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 翌日は晴天だった。昨日の雨が空を洗っていったかのように、雲一つない青空だ。
 朝餉を食べ終わった後、シロとミーコは揃って家を出た。
「クロは一緒に行かぬのか」
「仕事があるからな。村の案内なら俺一人で充分だろ」
「そうか。それで、どこから行くのだ?」
「お前の親ってことは、まだそんなに爺さんってわけじゃないだろうからな。年齢が合いそうな奴のところを近いところから回っていく。少し歩くことになるぞ」
「平気じゃ。この草鞋、とても履き心地が良いからな」
 クロお手製の草鞋だ。昨日の夕餉の後で、急ごしらえで作った。昔から、本当にクロは器用なのだ。
 ちなみに昨夜、ミーコはクロと一緒に寝た。ミーコがあてがった部屋を嫌がったのだ。あの部屋が嫌だというよりは、独りが嫌だと言っているように見えた。ミーコは言わなかったしシロは指摘しなかったが。
「しかし、遠いところから回っていった方が効率的なのではないか?」
「遠くまで行って、意外に近くで見つかったらどうすんだよ。遠くまで行った自分を殴りたくなるだろ」
「ふぅむ。まぁ良いか。では行こう」
「ああ」
 シロは歩き出した。その隣を、ミーコがてててと付いてくる。シロが一歩歩くごとに二歩、三歩。小さく舌打ちして、シロは歩調を緩めた。ミーコには気付かれないように。
「お前、本当に父親の手がかりはなんもないのか?」
「優しくて強い」
「それはもういい」
「昨日描いた似顔絵」
「あれは新種の妖怪だ」
「ほかにか…。ううむ。手先の器用な男であったらしいが…」
「具体的には」
「母親の草履を直したとか、籠を編んでいたとか、自分の家を自分で作ったとか聞いておる。釣りも上手らしい」
「この辺の奴らは、それくらいのことは皆出来るな」
「手掛かりにはならんか?」
「ならない」
「そうか…」
 声を小さくしたミーコを、シロは見下ろす。ため息をついた。
「お前、いくつだ?」
「? もうすぐ七つじゃ」
「ならお前の母親と出会ったのは少なくとも八年以上前だな。その時点でこの辺に住んでいて、今四十代半ばで優しくて強くて手先が器用な男か…」
「よし、だいぶ手がかりが増えたな」
「なにがよしだ。輪郭すら見えねぇよ」
 ミーコが頬を膨らませる。
「でもま、母親が見せてくれた似顔絵は覚えてるんだろ? なら、見ればわかるな」
 歩きながら、ミーコはシロを見上げた。
「お前が一番の手がかりってことだ。行くぞ。前を見て歩け」
 そう言って、シロはミーコに手を差し出す。
「たらたら歩かれると迷惑だからな。さっさと来い」
 昨日とは違い、ミーコは飛びつくようにしてその手を取った。
「うむ!」
 嬉しそうに笑って、駆け出すように歩き出した。

 身体の小さいミーコに合わせて休みを取りながら、二人は歩いた。父親が釣りをしている可能性も考慮して、なるべく川沿いを選んで。
「なかなか村人に会わぬな」
「言っただろ。この辺は住民が少ないって。昼ごろには人里に出る」
「そなたらはずいぶん不便なところに住んでいるのだな。困らぬのか?」
「別に。必要なものはバスが通る日にまとめて買うし、簡単な薬ならシロが作るし。そんなに困ってねぇよ。ヒトがたくさんいて、付き合いがあるほうが面倒だ」
「ふむ。なるほど…おっ!?」
 うなずいたミーコを、シロが無言で乱暴に抱き上げて飛んだ。川から顔を出している石を足場にして横切り、向かい側の林に入る。素早く木の陰に身を寄せた。
「おい、なんじゃ?」
「黙ってろ。ヒトが来る」
 言いながら、シロがミーコの口を手で覆う。息も出来なくなったミーコが、ぺちぺちとその手を叩いたので、少し隙間を作った。
