top of page

 この小さな星は、神が統治している。神とはこの世を創造した者。人間の十倍もの寿命を持ち、天を駆け、人間には無い能力を持ち、慈悲を持ち、博愛を持ち、人道を説く。国民は皆、神から生まれ神に還る。神のもとに人々は平等で、そこに貴賤はない。
 神と神に仕える神官が住まう山を神界《しんかい》といい、山のふもとにある関所をほかの関所と区別する為に神関《しんせき》と呼ぶ。
 神は、人々の前に姿を見せない。先天的、後天的に目が見えない者、耳が聞こえない者が不平等さを感じないようにする為だ。この世界は平等であるからこそ争い無く成り立っている。
 神官であっても滅多に会うことが許されない神に、唯一会える者がいる。それが巫女だ。
 巫女は神に選ばれた人間だ。血筋は関係なく、神からの宣を受けた先代巫女が迎えに来る。巫女に選ばれるということは、人間でありながら神の領域に踏み込むということだ。神と人間との懸け橋になることを指し、人間の中ではこの上ない誉とされている。
 巫女に選ばれた人間はその時点で神界に入り、それ以降は神の言葉を降ろす以外で人間と口を利くことは許されない。例え家族であっても、神の許可無しには会うことさえ許されない。これも、巫女の家族ということによる不平等を生まない為だ。人間では誰よりも神に近く、尊い存在。それが巫女だ。
 だがそれは同時に、神でも人間でもなくなるということでもある。自分と同じ目線の者が無になるのだ。人生の途中から召し上げられる分、巫女は神以上に孤独な存在かもしれない。
 見たこともない、そしてその先頻繁に会うわけでもない神一柱と、親しい人間すべてと。
 天秤に掛けた時に後者を取る人間がいてもおかしくはない。幼い少女ならなおのこと。
 そんなことをぼんやり考えながら、シロは歩いた。
「シロの家は近くか?」
「ああ、少し先に赤い屋根が見えるだろ。あそこだ」
「その、左手に持っているものはなんだ? 何やら温かいにおいがするが」
「肉まん」
「ニクマン……おお、知っているぞ。肉まんだな? 食べ物であろう?」
「ああ」
「ふふ、そうか。実物を見てみたいと思っていたのだ。家に着いたら見せてくれ」
「まあ、見せるくらいなら…」
 なにかおかしい。シロはそう思った。
 この少女が巫女であることは疑いようがないが、この世間知らずさはなんだ。巫女とは確かに浮世離れした存在ではあるが、巫女に召し上げられるまでは普通の人間なのだ。少女は確かに幼いが、傘も持ったことが無い、肉まんの実物も知らないような年齢にも見えない。巫女に召し上げられる前は、ものすごいお嬢さまだったりしたのだろうか。
 少しだけ考えて、止めた。聞いたら面倒なことになりそうだったからだ。
 面倒事は御免だ。
 もう、御免だ。

「着いたぞ」
「おお、ここがシロの家か…。ずいぶん小さいな」
「悪かったな」
 玄関の引き戸を開けようとして、シロが止まる。
「おい、傘畳め」
「たたむ…?」
「………」
 舌打ちしそうになって、そりゃそうかとシロは息をついた。持ったことが無いのなら、畳んだことなどあろうはずもない。仕方なくミーコを抱えたままなんとか自分で傘を畳んだ。
 足場が不安定になったミーコは、シロの首にしがみついてその様子を興味深げに眺めていた。
「おい、帰ったぞ」
 戸を開けて、シロが中に声をかける。玄関の正面に伸びる廊下の奥には襖があって、その奥から返事があった。
「遅ーい! 肉まん買うのに何時間かかってんの!」
「事情があるんだよ。いいから手ぬぐい持ってきてくれ」
「濡れたの? 傘持ってってたでしょう」
 訝しそうな声とともに、襖が空いた。シロの同居人が顔を出す。
 肩の線を越える髪を後ろでまとめ、落ち着いた藍色の小袖を身にまとう彼女は、シロとシロが抱えている少女を認め、動きを止めた。
 間があった。
「………誰それ」
「ミーコだ」
「ミーコじゃ」
「猫か。っていや、それ巫女でしょ」
「ミーコだ」
「ミーコじゃ」
「いやだから、巫女でしょうよ」
