top of page

 それから三日間は、何事もなかった。医者に言わせると、紫さんの病気は小康状態だが、もういつ何が起きても不思議ではないらしい。自分で立つことも出来なくなった彼女は、車椅子で移動している。

 立野稔は警察が探している。目撃者の証言をもとに、徹底的に付近を捜索しているらしいが、いまだ発見には至っていない。師範も探してくれているが、やはり状況は芳しくない。紫さんのもとに現れる可能性の高さから、病院にも警官が張り付いている。

 外は雪だ。傘を差さないといけないくらいには降っている。にも関わらず、紫さんは外に出たいと言い始めた。

「雪ですよ」

「だから出たいの。寒いのは平気」

 絶対にダメだと突っぱねることは出来なかった。彼女が望むことなら、なんでもしたかった。

 上着を着てマフラーを巻いて、ひざ掛けも掛けてから病室を出た。この三日で、俺も多少は車椅子を押すことに慣れた。看護師に断わってから、中庭へと出る。

 外に出ると、当然ながら空気が冷たかった。真っ白な雪が、後から後から落ちてくる。彼女が濡れないように傘をさして、二人でぼんやりと空を眺めた。

「雪だね」

「そうですね」

「雪が、舞ってるの、好きなの」

「そうですか。じゃあ見られて良かった。寒いですけど」

「寒いのは嫌い?」

「どっちかというと。冬生まれなんですけどね。暑いほうがまだ好きです」

「そう。……早く、秋が来ないかな」

「まだ春も来ていないのに?」

「冬も好きだけど、一番は秋が好きなの。冬に入る直前の、枯葉が落ちていくのが好き」

 紫さんの声には、やはり抑揚がない。構わなかった。彼女の声ならそれで良かった。いくらでも聞いていたかった。

 バイトの合間を縫って、タケトは虐待を受けた被害者について調べていた。それによると被害者にはさまざまな特徴があるらしいが、その一つとして表情が乏しくなり、受け答えが極端に少なくなるケースがあるそうだ。彼女は多分、それに当たる。

「恭ちゃん」

 唐突に初めての呼び方をされ、少し面食らった。彼女の表情は変わらない。

「呼んでみたかったの。恭ちゃんって」

「そんなん、呼びたいならいくらでも…」

「でも、タケトくんが恭ちゃんって呼んだら嫌な顔してたでしょう?」

「あれは、あのバカが俺をからかう時にそう呼ぶからですよ」

「仲良しね」

「腐れ縁です」

「いつからの友達?」

「初めて会ったのは小学校の三年生でしたけど、会話をしたのは五年生になってからでしたね」

「そう。タケトくんは、昔からあんな感じなの?」

「昔から成績は良かったですけど、性格の面で言えば今はだいぶ丸くなったと思いますよ。前はもっと刺々しかったです」

「…タケトくんが?」

「信じられないでしょう。いつの頃からか、棘が抜けて代わりにアホが生えてきまして。そのうちアホに乗っ取られて今のタケトになったんです」

 本人がいたらどつかれそうな言い草だが、まあいいだろう。奴はいないし。

「恭ちゃんのご両親は、どんなヒトだったの?」

 その質問に、少し黙る。どんな、と言われても。

「改まって聞かれると困るんですけど…。母親のことは覚えてないんでなにも言えませんけど、親父は、なんていうか本当に豪快なヒトでしたね。そのくせ涙もろくて、単純で、でも、強くて優しかったと思います」

 精神を病んで自分を譲だと思い込んだ母親を受け入れ、そんな母親が産んだ俺を必死に育てるくらいには。

「…恭ちゃんみたいね」

「そうですか? 俺は母親に似たって言われていましたけど」

「涙もろくて単純でってところが」

「…………」

 返す言葉がない。

 俺の顔を見て、ふと、彼女が口元をほころばせた。時間を置いて、笑っているのだと気が付いた。

 笑っている。紫さんが。

 思わず、傘を落とした。

「ゆ…」

「それに、強いってところも。優しいところも」

 最期まで自分の名前を呼ばなかった母親を、親父はどんな気持ちで看取ったのだろう。途中で投げ出したくはならなかったのだろうか。もう知るかと、言いたくはならなかったのだろうか。

 答えは断言できる。

 ならなかっただろう。こんな風に、自分に笑ってくれるなら。

「優しいままでいてね」

「……紫さん?」

「恭ちゃんは、優しいままでいてね」

「なにを」

 言っているんですかという言葉は、突如聞こえてきた大声にかき消された。耳をつんざくような高い叫び声だった。続いて怒声、悲鳴、何かが割れる音。

 間を置かず、大きな音を立てて中庭の扉が開かれた。

 立野稔が、そこにいた。

 帽子はしていない男は、指名手配の写真よりもだいぶ痩せているように見えた。細く吊り上った眼は、本当に紫さんと血が繋がっているのか疑いたくなる。その右手にはナイフが、そして左手には赤子がいた。

