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「栞さんを殺したのは、紫さんじゃありませんよ」

 タケトが唐突にそう言ったのは、立野稔が逮捕された日の夜だった。

「………え…」

「オレなりに調べてみたんですよ。ちょっと時間はかかりましたが断言できます。栞さんは確かに焼死です。でも、紫さんが原因じゃありません」

「どういう意味だ?」

 聞いた俺に、タケトは一瞬だけ沈黙してから話し出した。

「事件はリビングで起きました。焼けていたのもリビングが一番ひどかった。で、紫さん。あなたが新聞紙を置いたのは、リビングのストーブですか? 大人が五人も集まって、誰もストーブの上の新聞紙に気付かないなんてことがありえますかね? あなたが新聞紙を置いたのは、別の部屋のストーブでしょう?」

「あ…」

 反応したのはやはり俺で、紫さんは黙っていた。

「そもそも立野稔は放火罪でも起訴されていて、裁判でも否認はしていません。つまり、彼も火を点けたんですよ。栞さんの遺体はリビングで見つかっていますから、どっちの火元が原因で亡くなったかは明らかです」

 彼女は小さく口を開けた。その口元を、両手で覆う。何も言わないが、震えている。

「いいですか、紫さん」

 タケトは微笑んだ。

「大丈夫ですよ。あなたは、誰も殺していません」

 口を覆っていた両手で顔全体を隠して、彼女は泣き出した。

 

 紫さんが完全に眠ったのを確認してから、病室を出る。開口一番、俺は言った。

「良い嘘だな」

「………そうだね」

 はぐらかされるかと思ったが、タケトは意外にあっさり認めた。

 事件はリビングで起きた。これは本当だ。

 紫さんが新聞紙を置いたのは別の部屋のストーブの上。これもたぶん、彼女の反応を見ても事実だろう。

 だが、栞の遺体はリビングでは見つかっていない。俺が見た資料にもあったから覚えている。確かに別の部屋だった。稔に刺された彼女は逃げた。逃げた先で、逃げ切れずに焼死したのだ。おそらく、紫さんが新聞紙を置いたストーブのある部屋で。もしかしたら、紫さんを探していたのかもしれない。

 タケトは嘘をつかない主義だ。何年も前に、そう決めている。彼はたぶん、自分が言った嘘が真であると証明するために調べていたのだろう。そして証明できたのは、紫さんが栞の死因を作ったという事実だったのだ。

「オレはこれを、生涯最後の嘘にするよ」

 その誓いを、タケトは必ず守る。確信があった。

「まあ、こんな嘘に、意味なんかないかもしれないけど」

 自嘲するように口の端を上げるタケトに、小さく首を振った。

「意味なくは、ないだろ」

「だって事実は変わらないよ」

 確かに変わらない。どう言い繕ったところで、紫さんがストーブの上に新聞紙を置いた事実は消えない。栞はもう戻ってこない。

 俺が黒崎に礼を言った事実が消えないように。親父が二度と戻ってこないように。

 けれども。

「紫さんが少しでも救われるなら、なんでもありだ」

 それが、俺にとっての事実だ。


 

 彼女の容体が急変したのは、それから一週間後のことだった。一週間、平和な時間を過ごした。彼女が苦しんできた期間に比べれば、あまりにも短い一週間だ。その一週間、彼女は微笑むことが多く、俺はそのたびに泣きたいような笑いたいような、自分でもよく分からない気持ちを大きくしていった。

 本当は学校など行かずに彼女の傍にいたかったが、それを彼女は許さなかった。師範たちも許さなかった。

 仕方なく、朝起きて学校へ行き、放課後はまっすぐ病院へ行き、面会時間が終わるまで彼女と話し、帰りに白峰道場によって稽古をして夕飯をご馳走になっていた。約束通り、師範と師範代を彼女にも紹介した。

 師範代がいきなり紫さんを抱きしめた時は、彼女はもちろん俺も目を丸くした。

「あの…。なんですか…?」

「別に? 抱きしめられたことないんじゃないかしらと思って」

 そう言って、師範代は紫さんから離れた。と思ったら今度はくしゃくしゃと彼女の頭を撫でる。

「それと」

 言いながら、俺を見てくすりと笑う。

「かわいい門下生へ対するちょっとした嫌がらせよ」

「え?」

 首を傾げる紫さんと、何も言えない俺。師範代はすっと俺に寄ってくると、耳元で囁いた。

「あんたには出来ないでしょ」

 そこで、師範とタケトが同時に吹き出した。顔を引きつらせた俺を、紫さんは不思議そうに見上げていた。

 それでも、紫さんは少しずつ弱っていた。車椅子での移動どころか、起き上がるにも時間がかかるようになり、食事も摂れなくなって頬はこけていく。

 