「いやだから、巫女のような恰好をしたミーコだ」
「そうつまり、巫女のように見えるであろうがただのミーコじゃ」
 シロの同居人は、額に手をやった。また間があったが、やがてふうと息をついた。
「うん、まあ、いいか。まずは手ぬぐいね。待ってて」
 言って、ぱたぱたと家の奥の方へ消えていく。それを見届けて、ミーコはふふふと笑った。
「ごまかせたようじゃな」
「なんておめでたい頭してんだ」
「そう褒められると照れてしまうな」
「………いや、もういいや」
 言い返す気も起きず、シロは下駄を脱いだ。廊下に上がるとすぐに手ぬぐいを持った同居人が戻ってくる。
「はい、手ぬぐい」
 言いながら、ふわりとミーコに手ぬぐいをかけた。白い頭巾をかぶったような姿になる。
「かたじけない」
「今お風呂も入れ始めたから、沸いたら入りなさい」
「む…。至れり尽くせりだ。ありがとう」
「良い子ね。ちゃんとお礼が言えるんだから」
 笑って見せた同居人に対し、ミーコは手ぬぐいで顔を隠した。そして、ぽつりと言う。
「違う」
「うん?」
「わらわは…良い子などではないのだ」
「どういう意味?」
 ミーコは答えない。その小さな身体が強張っていることに、少女を抱えるシロは気付いていた。
「まあ、いいだろ。とりあえずあったまるほうが先だ」
「それもそうね。濡れた着物を着替えなきゃ。着物出してくる」
「ああ」
 同居人がまた家の奥に走って行って、シロも歩き出した。
「風呂はすぐに沸くから、脱衣所で待ってろ」
「もう家の中であるし、わらわは自分で歩けるぞ」
「足袋も濡れてるだろうが。廊下濡らされちゃ迷惑なんだよ」
「まさかそなたも脱衣所に入る気か?」
「お前を放り込むだけだ。ガキが妙な心配してんじゃねぇよ」
 すたすたと歩いて廊下を曲がり、さらに家の奥へと進んでいく。脱衣所は、廊下の突き当たりより少し手前に扉がある。
「ほらよ。降りろ」
 ミーコを降ろして、シロは軽くなった右手を軽く振った。
「しびれたか?」
「そんなにヤワじゃねぇ」
「力持ちなのだな」
「普通だろ」
 素っ気なく答えると、ミーコは笑った。
「やっぱりシロは良い奴じゃ」
「言ってろ」
 罪人に向かって笑う逃亡者。
 滑稽だと思いながら、扉を閉めた。
 と、ぱたぱたと足音を立てて同居人が戻ってくる。
「ミーコ、着替え持ってきたよ。入るね」
 声を掛けてから引き戸を開ける。一緒に入ろうか、いや遠慮するという会話を背に、シロは自室へと足を向けた。濡れているミーコを抱えていたせいで、シロの右腕もしっとりと濡れているのだ。
 着流しを脱ぎ、洗濯したばかりの着物に袖を通しつつ、シロは口元を引き締めて考えた。
 あれが、当代巫女か。ずいぶん幼い。歴代巫女の中でも、おそらく一番幼いだろう。あの世間知らずさを考えれば、巫女に召し上げられたのはもっと幼い頃なのかもしれない。
 シロには関係のないことだ。目の前で雨に濡れて震えていた。それを見捨てておくのは気分が悪かった。だから拾ってきた。それだけだ。ミーコの為と言うより自分の為に。
 何があって家出をしてきたのか知った事ではないが、風呂から上がったら神界に連れて行くべきなのだろう。分かっている。しかし。
 シロは罪人だ。神界に近寄るのはまずい。
 舌打ちをした。やはり拾ってくるべきではなかったか。それともこれは、神のおぼしめしという奴なのだろうか。
 逃げられないのか。

 居間に戻ると、同居人が薬缶に湯を沸かしていた。鼻歌まで歌って、相当ご機嫌らしい。
「ミーコがあがったら葛湯でもいれてあげようと思って」
「嬉しそうだな」
「うん、嬉しいし楽しいよ」
「いいのか」
 そう問いかけると、同居人は振り向いた。それから、くすりと笑う。
「自分で拾って来たくせになに言ってんだか」
「まあ、そうなんだが」
「別に平気よー。当代巫女があんなにかわいらしいとは思わなかったけど」
「………まあ、確かに」
 会話が途切れたところで、ぺたぺたと廊下を歩いてくる足音がした。間もなく引き戸が開けられ、だぶだぶの着物を着て髪を濡らしたミーコが入ってくる。シロの姿を認めてぱっと笑った。
