夢を見ていた。
昏い、暗い夢だ。耳が痛くなるほどの静寂の中、独りでいる。両足でしっかり立っているはずなのに足元が覚束ない。歩いても歩いても、ただの闇。誰かの名前を呼ぼうとして、誰の名前も思いつかないことに気が付いた。
恐怖を感じた。このまま、ここに、ずっと独り。
誰か。
誰か。
誰が?
声がした。
―――かわいそうに。
―――あなたはまるで……ね。
目を開けたら、知らない天井が広がっていた。
ここはどこだろう。自分の寝所ではないことは確かだが、神殿でもないとは限らない。なにせミーコが歩ける範囲は決まっていて、神殿にも知らない場所はたくさんあるのだ。
ゆっくりと起き上がって視線を巡らせる。部屋は六畳。床の間と押し入れらしき襖がある。障子張りの引き戸から光が漏れていて、まだ夜ではないことが判る。
ここが神殿のどこかであるならば、自分は脱出に失敗したということだろう。しかし室内に見張りはいないし、縛られてもいない。ならば、まだ機会はあるかもしれない。
ミーコは立ち上がった。足音を殺して障子戸に近づき、そっと戸に手をかける。と同時に足音が聞こえてきて、びくりと肩を震わせた。
「ミーコ、入るぞ」
引き戸を開けたら、布団が空だった。
しかしシロは冷静だった。先ほどまで寝息を立てていた少女は確かに布団にはいなかったが、探すまでもなかったからだ。ため息をついて、押し入れの襖に近づいていく。慌てていたのだろう、襖はわずかに開いていて、白い着物の裾が見えた。あの少女が隠れるなら下の段だろう。シロはしゃがみこんで、面倒くさそうに口を開いた。
「一応聞くが、なにやってんだ?」
返答がない。シロは気が長い方ではないので、迷いもせずに襖を開けた。
「おい、隠れるのが趣味なのか、最近の巫女は」
ミーコは、両手で頭を抱えるようにしてうずくまっていた。シロの声に反応し、そっと頭から手をどける。
「………シロか?」
「ほかに誰に見える」
恐る恐るといった体で見上げてくる少女にそう答えると、少女は明らかにほっとした様子で息をついた。
「そうか、そうであったな。いや、すまぬ。連れ戻されたのかと思ったのだ」
「そんなに自分ちが嫌か?」
「嫌…ということではないのだが…ええと…」
口ごもるミーコに、シロは息をついた。
「まあいいや。俺には関係ねぇ。ほら、出て来い」
言って、手を差し伸べる。ミーコはそれを、きょとんと見ていた。
「? なんだよ」
シロが怪訝な顔になっても、ミーコは数拍の間ただ手を見つめ、やがて「あ」と声を出した。
「こう、か?」
それから、戸惑うように、やっとシロの手に自分の手を乗せてきた。
「こうだな? 合っているか?」
「合ってるけど…」
「すまぬ。今まで、わらわに手を差し出してくれる者などいなかったものでな。そうか、これで合っているか。ふふふ」
嬉しそうに笑うミーコの手は小さい。シロの手の半分ほどだ。その手を、シロは握るのを躊躇った。
「シロ?」
「あ、いや…」
シロの躊躇いなど知らず、ミーコはきゅっと手を握ってくる。
「シロの手は大きいな。わらわの手など赤子のようじゃ」
「…ま、お前は確かに大人よりは赤ん坊に近いかもな」
「案ずるな。産まれた時は皆赤子じゃ」
「嫌味も通じねぇのか、お前は」
「うん?」
「いや、なんでも。行くぞ。クロが昼飯作って待ってんだよ」
「昼餉か。楽しみじゃ」
にこりと笑ったミーコと手をつないで、シロは居間に向かった。
ミーコはよく食べた。聞けば、約二日間飲まず食わずでろくに眠ってもいなかったという。雨が降り始めたのは昨夜未明。約半日間、胃に何もいれていない状態で雨に打たれていたことになる。
「よく無事だったね。良かった」
クロが微笑み、ミーコも笑った。わらわは強いのじゃ。そう言って、笑っていた。
ミーコには、幼い背格好に似合わぬほどの礼儀が身についていた。箸の持ち方はもちろん、食べ方も、その後の片付けも、よく見てみれば歩き方一つでさえ、見事なまでにきれいだった。
「ねぇミーコ。どこかに行こうとしてたの?」
クロがそう切り出したのは、昼食後に緑茶を淹れて一服していたときだ。
一拍置いてから、ミーコは答えた。
「ある男を探しに行こうとしていたのだ。家の者に聞いても教えてもらえなかったので、自分で探しに来た」
「ある男って?」
「わらわの父親じゃ」
「え、お父さん?」
「うむ」
うなずいて、ミーコは緑茶をずずっとすすった。シロは黙って会話を聞いている。
「どういう理由なのかはわからぬが、わらわは父親と対面したことが無い。じゃが、母親が申しておった。父親は優しくて強い男であったと。一目会ってみたくてな」
「巫女になる前も、会ったことないの?」
「わらわは巫女ではない!」
