四人も殺すのは無理だ」

「そりゃまあ、そうだろうな」

「もっと理詰めで言おうか? まず、身体的な問題がある」

 タケトは、事件の概要が書かれた用紙を指さした。新聞のコピーらしきその用紙には、現場となった家の簡単な見取り図に被害者が倒れていた場所が描かれており、被害者のイラストには刺された個所にバツ印がつけられていた。

「四人全員が腹部や胸部、腕を刺されている。どんなに背伸びをしたって、幼児にこの場所が届くとは思えない。百歩譲って被害者がものすごく小柄で紫さんが幼児とは思えないほど大きかったとしても、相手は大人が四人だよ? もみあいになったらどっちが勝つなんて考えるまでもないだろ。寝ている間に襲ったなんて仮説も成り立たない。被害者全員に防御創があったらしいからね」

 寝ていたら防御はできない。しかし起きていたらただ刺されるとは思えない。なるほど。

「大体、ヒトを刺したら返り血を浴びる。後ろから羽交い絞めにして胸を刺したとしても、手は血に塗れるはずだ。庭で保護された彼女が血まみれだったら、必ず記録が残っているはずだけど、この資料を見る限りそんな記録はない。まさか、燃え盛る家の中で悠長に手を洗って着替えていたとも思えないしね」

 感心する俺に、タケトは「まだある」と続ける。

「日常的に虐待されていて、彼女の身体には痣があった。つまり、当時の紫さんは抵抗する術を持たなかった。この時点で、立野紫剛腕説は崩れる。言っておくけど、窮鼠猫を噛むなんて、この場合は当てはまらないよ。立野稔は火傷しかしてないからね」

「ん?」

「紫さんが日常的に父親から虐待を受けていて、それをものすごく恨んで犯行に及んだとして、じゃあなんで最初に父親を刺さなかったんだ?」

「あ」

「自分に対する虐待を見逃していた家族にも恨みが募っていたという可能性を、否定はしないよ。だけど、それにしたって立野稔が刺されていない理由にならない」

 事件の概要を読んだだけで、タケトはここまで考えることが出来るのか。あの写真の時といい、こいつの慧眼には驚かされる。

「それに、紫さんが真犯人だとしたら、立野稔から逃げる理由がない」

「なんでだ? そんなひどい父親なら、逃げたくもなるだろ」

「あのね。紫さんが犯人なら、十九年前、彼女は立野稔を仕留め損ねているってことだよ。ヤツが出所しているなら、そしてまだ恨んでいるなら、オレならここぞとばかりに息の根を止めに行くね。せっかく向こうから出向いてくれたわけだし」

「…言ってることが乱暴なんだよ」

「率直に言ってるだけだよ。ともあれ、どの角度から見ても紫さんは犯人じゃない。安心した?」

「別に、信じてるわけじゃないって言っただろ」

「それを立証してほしかったんだろ?」

 黙ることで肯定した。そして、次の疑問が湧いてくる。

「じゃあ、紫さんはなんで…」

「そうだね。なんで恭介に自分が殺したなんて言ったのかね」

 先ほど、彼女は確かに自分が殺したと言った。どういうことだ?

「一応確認しておくけど、恭介の聞き間違いってことはないよね?」

「ない。…と思う」

「頼りないなぁ」

「悪かったな」

 むすっとして、俺は資料を改めて手に取った。事件の概要のほかには、被害者一覧や立野家の家族構成、裁判の様子などがまとめてあった。立野稔は、動機について「妻が自分と別れて幸せになるのが許せなかった」と供述したらしい。あまりの理不尽さに気分が悪くなった。

 両親は普通の老夫婦だったらしい。近所に挨拶をし、田畑を耕してたまには近所に配り、独立していた弟は婚約中だったとある。帰省していた時に事件に巻き込まれたのだと。

 黙って資料を見ていた俺の視線が、ある一点で停まった。

「―――………」

 どくんと、心臓が跳ねた。唇が渇いていく。

「どうした?」

 タケトが覗き込んでくる。俺は答えず、瞬きを忘れて資料を凝視した。何度も何度も読み返した。

 待て。ちょっと待て。なんだ、これ。これは、まるで。

「恭介?」

 何も答えない俺にしびれを切らしたのか、タケトは俺の手から資料を奪った。そして、コイツも気が付いた。

「………立野、譲…?」

 そう、犠牲になった弟の名前は立野譲。「譲」だ。俺が産まれる二年前、つまり十九年前、故郷の北海道で命を落とした、俺の母親の元婚約者と同じ名前。

「いや、でも…。恭介…」

 タケトもそれ以上何も言わない。言えるわけがない。

「叔母に、確かめる…」

 それだけを言って、携帯電話を取り出した。そうだ、まず確かめなければ。譲なんて名前、どこにでもある。

 タケトに説明する手間を省くため、スピーカー機能を押して電話をかけた。叔母は、なかなか電話に出なかった。辛抱強くコールを聞いて、やっと出てきた声は眠そうだった。そういえば普通はもう眠っている時間だ。

