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 日付はとっくに替わっていた。眠気はまったく無かった。病院の夜間通用口から、息を潜めるように病室を目指す。ロビーでは、草野弁護士が携帯電話のライトを頼りに文庫本を読んでいた。来るときには持っていなかったはずだから、どこかで仕入れてきたのだろう。

 俺達に気が付くと、弁護士は口元に人差し指を当ててみせた。静かにしろ、ということらしい。よく見ると、弁護士の膝の上で恵子さんが眠っていた。看護師が用意してくれたのか、毛布が掛けられている。

「戻ってきたんだね」

 近くまで行くと、小声でそう言われた。戻ってくると思っていたような口調だ。

「…紫さんに、変わりは」

「ないよ。さっきまで恵子が話をしていたんだけどね。二人とも寝ちゃった」

 言いながら、恵子さんの髪を撫でる。夫婦って、こんな感じなのか。見慣れていないからか、なんとなく気恥しい。

「事件のことは、大体分かった?」

「はい」

「じゃあ、紫さんに犯行は無理ってことも?」

「タケトが理詰めで説明してくれましたから」

「それは良かった。じゃあ、行っておいで」

 弁護士は、病室を指さした。紫さんがいる方向を。

「思いつく限り、出来ることはなんでもしてあげたらいい。それでも、どうしても悔いは残るだろうけど」

 草野弁護士の言葉は静かで、深く響いた。

「誰かが自分の為に動いてくれたという事実は、必ず彼女を救うから」

 そうだろうか。そうだといい。そう信じたい。

 うなずいて、タケトと並んで歩き出した。

 

 紫さんの病室は二人部屋だったが、片方のベッドが空いていたので事実上個室だ。部屋に備え付けられているパイプ椅子を持ってきて、座る。紫さんは固く眼を閉じていた。

 しばらく寝顔を見つめていたタケトが、思いついたように口を開いた。

「王子様のキスで目が覚めたりしないかね」

「…アホか」

「いやいや、物は試しって言うじゃん。試供品って大事じゃん」

「王子試供品扱いか、お前は。大体、試そうにもどこに王子がいるんだよ。日本にはいないだろ。まず、王政の国から王子を連れてくるところから始めないと…」

 ヒトが話している途中だというのに、タケトはぽかんと口を開けた。

「? なんだよ」

「お前…それ、本気?」

「それって、どれが?」

 訳が分からず眉を寄せたら、タケトはなんとも言えない表情で俺を見てきた。そう、言うなれば信じられないものを見ているような、そんな表情だ。

「なんなんだよ?」

 タケトはしばらくそのままの表情で黙っていたが、いきなり笑い始めた。

「やっだー、恭ちゃんったら超オニブさんー」

「バカにしてんのか、お前は!」

「ああしてるね! いまだかつてないほどバカにしてるけどそれが何か!?」

「開き直るな! なんでこのタイミングでそんなバカにされるんだよ!」

「お前こそなんでこのタイミングでそんなバカを超越した発言するわけ? 余所から王子借りてきてどうすんの! っていうか王子ってレンタルできるの!?」

「お前が王子って言い始めたんだろうが!」

「だから、この場合王子って言ったら…あ」

「あぁ!?」

 突然目を逸らしたタケトの視線を追っていったら、ばっちりと黒目がちな目があった。

「…あ」

 勢いをそがれる。えーと、とりあえず。

「起きましたか」

「うん」

「もしかして、うるさくて起きちゃいましたか」

「うん」

「すみません」

 タケトと、声をそろえて謝った。

 パイプ椅子に座りなおして、紫さんを見る。このヒトが、従姉弟だったかもしれないのか。不思議な感慨があった。それを伝えるつもりはないが。

 もっと、他に伝えることがある。

「紫さん」

「なに?」

「紫さんは、何を怖がっているんですか」

 もっと別の言葉で、別の角度からそれとなく聞いた方がいいのかもしれない。けれど、そんなのは俺の性分じゃない。

「その恐怖、俺に分けてもらえませんか」

「あ、オレにもください。もらえるものはもらっとく主義なんで」

 片手をあげて、タケトも言う。紫さんは、何度か瞬きをして俺達を見ていた。

「…もらって、どうするの」

「殴り飛ばして埋めてきます」

「三枚におろして醤油付けます」

「食ってどうする」

 すぱんとタケトの頭をはたいてから、紫さんに向き直った。白い肌が痛々しかったけれど、目を逸らしてはいけないと思った。

「ダメですか?」

 紫さんの為に、などと言う気はない。これは俺の自己満足だ。俺が動くことが必ず彼女を救うからと草野弁護士に言われたところで、結局は俺の為だ。わかっている。

それでも。

「分けてほしいんです。………どうしても」

 これが物語なら、ここで彼女の手を握って瞳を覗き込んだりするのだろう。けれどこれは物語ではなく、俺にはそんな度胸も余裕もなく、ただ、彼女に伺いを立てるしかできない。拒否は受け取らないつもりだが。

 やがて、彼女はぽつりと言った。

「あたしが、殺したの」

「それは…」

 物理的に無理です、と言おうとした俺の肩をタケトが掴んだ。とりあえず聞いておけということか。

「毎日、殴られてたの。でも、殴ってない時はすごく優しかったの。いっぱい抱きしめてくれて……泣くの。ごめんねって」

 彼女は、無意識かもしれないが自分で自分の両腕を抱えた。

「本当に、すごく泣くの。それから、言うの。紫がもっといい子で、かわいかったら、殴らずに済むのにって。殴りたくて殴ってるわけじゃないって」

 なんだ、それ。

「自分も悪いけど、紫も悪いって…。だから、仕方がないって。泣きながら、殴るの」

 紫さんが殴られている、その場にいたかった。その場にいても、護ることはできなかったかもしれない。けれど、一緒に逃げることはできたかもしれない。

「そんなあのヒトを…、殴るの。父親が」

「…え?」

 思わず声に出してしまった。ちょっと待て、ということはどういうことだ?