「あ、そうだったね、ごめん」
クロが謝ると、ミーコは気を取り直すようにまたこくりと緑茶をすすった。
「いや、声を荒げてすまぬ。とにかく、わらわは父親を探しておるのじゃ。会うまでは帰らぬ。そもそも、帰ったところで…」
「うん?」
「いや、なんでもない。母親から聞いたところによると、この辺りにいるはずなのじゃ。そなたら、知らぬか?」
「男のヒトってだけじゃねぇ…。手がかりは?」
「優しくて強い。母親と出会った時、三十代半ば」
「ほかには?」
「人間の男」
「…ほかには?」
「ほかに?」
「髪型とか、顔の特徴とか。そもそも、名前は?」
「名前は知らぬ。しかし顔は判るぞ。精悍な顔つきをした男じゃ。以前、母親が似顔絵を描いて見せてくれた」
「それ、今ある?」
「無いな。家の者に取り上げられてしまった」
あっさりと言ったミーコに、クロはややあってから「でも」と返す。
「その似顔絵、覚えてるんでしょ? 紙と筆持ってくるから、描いてみて」
そうしてクロが紙と筆を持ってきて、ミーコは筆を執った。真剣な表情で筆を走らせ、しばらくして似顔絵が出来上がる。シロとクロが覗き込んだ。
この世に二つとないであろう絵が、そこにあった。
「………虫?」
「猫でしょ?」
「ヒトじゃ!」
「だってこれどう見ても触覚だろ」
「違うよ、耳でしょ」
「腕じゃ! わらわと会えたことに両手を上げて喜んでいるところじゃ!」
「頭のてっぺんから腕は生えねぇよ」
「わかった、これはひげでしょ? お父さん、ひげを生やしてるの?」
「これは目じゃ。わらわに会えてうれしくて、目じりを下げておる」
「どんなに下げても目は顔から出ねぇよ。新種の妖怪か」
「中央にあるのはほくろ?」
「口じゃ」
「ちっちぇえな」
「ええい、文句ばかり言うな! 少々大げさに描いた方が似顔絵としてわかりやすかろう!」
「まずこれが似顔絵だってことがわからねぇよ」
シロが切り捨てるように言うと、ミーコはぷうと頬を膨らませた。
「で、そなたらに心当たりは」
「妖怪に心当たりなんかあるか」
「この絵じゃちょっとわからないなぁ」
「む…。では、優しくて強い男ではどうじゃ?」
「あのな、本当に優しくて強い男かどうかなんて、深く付き合わないとわかるもんじゃねぇだろ。っつーか、探しに出るなら名前くらい聞いて来いよ」
「母親は亡くなっておる。聞こうにも聞けぬ。そして先にも言ったが家の者は教えてくれなんだ」
「お母さん、亡くなってるの?」
「うむ。身体を弱らせてな。父親にその事を知らせたい、会いたいと言ったら閉じ込められたので、抜け出してきたのだ」
「閉じ込められた…?」
クロは眉をひそめたが、ミーコは表情を曇らせたりしない。
「もともと家の敷地から外に出たことは無かったのだが、行動範囲をもっと狭くされてな。さすがにちょっと窮屈であった」
「そう…。大変だったね」
「大変だったのは抜け出してからじゃ。寒いのもひもじいのも初体験であった。しかしわらわはついておる。わずか二日でシロが拾ってくれたからな」
言って、にっこりと笑う。シロは他人事のように「そりゃ良かったな」と呟いた。
「わらわのことより、父親のことじゃ。やはり、名前が判らないと探すのは難しいか?」
「うーん。手がかりが無いんじゃ、ちょっと難しいかも」
「というよりほとんど不可能だろ。巫女なら出来そうだけどな。神のご神託ってヤツがあれば」
「それこそ不可能じゃ。神にも巫女にも会うことは出来ぬ」
「だろうな」
国民は、誰であっても神に拝謁することは出来ない。巫女という仲介役がいなければ、言葉をもらうことさえ出来ないのだ。
そして巫女は、今ここにいる。
一度神界に召し上げられたものは、巫女であれ神官であれ神の許可なく人里に下りることは出来ない。抜け出すことそのものが大罪だ。捕まれば死罪もあり得る。この幼い巫女は、そのことを解っているのだろうか。
巫女はすでに指名手配されている。手配書には写真こそ載っていないものの、身体的特徴が書いてある。逃げ出した巫女を大罪人として神界が総力を挙げて探し出す、有益な情報を神関にもたらした者には報奨金を出す、とも。
シロとクロが住むこの辺には住民は少ないとはいえ、見慣れない子どもが歩いていたら目立つだろう。ヒトが少ないなら、なおのこと。
「まあ、神さまが個人的な人探しに協力してくれるとも思えないしねぇ」
クロの言葉にうなずいてから、ミーコはしかし、と続けた。
「問題はないぞ。母親が以前に出歩いた場所は限られておる。そのうち、まだ人里があるのはこの辺だけじゃ」
「なら、この辺の住人を虱潰しに当たれば会えるかも…?」
「そういうことじゃ。というわけで、世話になったな。わらわはもう行く」