「………神官だ」
 低く小さくそう言ったら、ミーコが身体を強張らせた。
 しばらくして、三人の男が川沿いの道を歩いて来た。シロとミーコがあのままでいたら間違いなく擦れ違っていた。
 男たちは神官の衣を身にまとい、剣や弓を携えて、辺りを見回しながら歩いている。二人は息を潜める。ミーコの心臓の音が、シロにまで聞こえてきそうだった。
 やがて、神官たちは何かを言い合いながら川沿いから離れていった。完全に姿が見えなくなってから、シロがミーコを開放する。
「…わらわを、探しているのであろうか…」
「お前、神官に探されるような心当たりでもあるのか」
「あ、いや、それは…ない! ないぞ。わらわは巫女ではないからな」
「そうかよ。なら隠れる必要はなかったな」
「いやいや、そうでもないぞ!? わらわは巫女ではないが、昨日そなたが言っておったように、巫女と勘違いされても困るからな!」
「ま、そういうことにしといてやるよ」
 どちらにしても、迷子は関所に即通報が鉄則だ。シロも、面倒事は避けたい。
「行くか。もう気配もないし、大丈夫だろ」
「シロは、ヒトの気配がわかるのか?」
「あー…。まあ、な」
 歯切れ悪く答えて、シロは再びミーコを小脇に抱えた。そう狭くはない川を、先ほどと同じようにちょこちょこと頭を出している岩を足場にしながら渡っていく。
「シロは運動神経も良いのだなぁ」
「そりゃどうも」
 元いた場所に戻ってきて、ミーコを降ろす。着物の裾が捲れているのに気がついて直してやると、ミーコはふふふと笑った。
「なんだよ?」
「ふふふ。うれしいのだ」
「なにが」
「なんであろう。とにかく、うれしいのだ。なんだか、父親との対面も遠くない気がしてきたぞ」
 両手を口元に当てて、ミーコは笑う。まあ、泣かれるよりもだいぶいいかと思い、シロは追及しなかった。

 しばらく歩くと、前方に煙が見えてきた。
「ほら、あの辺が村だ」
「あの煙はなんじゃ?」
「湯煙だよ。あの辺には温泉が湧いているからな」
「おお、温泉か。聞いたことはあるが…」
「入ったことはないんだな」
「ない。ものすごく気持ちがいいものだと聞いておる」
 目を輝かせるミーコに、シロはやれやれとため息をついた。
「言っておくが、今日は入れねぇぞ。父親を探すんだろ」
「わかっておる。しかしまあ、覗くくらいなら…」
「風呂を覗いたら犯罪だ。お前ならともかく俺は捕まる」
「む、そうか。残念じゃ。ならば仕方あるまい」
 あっさりミーコが引いたので、シロは少々意外だった。
 意外ではあったが特に理由を追及する気も起きなかったので、そのまま歩みを進めた。と、そこでぐぅぎゅるるると音がした。
「…腹が減ったのか」
「いかにも。今のはわらわの腹の音じゃ。………実は、喉も乾いた」
「早く言え。先に飯食うぞ」
 呆れたシロがそう言って、川べりに腰を落とす。その後ろで、ミーコは小さな声で言った。
「言ってはならんと、思ったのじゃ」
「あ? なんで」
「今のわらわは、着物も草鞋も食べ物も、すべてシロとクロに恵んでもらっておる。父親探しも手伝ってもらっておる。ならば、わらわはせめて、欲しいなどとは言わぬほうが良いかと思ったのじゃ」
 そんなことをぼそぼそと話すミーコに、そういえば、とシロは思う。
 昨日バス停で拾った時も、家に連れて帰ってからも、ミーコは自分から何かを欲したことはない。与えられるまま風呂に入り、着物を身につけ、食事を摂り、今に至る。ミーコが希望を言ったのは、晴れたらまた抱きかかえてほしいということ、クロの仕事が見たいということくらいだ。食事や着物、風呂の湯とは違い、それらの希望を叶えることでシロやクロから減るものはない。初めての肉まんでさえ、見たいとは言ったが食べたいとは言わなかった。もちろん分けて食べたが。