「どんな手段を使ってでも、奴は紫さんの前に現れるよ」

 そう、タケトが断言していた。十九年前に家族を殺害し、今回北海道からの移動費欲しさに強盗事件を起こすような身勝手な男が、警察が見張っているくらいで諦めるはずがないと。しかし、ここまで卑怯な手段を使うとは。

 奴の目的を、俺は知らない。興味もない。正直なところ、どうでもいいと思っている。俺にとって重要なのは、立野稔が現れることを紫さんがどう思うか、それだけだ。

 車椅子を押している立ち位置上、俺の方が紫さんよりも扉に近い。ちらりと振り返ったが、座っている彼女の表情は見えなかった。

 立野稔を追って、数人の男たちが中庭になだれ込んできた。見覚えのある顔もいた。草野家にやってきていた刑事だ。

「立野、落ち着け、まず子どもを離せ!」

 唯一幸いなのは、赤子が眠っているということだ。自分が置かれている状況を理解する前に、解放してやりたい。

 自分の視線が、どんどん険しくなっていくことが分かる。この男が、すべての元凶なのだ。紫さんを傷つけ、立野譲を殺害し、俺の母親を壊し、親父の人生から「中村浩介」を奪った。

 叫び声は止まない。人質を離せ、刃物を棄てろ、もう逃げられないんだ、投降しろ。どれも聞こえてはいないようだった。立野稔はただ、俺の向こう側にいる紫さんを見ていた。

 タケトなら、人質を解放するように駆け引きできるのかもしれない。だが、あいにく俺にはそんなスキルは備わっていない。

「立野、もう諦めろ!」

「ぅぅうううるさあぁぁぁあい!! 」

 空気を震わせるような大きな声で叫んで、立野稔はナイフをぶんぶんと振り回した。

「うるさいうるさいうるさい邪魔するな!」

 返して、と泣き叫ぶ声が聞こえた。見れば、赤子の母親らしき女性が別の男性に抱えられている。

―――こんなことが、許されるはずがない。

「やぁぁっと会えたなぁ、ゆかりぃ」

 立野稔は肩で息をしている。よたよたと近づいてこようとするので、身構えた。背後の紫さんはどんな顔をしているのか、息遣いさえ聞こえてこない。息もできないのかもしれない。

「近寄るな」

 発した自分の声は、意識せずとも低かった。

 許さない。

 この男の存在を、俺は許さない。

 こんな男は、俺が。

「恭ちゃん」

 知らずに握っていた拳に、冷たいものが触れた。数瞬の間を置いて、彼女の手だと理解した。

「恭ちゃん」

 名前を呼ばれているだけなのに、気持ちが凪いでいく。

「恭ちゃん」

 拳から力が抜けていく。目つきから刺々しさが消えていく。

 ああ、彼女の声は、こんなにも。

 面白くなさそうに問いかけてきたのは立野稔だ。

「なんだぁ、お前。紫のなんだ?」

「………隣人だよ」

 そう答えるしかない。俺は彼女の、隣人でしかないのだから。

「隣人、隣人、りんじん…」

 ぶつぶつと何かつぶやいている。その表情が気持ち悪い。

「もういい。そこ、退け」

 ナイフを左右に揺らし、退くようにと迫ってくる。もちろん、俺に退く気はない。

「退けって、言ってんだろうがぁぁぁああ!!」

 思い通りにいかないと癇癪を起す子どものようだ。

 幼い頃の彼女はずっと、こんな怒声にさらされてきたのか。やるせなくなってきて、奥歯を噛んだ。殴りつけたい。教室で大木を殴ったときとは違う。感情のまま、再起不能になるまで、死んだ方がマシだと思うほどに殴って、彼女を傷つけたことを死ぬほど後悔させたい。

 暴走しそうになる気持ちを、彼女の冷たい手がかろうじて繋ぎ止めてくれている。

「退かないならこいつ殺すぞ、殺す!」

 呂律の回らない舌で怒鳴って、立野稔は赤子の首にナイフを持っていく。

 止めて、と叫ぶ声。

 飛び掛かるしかないか。飛び掛かっても手加減できるかどうか分からないが。ぐっと足に力を入れると同時に、俺の手を握る彼女の手にも力が入った。

「紫さん?」

「…退いて、恭ちゃん」

「え…」

 彼女は俺から手を放し、自ら車椅子を操作した。立野稔と向かい合うように、俺と並ぶ。

「おお、ゆかり。ゆかりぃ」

「その子を、放してください。あたし、ちゃんと、罰を受けますから…」

「紫さんが受ける罰なんかありません」

「お前黙ってろぉ! 今すぐこいつ殺すぞこらぁ!」

 赤子の首にナイフの先端がかかる。さすがに黙るしかなかった。

「そうだ、そうだな、ゆかり。お前は昔から聞き分けのいい子だったからなぁ。お父さんの言うこと、聞けるよな?」

「……はい」

 彼女の声に恐怖の色は感じられない。というよりも、感情そのものが感じられない。こうやって、感情を殺して耐えて来たのか。日々振るわれる暴力から。

 感情を殺すしか、生きる術が無かったのか。

 それは、生きているといえるのか?