『恭ちゃん? どうしたの。何かあった?』

「叔母さん、譲さんの名字…」

 冷静に聞こうと思って声を出したら、ただの固い声になった。挨拶もしなかった。

『え、なに?』

「譲さんの名字は、なんていうの?」

『……立野、だけど?』

 それがどうかしたの、と続く叔母の声がやけに遠くに聞こえた。

 

 事実は小説よりも奇なりと言うが、ヒトの縁もまた奇なりなのだろうか。

 二十三年前、立野稔と、妻である栞の間に紫という娘が産まれた。

 稔には譲という弟がいた。そして譲には、静音という婚約者がいた。

 譲は稔に殺された。静音はそれを受け入れられずに壊れてしまう。現実を映さなくなった静音の心は、中村浩介を譲だと思い込んだ。

 浩介はそれを受け入れ、二人は結婚し、俺が産まれた。

 譲さんが殺されずに静音と結婚して俺が産まれていたら、俺と紫さんは従姉弟になっていたわけだ。

 そんなことを、ぼんやりと考えた。実際は浩介と結婚したからこそ俺が産まれたのだろうが、それについてはまあいいと思っていた。

「恭介」

 テーブルの上に、湯気の立つマグカップが置かれた。コーヒーの香りが漂ってくる。

「母さんが淹れたのよりは、美味しくないだろうけど」

 恵子さんより上手に淹れるのはプロじゃないと無理だろう。しかし温かいものはありがたい。手に取って、一口飲んだ。

 吹いた。

「おまっ…! なんだこれ、なんでコーヒーに緑茶が入ってんだ!」

 喚く俺に、タケトはさらっと答える。

「これが本当のコーチャ、みたいな?」

「うまいこと言ってんじゃねぇ、嫌がらせか!」

 おかしい。かなり深刻な場面だったはずなのに。

 タケトは俺がテーブルの上に戻したマグカップを取って、ずずっと飲んだ。けろりとしている。

「うーん。でもそんなに飲めないことないよ?」

「いや飲めないことあるだろ」

 がっくりと肩を落とした。そういえば最近は推察力に押されて忘れていたが、こいつにはこの残念な味覚があった。

 恵子さんがあれだけ美味しいものを作るのに、こいつには食べ物に対するセンスというものが皆無なのだ。美味いものは美味いと判断できるのに、まずいものを判断できない。しかも無自覚ときているから始末に負えない。

「いやー、コーヒー淹れようかお茶淹れようか迷っちゃって。恭介は両方好きだろ? だったら、もう混ぜちゃえばいいかなって」

「いいわけあるか、ドアホ!」

 怒鳴ってから、カップを手に取る。

「もういい。俺が淹れなおす。台所借りるぞ」

「あ、じゃあオレの分もー」

「………」

 わざとじゃないだろうな、こいつ。いや、それはないか。タケトには、カレーにチョコレートを入れた前科がある。

 ドリップで二人分のコーヒーを淹れていると、不思議と静かな気持ちになれた。もしかしたらタケトはこれを狙って…いや、それもないか。なんせ相手は納豆にヨーグルトをかけるような奴だ。あれはもうヨーグルト風味の納豆ではなく納豆風味のヨーグルトだった。

「ったく…」

 小さく笑った。この時、腹を括った。

「飲んだら病院に戻る」

 マグカップを置きながら、タケトに言った。

「へぇ。で、どうすんの」

「紫さんが何に怖がっているのか知りたい」

「うん。それで?」

「取り除く」

 言い切った俺を、ソファに座ったままのタケトが見上げる。ややあって、立ち上がって口を開いた。

「じゃあまあ、とりあえず氷が必要だね」

「氷?」

「だって恭介、こんなに熱いコーヒーは一気飲みできないよ。オレが猫舌だって知ってるだろ?」

 言って台所に向かおうとする友人を見つめる俺は、きょとんとしていたと思う。振り返って、タケトは笑った。

「オレを仲間外れにはしないよね?」

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