 相手のものを減らさずに済むことだけを、希望してきたのだ。この幼い少女は。
 シロは、大きなため息をついた。
「ガキがいらん心配してんじゃねぇよ」
「しかし」
「来い。座れ」
 言って、ぽんぽんと自分の隣を手で叩く。
「飲むのも食べるのも我慢させて歩かせたなんて、俺の聞こえが悪いだろ。お前の為じゃなくて俺の為だ。だから、お前はなんも気にすんな」
 ちょこんと座ったミーコの額を、指で軽く弾く。
「俺が俺の為に動いてるんだから、お前もお前の為に欲しいものくらい言え。俺に利益がある時には聞いてやる」
「そう…か…」
 つぶやくように言ったミーコは、やがて口元をほころばせた。
「そうか」
「ああ、そうだよ」
 二人で並んで、クロが作った弁当を食べた。
 空は、抜けるように青かった。

 村には、当然ながらヒトがいた。
「おお…。ヒトがおる…」
「ま、人里だからな」
「シロ、シロ、あれはなにをしておるのじゃ?」
「温泉の地熱を使って、肉や野菜を蒸してんだよ。火を焚かなくていいから、かなり経済的だ」
「では、あれは?」
「すり鉢だな。中身は見えねぇが、なんか挽いてるんだろ」
 幼い少女には初めて見るものばかりなのだろう。目を輝かせて村の様子を見つめている。
「お前、目的忘れてないだろうな」
「忘れるものか。よし、とりあえず聞き込みじゃ」
 両手で拳を握り、そのまま駆け出そうとするミーコを、シロは襟首を掴んで止めた。
「なにをするのじゃ」
「お前こそなにする気だ。聞き込みって、なにをどう聞くつもりだ?」
「決まっておる。その辺の者を捕まえて、「真に優しくて強い男を知らぬか」と」
「そんな聞きかたでわかるか。大体、お前は追われている身だろうが。のこのこ出て行ってどうする」
「むむ、ではどうすれば良いのじゃ」
「あそこ、温泉の湯煙が出ているすぐ隣に民家があるだろ。あそこに、この村の長老がいる。村のことならほとんどすべてを知っているはずだ。あてずっぽうにヒトに聞くより、長老一人に聞く方が断然早い。つまり面倒も少ない」
「なるほど。では行こう」
「待て。あまりヒトに見られたくない。裏から回る」
 言って、シロは迂回路を歩き出す。ミーコもてててと後をついていく。迂回路とはどう行くのかと、ミーコは聞かなかった。この星の地図は頭に入っているという言葉は、嘘でも大げさでもないらしい。
 ヒトが歩かないけもの道を抜けて、長老宅の裏に出る。壁の陰に身を潜め、周囲を窺ってから、シロはようやく正面玄関に回った。
 二回扉を叩いてから、返事がある前にシロは引き戸を開けた。民家の古びた匂いが漂ってくる。
「邪魔するぞ」
 相変わらず返事が無いのに、シロは草履を脱いで勝手に上がっていく。ミーコが草鞋を脱ぐのに苦労していると、先に行っていたシロが戻ってきてぶっきらぼうに紐を外した。
「たらたらすんな」
「すまぬ。草鞋は履くのも脱ぐのも慣れておらぬのだ」
 言いながら、二人で廊下を進んでいく。
「この家の間取りを、知っておるのか?」
「まあな」
 廊下を折れて、家の最奥の部屋の前にたどり着く。そこで、シロはまた二回扉を叩いた。
「入るぞ」
 そしてまた、返事を待たずに扉を開ける。中は、八畳ほどの広さだ。すのこを組み合わせたような質素な寝台に敷かれた布団の上で、小さな老女が上半身を起こして書物を読んでいた。ややあってから、書物から顔を上げる。皺だらけだが優しい顔つきをした老女だ。
「…これはこれは。シロさん、お久しぶりです」
「ああ、しばらくだな」
 穏やかに言った老女に、シロは愛想もなく答える。老女は気にした様子も無く、シロの後ろからひょこっと顔を出したミーコに視線を移した。