「紫さんを殴っていたのは、立野稔じゃないんですね?」

 タケトの言葉に、紫さんは無表情のまま軽く顎を引いた。

「当時、同居していたのは両親と父親の両親でしたね。父親じゃないってことは…」

「…お母さん」

 思いもよらなかった。

「お母さんの名前は、確か栞さんでしたね。つまり、栞さんが紫さんを殴り、その栞さんを旦那が殴っていたわけですか」

「ちょっと違う」

「というと?」

「父親は、お母さんのことも、おじいちゃんのことも、おばあちゃんのことも殴ってた」

 両手を膝の上で握りしめた。

「おじいちゃんとおばあちゃんは、お母さんを殴ってた」

 そして、母親は娘を。―――地獄絵図だ。

「逃げだしたくて、火を点けたの」

 組んでいた腕を解いて、紫さんは自分の両手を見た。

「あの日、あたしが」

「どうやって? 四歳児にライターやマッチが使えるとは思えないんですが」

「ストーブの上に、新聞紙を置いただけ」

「…なるほど」

 タケトはそう答えて、数瞬の間を置いて問いかけた。

「それ、お母さんの指示ですね?」

 紫さんの肩が、目に見えて震えた。俺も、似たようなものだっただろう。

「四歳児がストーブの上に新聞紙を置くなんて、自主的に考え付くとは思えません。小さな子どもは、虐待を受けても親ではなく自分のせいだと思い込むらしいですし。実際、お母さんからそう言われていたんですよね?」

 確かに、彼女は先ほどそう言っていた。

「逃げだしたかったのは、紫さんじゃなくてお母さんの方だったんじゃないんですか?」

 では立野栞は、自分が現状から逃げる為に、娘に放火をさせたのか。悲しみだか憎しみだか分からないものが込み上げてきて、俺は唇を噛んだ。

「悪い方に想像すれば、いくらでも説明はつきます。お母さん…栞さんは、家族を殺して自由になりたかった。けれど、自分がやっては証拠が残るかもしれない。だから、自分も被害者になることを思いついた。子どものいたずらにするつもりだったんでしょう。紫さんに時間を指定してストーブに新聞を置かせ、自分は家族会議を開く。これでアリバイが作れると同時に殺したい家族を全員一つの部屋に集められる。新聞紙の量とストーブの火加減やタイマーを調整しておけば、頃合を見計らって自分だけ逃げることが可能ですからね。トイレとかなんとか、いくらでも言いようはあります。ちょっとでも狡い人間なら考え付きそうなことですよ」

 会ったこともない立野栞のことをここまで悪しざまに言うのは、タケトにしては珍しい。紫さんへの虐待に、こいつも頭に来ているのかもしれない。

「違いますか」

 紫さんは下を向いていた。話したくないならいいですよ、と言いかけて止めた。ここで吐き出さなかったら、彼女は一生口をつぐんでしまうような気がした。

「でも」

 か細い声が響いた。

「火を点けたのは、あたしだから…」

 紫さんは、タケトの言っていることが全面的に当たっていると言外に認めていた。

「そうですか」

 つぶやいて、タケトは椅子の背もたれに寄りかかった。ちらりと俺を見る。どうぞ、ということか。

「つまり、紫さんが怖がっていたのは」

 黒目がちな目が、俺を見る。

「自分自身だったんですね」

 紫さんの唇が、小さく震えた。

「ヒトを、殺したの…。あたし、お母さんを殺してしまったの…」

 白くて小さな手も震えている。

 結果として、家族を殺したのは立野稔だ。しかし母親だけは違う。母親は焼死だった。彼女は、母親を殺したのだ。

「お母さんが、もう殴りたくないから、逃げようって…」

 紫さんは、すでに無表情ではなくなっていた。縋りつくように、俺を見ていた。

「一緒に逃げて、二人で楽しく暮らそうって、言って…」

 大粒の涙が、布団を濡らした。

「あたし、ただ、お母さんが喜んでくれるならって」

 布団の染みは一つだけでは収まらず、いくつもいくつも増えていく。

「まさか、あんなことになるなんて…っ」

 両手で顔を覆った彼女に触れようとしたら、避けられた。

「あたしの手は、汚れてるの。恭介くんみたいに優しいヒトが、触ってもいいような手じゃないの」

「それは俺が決めます」

 言って、椅子から腰を浮かせてベッドの縁に片膝を乗せ、彼女の両手首を掴んだ。細い腕は、俺の手にすっぽりと収まった。涙に濡れた瞳が見上げてくる。

 右手を腕から離して拳の形を作った。紫さんが一瞬びくついたのが分かったが、俺は無言のままだった。

 そのまま、拳をベッドの隅に思い切り叩きつける。ぼすっと音がして、拳が布団に沈み、ベッドが軋む音がした。

「…恭介くん」

「………殴り飛ばして埋めるって、言ったでしょう」

 今度は身体ごと彼女から離れ、紫さんを見下ろす。

「もう、怖がらなくていいです。次にまた恐怖が来ても、また殴り飛ばします。何度でも」

 紫さんは、涙を隠しもしなかった。恐怖からくる涙だけではないと思いたかった。

「もう、大丈夫です」

 病室の大きな窓が、少しずつ明るくなっていた。夜明けが近かった。

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