「いい湯であった。あたたまったぞ」
「それは何よりだが、お前なんだ、その格好は」
「うん? おかしいか? まあ、少々着物は大きいが…」
「着物もそうだが、髪だ、髪。雫が垂れてる。ちゃんと拭け。湯冷めしたら元も子もないだろうが」
「これでも拭いたのだぞ? だが、なかなか乾かないのだ」
 ちっと舌打ちして、シロはずかずかと音を立てて風呂場に向かった。大きめの手ぬぐいを籠から掴み、またずかずかと音を立てて戻ってくる。
「来い」
 ミーコをむんずと捕まえて小脇に抱え、縁側に向かう。雨は止んでいないが降り込んでくることもない。弱い風が吹いてくる程度だ。どかっと胡坐をかいた上にミーコを座らせると、少女は自身の肩越しにシロを振り仰いだ。
「シロ?」
「動くな。向こう向いてろ」
 ぶっきらぼうに言って、わしわしとミーコの髪を拭き始める。少女の黒い髪は、艶があって柔らかく、健康的だった。
「ったく、手のかかる…」
「自分でかかりに行ってるくせに」
 同居人の言葉には、うるせぇと返した。
 ふふふ、とされるがままになっている少女が笑う。
「あたたかいのぅ」
「風呂に入ったんだから当たり前だろ」
「シロの手じゃ。先ほどもそうであった。シロはあたたかいのだな」
「………どうだかな」
 所詮は罪人の手だ。ミーコがどう思おうと、シロの手は汚れている。
「この家は小さいだけあって、風呂もやはり小さいのだな」
「悪かったな」
「悪くないぞ。嬉しいのだ。広いだけの風呂など寒いからな。こんなにあたたまる風呂は初めてじゃ」
「広い風呂だったのか、お前の家は」
「まあな。とても広くて、風呂なのに寒かった」
「そうか」
 シロがうなずいたところで、同居人がやってきた。
「はい、葛湯出来たよ」
「おお、ありがとう。葛湯は好物じゃ」
「熱いから、気を付けてね」
「うむ。えーと、すまぬ、そなたの名は」
「クロだよ」
 同居人が答えると、ミーコはきょとんとしてクロを見上げた。
「クロ? そなたら、シロとクロか?」
「そう。シロとクロ。よろしく」
「そうか。わらわはミーコ。お心遣い痛み入る」
 そう言って、湯呑を受け取ったミーコはふふっと笑って見せた。やはり、どうにも浮世離れしている。言葉遣いもさることながら、寒さを感じるほどの広い風呂にしか入ったことが無いというのが気にかかるのだ。巫女になる前、少女はどこにいたのか。巫女の情報は、基本的に一般の人間には開示されない。出身地には箝口令が敷かれ、破れば厳しい罰則がある。どこから選ばれたのか知れれば、不平等を生むからだ。それでもやはり、普通の町娘として暮らしていた人間が神界になじむまでは、かなり時間がかかるだろうということは誰もが解っている。
 シロの足の上に座って、ミーコはこくりと葛湯を飲んでいる。この幼い少女は、神界よりも下界になじみがないように見える。
「シロ? どうかしたか?」
「いや、別に」
 考えても答えは出ない。そもそもシロの知った事ではない。今シロに出来るのは、少女の濡れた髪を乾かすことくらいだ。
 しばらく無言で髪を拭いていたら、眼前の頭がかくんと傾いた。
「ミーコ?」
 後ろから覗き込むと、ミーコは目を瞑っている。すぅすぅと、穏やかな寝息を立てて。持ったままの湯呑は空だ。
「あらま。寝ちゃった」
 ミーコはやがてゆっくりと身体ごと傾き、シロの足の上にぽてっと身体を預けた。
「…なんで俺がガキにひざまくらしなきゃなんねぇんだ」
「懐かれたねぇ」
「嬉しくねぇよ」
「またまたー」
「やかましい」
 ミーコの手から湯呑を取り、脇に置く。
「で、どうするの」
「なにが」
「わかってるくせに。その子よ。返すの?」
「こいつの自由だ。帰りたくなったら帰ればいい。帰りたくないならここにいればいい」
「ここに、ねぇ」
「…嫌か?」
「んー? 全然。でもまあ、なんていうか。逃げられないのかもね」
 それは、先ほどシロも思ったことだ。

bottom of page