「そちらのお嬢ちゃんは」
「親戚の子だ。訳あって預かっている」
「お初にお目にかかる。ミーコと申す」
「はい、初めまして。………おやまあ、お嬢ちゃん、どこかで会ったかねぇ」
「いや? 初めてだと申したとおりだが」
「そうかい。まあ、長く生きていれば、似たヒトにも会うさねぇ」
 老女が目を細めて笑うと、皺の多い顔がもっと皺くちゃになる。しかし、穏やかな雰囲気はミーコを安心させた。
「男を探しているのだ。優しくて強くて手先が器用な男を知らぬか?」
「その男は、少なくとも八年前はこの辺りにいたはずだ。その頃、女と暮らしていた可能性がある。歳のころは四十代半ば」
「そうさねぇ…。ここ十年以上は、この土地から引っ越していったヒトも入ってきたヒトもいないけどねぇ」
「その男はこいつの父親だ。心当たりはないか?」
 シロの問いかけに、老女はしばし黙った。考えるような沈黙の後、ゆっくり口を開く。
「そちらさまの言うような年頃の男は、この辺にはいないねぇ。誰もかれもが年寄りだよ。十年以上前からね。お嬢ちゃん、お母ちゃんはなんて言っているんだね?」
「もう亡くなった。だから何も聞けぬ」
「そうかい。では残念ながら、この辺にはおらんだろうね。独身の男はお嬢ちゃんと同じくらいの子しかおらんし、母親がおらん子もない。もし道ならぬ相手だったとしても、狭い村だからねぇ。余所の女が入ってきたらわしの耳に入らんはずがないからねぇ」
「そうか…」
「年寄りたちの中にいるという可能性は…」
 食い下がるミーコに、老女はかかかと笑った。
「四十代半ばは年寄りとは言わんねぇ。その歳が間違っていたとしても、お嬢ちゃんの父親になるには、年を食いすぎてるさね。なんなら村中の男衆の顔を見ておいで」
 そうまで言うということは、この老女には、本当に心当たりはないのだろう。シロは顔をしかめたが、ミーコはそうかとうなずいた。
「ありがとう。邪魔をしてすまなかった」
「見つかるといいねぇ、お嬢ちゃん」
「ああ。祈っていてくれ。そなたの病も、治るよう祈っておくから」
「おやおや。ありがとうねぇ」
「邪魔したな」
 シロが言って、襖を開ける。ミーコを先に廊下に出して、自分は一瞬だけ老女を振り返った。
 何も言わなかった。

 ミーコはやはり、草鞋を履くのにも苦労していた。自分の草履をさっさと履いて、シロは結んでやろうと身をかがめた。が、それに待ったを掛けたのはミーコだった。
「結び方は、今朝クロから教わったのじゃ。慣れぬ故もたもたしてすまぬが、自分でやらせてくれ」
 言いながらも、一生懸命紐を操っていてシロの方を見ない。やる気があるならと、シロはうなずくだけにとどめた。
 何度もやり直して、シロがいい加減口を挟もうとした時、ようやくミーコは紐を結び終えた。
「出来た!」
 嬉しそうに、本当に嬉しそうに声を上げる。それで、文句を言おうと開きかけていたシロの口からは、結局「良かったな」という言葉しか出なかった。
「ふふふ。出来ることが増えたぞ。今度は脱ぎ方だな。次は自分で脱ぐから教えてくれ」
「ああ、じゃあ次の機会にな。行くぞ」
 来た時と同じように周囲の気配を窺って、音を立てないように外に出る。日差しがまぶしくて、ミーコは目を細めた。
「次はどこじゃ?」
 てててと歩き出そうとするミーコを、シロが肩を掴んで止める。
「待て。その前に、一応村の男たちの顔を確認していけ」
「何故じゃ? 先ほどのお婆がおらんと言っていたではないか」
 きょとんとして首を傾げるミーコ。その表情を見て、シロの方も虚を突かれた。
「お前、全部信じたのか?」
「どういう意味じゃ?」
 心底不思議そうな顔をするミーコに、シロは言葉が出なかった。