「よし、いい子だ。じゃあ…」

 不穏な波を立てる俺の心中など知らず、立野稔はナイフを紫さんに向けた。

「一緒に死のう」

 その言葉を受けた時でさえ、紫さんは表情を変えなかった。

「お父さんな、ずっと後悔してるんだ。どうしてあの時、お前や栞と一緒に死ななかったのか。一緒に死ねば、ずぅっと一緒にいられたのに」

 ふらりふらりと、立野稔は紫さんに近づいてくる。

「栞はいなくなって、お父さんはずっと塀の中に閉じ込められて、お前だけ自由に生きてるなんて不公平だよなぁ。みーんな死んだら公平だ。なぁ?」

「…はい…」

 これがヒトの親か。親がする事なのか。紫さんの前に立ちふさがりたいが赤子がいる。

 どうする。

 笑い声がした。

 顔を向けると、タケトが扉にもたれかかっていた。俺に向かって軽く手を上げてから腕を組む。俺とタケトのちょうど真ん中あたりで、立野稔は中途半端に身体の向きを変えた。

「なんだぁ、お前」

「知る必要はありませんよ。それよりあなた、狙われていますよ」

「なにぃ?」

 タケトは口の端を上げている。腕を組んだまま、指で自分の腕を三回たたいた。

 ---合図だ。

「思っていた以上に頭が悪そうですね」

 挑発的に笑って、タケトは自分に注意をひきつけている。

「確かに日本の警察はなかなか発砲しませんけどね。それでも、強盗殺人未遂を起こして子どもを人質にとったうえ娘に無理心中を迫っている男を、いつまでも放置するわけがないでしょう。銃口が見えないんですか? ほら」

 言って、タケトは視線を周囲に巡らせた。テレビで見たことのある特殊部隊がいるということだろうか。

 立野稔も、つられたように視線を巡らせた。

 その隙を、ついた。

 一足飛びで立野稔との距離を詰め、ナイフを叩き落とす。

「な…」

 驚いた男は、赤子を取り落とした。落下地点には、すでにタケトが走り込んでいる。赤子をキャッチすると同時に、彼はナイフを蹴り飛ばした。

「我ながらナイスコンビネーション」

「まったくだ」

 赤子を抱えて座ったまま、タケトが拳を突き出してくる。こつんと合わせた。

「なんだ、お前ら…。なんだお前らぁぁぁあああ!」

「しかしこの子は大物になるね。この状況でも起きる気配がないよ」

 立野稔の怒号を綺麗に無視し、タケトが立ち上がる。さっさと俺に背を向けて、駆け付けた母親らしき女性に赤子を返した。

「お前ぇぇぇ」

 タケトを追いかけようとする男の真正面に立つ。

 もう、遠慮する必要はない。

「退けお前!」

 立野稔は、ポケットから折り畳みナイフを取り出した。威嚇してくるが、なんのことはない。素人のナイフなど、白峰道場の師範代なら目を瞑っていても腕ごと破壊する。

 そして俺は、その白峰の門下生だ。

 がむしゃらに振り回してくるナイフをかいくぐり、手首を掴む。そのまま後ろにねじりあげた。かちゃんと音を立ててナイフが地に落ちる。

「い、痛い!」

 当たり前だ。痛くしている。

「放せ、放せ!」

 身を捩って逃れようとするが、舐めないでもらいたい。俺はその程度で振りほどけるような鍛え方はしていないのだ。手に力を込めて腕をねじ上げると、立野稔は簡単に膝をついた。

「痛い、痛い!」

「それがどうした」

 俺の声は冷たい。

 痛いだろう。だがこの程度の痛みがなんだというのか。

「折れる! 放せ、もう止めてくれ! 放してくれ!」

 もう止めてほしいと、当時の紫さんも懇願したはずだ。栞だって思っていたはずだ。それを踏みにじったのは、この男だ。

 俺はぱっと手を放した。

 一瞬呆けた立野稔に、もう一歩踏み込む。ひっと息を飲む声が聞こえたが、俺は躊躇せずに拳を振り上げた。

「恭介」

 タケトが何か言っているが、聞こえない。聞きたくない。

 こいつが、傷つけた。こいつが、壊した。こいつが、こいつが。

 頬骨が折れるほど殴りつけたら、彼女の傷も、少しは。

「恭ちゃん」

 反射的に動きが止まった。

「恭ちゃん」

 細い声。そっと袖を引かれる感覚。冷たい手が、俺を引き戻していく。

「殴らないで…」

 さっきと同じだ。暴走しそうな感情を、彼女が封じてくれる。

「恭ちゃん」

 彼女の声は小さいのに、俺の耳にそっと響いてくる。

「ありがとう」

 暴力を振るう気には、もうなれなかった。

bottom of page