「え、今から? でもまだ雨が」
「じきに止むであろう。一刻も早く父親に会いたいのだ」
そう言って立ち上がったミーコを、シロは頭から押さえつけて無理矢理座らせた。
「何をする!」
「この辺の地理に明るくない奴が、がむしゃらに出歩いても無駄だろうが」
「確かに来たことはないが、案ずるでない。この星の地図はすべて頭に入っておる」
「お前、指名手配されてる自覚あんのか」
「手配されているのは巫女であってわらわではない」
頬を膨らませた少女に、シロは舌打ちをした。
「じゃあ言い方を変えてやるよ。指名手配されている巫女は、お前と年恰好がよく似ている。村人が間違えて関所に連絡したらどうすんだ。神官も全員が巫女の顔を知ってるわけじゃねぇ。後から巫女じゃないって判明しても、お前が家出している未成年だってことに変わりはねぇんだ。間違いなく連れ戻されて、今度こそ一生軟禁されるぞ」
「む…。ではわらわは、どうすれば良いのじゃ」
ここに来て、ミーコの表情が初めて曇った。そんなミーコに、シロは大きなため息をつく。
「俺は、面倒くせぇことは嫌いだ」
「ちょっと、シロ」
「だから、手伝ってやるよ。親父探しを」
その言葉に、ミーコは顔を上げた。その顔には驚きが広がっている。
「罪人をかくまっても迷子を放置しても、どっちにしろ関所には説教されるからな。ならもう、俺の親戚ってことにしておくのが一番面倒が少ないだろ」
「シロ…。良いのか?」
「良いも何も、それ以外に面倒がなくて済む方法があったら教えてくれ」
ぶっきらぼうに言い捨てたシロを、ミーコは少しの間見つめていた。そして、心底嬉しそうに笑う。
「ありがとう。やはりシロは良い奴じゃ。わらわはうれしい」
「やめろ。俺の為だ」
「じゃがわらわの為でもあろう?」
「どこから出てくるんだ、その自信は」
「ふふふ」
もう一度舌打ちして、シロはごろりと横になった。
「む、何をしている。一緒に行ってくれるのではないのか」
「明日からだ。こんな雨の中、具合悪いガキ連れて出歩けるか」
「わらわは具合など悪くないぞ」
「鏡見て来い、幽霊みたいな白い顔してるガキが映ってるから」
シロがそう言うと、ミーコは自分の両手で頬をぺたぺたと触った。そうしたところで、自分の顔が見えるわけはないのだが。
「そうだね。今日は止めておこうよ。二日間も外にいたんでしょ。疲れてるんだよ」
「そう…か?」
「そうそう。本当に顔色悪いし。元気よくお父さんに会いたいでしょ?」
「それは、確かに」
「ね。ご飯も食べたし、もう少し寝ていたら? あの部屋は今使っていないから、ミーコの好きに使っていいよ」
クロの言葉に、ミーコは一瞬身体を強張らせた。視界の端で、シロはそれを捕えていた。だが何も言わないことにした。
「どうかした?」
「いや…。なんでもない。もう眠くはないから、大丈夫じゃ」
「そう?」
「うむ。えーと、ところで、シロとクロは夫婦なのか?」
あまりにも急激な話題転換だったが、クロは笑って違うよと首を振った。
「兄妹だよ。双子の。シロの方が兄貴」
「ほう、兄妹。あまり似ていないな」
「男女だし、二卵性だからね。ミーコは、兄妹は?」
「おらぬ。わらわにいたのは母だけじゃ」
「そっか。じゃあ、お母さんが亡くなってさみしいね」
「うむ。さみしい。だからもう、わらわには父親しかおらぬのだ」
しゅん、とうなだれたミーコの頭をクロが撫でた。
「よしよし。見つかるといいね。大丈夫だよ、あたしたちも協力するからね」
「クロとシロは、他に家族はおらんのか?」
「いないよ。二人だけ」
「ずっとここに、二人でいるのか?」
「うん。もうずっと。………たぶん、これからもずっと」
「クロ」
黙っていたシロが、そこで寝転がったまま口を開いた。
「仕事、途中だろ」
「あ、そうだね。続きしようかな」
「仕事? 何をしておるのだ?」
先ほどのミーコと同じくらい急激な話題転換だったが、ミーコは気にしなかったようだ。
「今日はお裁縫。この辺の村のヒトたちのお裁縫をほとんど請け負ってるの。あと、薬草を煎じたり藁を編んだり。それで物々交換で生活してるのよ。今日は雨が降っているから、出来るのはお裁縫だけね」
「裁縫か。わらわも見ていてもいいか?」
「もちろん。仕事場はあっちだから、一緒においで」
手をつないで、ミーコとクロは居間から出て行った。出会ってまだ数時間なのに、歳の離れた姉妹のようだ。その様子を見るともなしに見送ってから、シロは寝返りを打った。
なんでわざわざ面倒事を背負いこんでんだ、俺は。
会ったこともない、縁もゆかりもない他人の親子。再会させることでシロになんの利益があるというのか。
それを考えることすら面倒くさくて、目を瞑った。