「シロ?」
「ああ、いや…」
 そういえばこの少女は、飢えと寒さで参っていたとはいえ初対面のシロの手をなんの躊躇いもなく取った。出されたものを、全部平らげた。
 疑う、ということを知らないらしい。
「なんでもない。お前が信じるならそれでいいが、あの婆さんもけっこうな歳だ。一応、お前が自分の目でも確認したほうがいいかと思ってな」
「おお、なるほど。それはそうだな」
 今もまた、シロの言葉をただ受け入れている。誰かが自分をたばかろうとするなど、夢にも思わないのだろう。
 幸せなことだ。
「では、村中の男たちの顔を見てこよう」
「待て。こっそり婆さんに会いに行った意味がなくなるだろうが」
 駆けだそうとするミーコを止めて、来た時と同じように家の裏に回る。
「む、ではどうすればいいのだ」
「お前、視力は」
「かなりいいぞ。ここからならあそこにあるバス停の表示まで見える」
「大したもんだ。なら行くぞ」
「どこへ?」
「そこの山に登る。頂上まで行かなくても、途中の開けた場所でこの村全体くらいは見渡せるからな。そこから確認しろ」
 そう言って、シロはさっさと歩き出した。後ろについてきながら、ミーコが問う。
「では、最初からそうした方が早かったのではないか?」
「村人全員が外に出てるわけじゃねぇんだよ。婆さんに心当たりがあるなら、そっちから当たった方が早い」
「おお、シロは頭が良いな」
「どうすれば面倒くさくないか、俺にとって重要なのはそれだけだ」
「そうか」
 うなずいて、ミーコはふふふと笑った。
「なにがおかしい」
「うれしいのだ。面倒くさがり屋のシロが、わらわの為に時間を割いてくれておる」
「まったく…。どういうことだろうな、本当に」
 つぶやくように答えて、シロは歩みを進めた。

「見えるか」
「うむ。顔の判別くらいは出来るぞ」
「いそうか?」
「うーむ…」
 目を細めて、ミーコは首を伸ばして村を見下ろしている。シロに抱えられた状態で。
 山を半分ほど登ったところだ。村を見下ろせる開けた場所があって、二人はそこにいる。ただ、そこにはミーコの背丈ほどの草が伸びていたので、やむを得ずシロはミーコを抱えたのだ。
「いや…。見える範囲にはおらぬようだ。どれも顔が違う。父親はもっと若かった」
「そうか」
 答えて、シロはミーコを降ろした。
「じゃあ次だな」
 来た道を戻るのではなく、さらに山を登っていくシロに、ミーコはうむとだけ答えてついてくる。なにも疑問に思わないのかと考えたシロだったが、この少女の頭の中にはこの星の地図が入っているのだということを思い出した。次の村に行くには、来た道を戻るよりもこの山を突っ切った方が早いのだ。
「地図か…」
「なにか言ったか?」
「いや、なにも」
 この星すべての地図など、一般庶民には手に入れることが出来ない。各地域に設けられている関所ですら、近隣の村の地図くらいしか持っていないはずだ。小さな星とはいえ、すべてといえば膨大な量となる。その量を抱えているのは、神関しかない。
 この少女は、家から出たことはないと言っていた。つまり、産まれた時から神関にいるということだ。ならば、そこで産まれ育ったと言ってもいいだろう。
 巫女は人間の中から選ばれる。人間の目線に立ち、神の意向を伝える為に。人間の目線に立つということは、ある程度人間社会で生活しないと出来ないことだ。こんな年端もいかない少女を、何故神は巫女に選んだのか。また、先代巫女はどうしているのか。
 巫女の代替わりは人間にとっても一大事だ。ラジオや新聞で大々的に報道され、各地で祭りが開かれる。無駄と解っていても巫女に顔や名前を覚えてもらおうと、人々は神界に集まってくる。この星をとりまく空気すらも変わっていると言ってもいい。