 そして、その日。

 一週間前と同じように、雪が降っていた。夕方と言えども薄暗く、自転車のライトを点けて病院へと急いだ。

「紫さん」

 幻を見た。

 彼女が立ち上がって、黒目がちな目で俺を見つめて微笑んでいる。そんな幻を。

「―――………」

 ベッドに彼女はいなかった。車椅子もない。

「トイレかな」

 タケトは言ったが、そうじゃない気がした。直感としか言いようがない。咄嗟に身をひるがえして駆け出した。

「恭介?」

 雪が舞うのが好きだと、彼女は言った。間違いなく、彼女は外にいる。

 病院だというのに全力で走って、中庭に続く扉を開けた。

「紫さん!!」

 車椅子を支えに空を見つめていた彼女は、ゆっくりと振り返り―――そのまま倒れた。

「紫さんっ!」

 慌てて駆け寄って、身体を起こす。あまりにも彼女の身体が冷たくて、ぞっとした。

「ヒトを呼んでくる!」

 叫ぶように言って、タケトはもう走り出している。

「紫さん!」

 彼女を抱えて扉の内側へ入り、自分の上着を巻きつけた。どうしていいか分からず、ただ必死で彼女を抱きしめる。

 ふと、彼女の息遣いを感じた。

「紫さ…」

 震える細い手が、俺の腕を掴む。

「……ちゃん…」

「紫さん、紫さん!」

 名前を呼ぶことしか出来ない自分が歯がゆかった。どうすればいい。どうすれば、彼女は助かるんだ?

 今彼女が助かるなら、俺はもう何もいらないのに。

「立野さん!」

 駆け付けた看護師たちが彼女をストレッチャーに乗せようとする。だが、紫さんが俺の腕を放さない。

「立野さん、聞こえますか? 手を放しましょう。治療させてください」

 看護師の声に、紫さんは何度か瞬きをした。

 弱々しく、俺を見上げている。

「紫さん?」

 口がぱくぱくと動いたが、何を言っているのかは分からなかった。

 

 治療室前の廊下で待つ。ベンチを案内されたが座ってなどいられなかった。そのうち、草野夫妻が駆けつけてきた。恵子さんの顔は青い。そんな妻を支えるように、夫が肩を抱いていた。

 待ち時間は長かった。何度も看護師や医師が廊下を行き来した。

 やがて、扉が開いて医師が出てくる。出てきた瞬間、めまいがした。この表情を、知っている。見たことがある。

 親父が運び込まれた、あの病院で。あの時も、医師はこんな表情をしていた。

「先生、紫さんは」

 草野弁護士が聞いている。聞かないでほしかった。返事が分っていたから。あの時も、嫌だと思った。

 嫌だと、叫んだのに。

「…手は、尽くしましたが」

 耳を塞いで、座り込んでしまいたかった。

「人工呼吸器はつけないでほしいと、以前本人から書類を提出されています」

「それは……。本人が、延命を望んでいないということですか」

「そういうことです」

 耳を塞ぐことも、座り込むこともできない。俯くことしかできない。

「あとは、本人の体力次第です」

 たまらなくなって、駆け出した。彼女のもとへ。

「紫さんっ!」

 ベッドに横たわる彼女を見て、戦慄に似たものが全身を駆け抜けた。こんなにも痩せていただろうか。こんなにも青白かっただろうか。まるでもう、生きていないみたいに。

「ゆ、かりさ」

 喉の奥に詰まったように、声が出てこない。俺には、名前を呼ぶことしか出来ないのに。

 彼女の手は、白くて細い。その手を、そっと握った。氷のように冷たい。

「起きてください…」

 手を握ったまま、座り込む。

「頼むから…起きてください」

 一瞬、彼女の指が動いた。

「紫さん…?」

 ゆるゆると、瞼が持ち上げられていく。

「紫さん!」

「……い…ね…」

 何か言っている。色を失った唇が動いている。

「…やさし…ままで…いてね」

 聞き取れた。必死でうなずく。

「分かりました。分かったから…っ!」

 だめだ。また、涙もろいと言われてしまう。

「あ…りが、と」

「紫さん」

 強く、潰れてしまうくらいに強く手を握った。

 お願いだ。

 頼むから。

「―――紫!!」

 彼女は二度と、返事をしなかった。

 雪は降り続け、この冬の観測史上もっとも積もって街を白く染めた。

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