 そういった情報に興味のないシロでも、代替わりがあればさすがに気づくほどだ。特に、仕事中にラジオを流しているクロが知らずにいるはずがないので、自然とシロの耳にも入ってくる。
 ただし前述のとおり、巫女の情報は開示されない。人間たちは、どこの誰とも知らぬ巫女の即位に色めき立ち、騒ぐのだ。知らないからこそ、騒げるのかもしれない。
 前回の代替わりが具体的に何年前だったか、シロは覚えていない。だが少なくともここ二、三年の間ではない。歳を聞かれたミーコは、もうすぐ七つだと言った。ということは、どう少なく見積もっても三歳の時には巫女の宣託を受けたということになる。
 有り得るのか。
 巫女の交代は、先代巫女が当代巫女に伝えに行く。先代巫女は、たった三つほどの幼女に宣託をしにいったのだろうか。疑問には、思わなかったのだろうか。
「シロ? どうしたのだ、ぼーっとして」
「………なあ、巫女」
「はっ!? な、なんだいきなり! わらわは巫女ではないぞ!」
「間違えた。ミーコ。お前、先代巫女のこと、なにか知っているか?」
「先代…? い、いや、わらわはなにも…」
 口ごもるミーコを見下ろしながら、シロは考えを巡らせる。
 職務を全うした巫女は、もう神の声を聞くことは出来ない。かといって人間界に戻ることも出来ない。すでに居場所は無く、そうでなくとも長らく人間界から離れていれば、戻ったところで本人も周囲も戸惑うだけだ。神関のことを簡単に一般庶民に話されても困る。したがって巫女を引退した女たちは、相応の役職を与えられて神界に留まるのだ。
「会ったこともないのか」
「…巫女に、会ったことは、ない」
 普通の人間ならそうだろう。だが、巫女といえども引継ぎはあるはずだ。
 さらに口を開こうとして、シロははたと止まった。
 なにをしようとしてんだ、俺は。
 面倒くさいことは嫌いだ。関わりたくない。なるべく他人と関わらず、クロと二人、静かに平和に生きていければそれでいい。
 昨日は、ずぶ濡れの小動物のようなミーコを放っておけずについ拾ってきてしまった。成り行きで父親探しも手伝うことにした。おかげでなにも予定が無かったはずの今日、延々と歩く羽目になっている。
 すでに面倒くさいことにはなっているのだ。ならば、これ以上踏み込むのはどう考えてもシロの信条とは相いれない。
 それもこれも、ミーコはやたら小さいから悪い。もっと大人で、放っておいても大丈夫そうな相手なら、さっさと肉まんをクロに届けることが出来たのに。いや、せめて昨日、雨が降っていなければ。
 天候に文句は言えない。ちっと舌打ちして、シロはミーコの額を指ではじいた。
「うおっ! なにをする!」
「そこに額があるのが悪い」
 理不尽この上ない台詞を吐いたシロに、両手で額を隠したミーコは口を尖らせていたが、やがてぱっと笑った。
「なに笑ってんだ」
「ここに額があると悪いということは、また抱えて歩きたいということであろう? さすれば、額はそなたの横に来る」
「全然違う」
「む、違うのか? ならば何故ここに額があると悪いのじゃ?」
 そんなにまっすぐ質問されては、シロも困る。
「…なんでもねぇよ。もういいから歩け。陽が暮れるまでに帰れなくなる」
 この面倒事から一刻も早く解放されるには、一刻も早く父親を見つけて引き渡し、この少女と別れるしかない。その後のことなど知らない。本人と父親が決めればいいことだ。
 ざくざくとシロが歩いていく音と、てててとミーコが駆ける音。あまりにも健気についてくるので、シロはもう一度舌打ちして歩調を緩めた。

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