その日、十一月も末に近づいたころ。俺は珍しく居眠りもせず真面目に授業を聞いていた。理由は簡単。試験が近かったからだ。まあ、試験前に急に真面目になったところで、授業の内容が解るわけではないのだが。
あくびをこらえながら四時限目を終え、友人たちと食堂へ向かう。鮭握りを頬張ったところで、校内放送が流れた。
俺を呼んでいる、らしい。この高校で、二年四組で中村恭介といえば俺しかいないので、たぶん間違いない。
「なにお前、なんかしたの?」
向かいに座って弁当をつついていた友人、草野武人が言う。心当たりは無かったので、俺は素直に首を傾けた。
「なんもしてない…。と思う。最近は」
最近はとつけなければならないことが我ながらどうかと思うが。
「まあ、とりあえず行ってきなよ。慰問には行かないけど」
「行かないのかよ」
別の友人がそう返す。俺は握り飯を咥えたまま、友人たちに軽く手を振って席を立った。
のんびりと廊下を歩きながら考える。何か呼び出されるようなことをやらかしただろうか。いや、最近は本当にサボっていないし問題を起こした覚えもない。じゃあなんだ。そもそも、俺を呼んでいるのは誰だ? 今日、担任は出張で不在だから、副担任だろうか。
まあいい。行けばわかる。握り飯を飲み込んでから、職員室のドアをノックした。
扉を開けると、一番に目に飛び込んできたのは、近所に住む叔母の泣き顔だった。俺を見るや否や、さらにぼろぼろと涙を流す。
なんだ、これ。
何か―――嫌だ。
何が嫌かもわからないで、ただ嫌だと思った。どうしたんですかと聞くこともできず、ただ叔母を見つめる。
「恭ちゃん…」
かろうじて俺を呼んでいると判る声で、叔母は言った。それ以上は言わないで欲しかった。なのに、叔母は続けた。
「浩介さんが、亡くなったの…」
なんだ、それ。
嫌だと、言ったのに。
車に撥ねられて。車は逃げて。救急車は間に合わなくて。
叔母はまだ何かを言っていたが、俺が返事をすることはなかった。
連れて行かれた病院で、俺は親父と対面した。見ない方がいいと言われた親父の顔を見た。そこに親父と判別できる影はもうなくて、隣で嗚咽を漏らす親戚たちとは正反対に、俺はおそらく無表情で親父を見ていた。
「父さん」
呟いた言葉が、音になったかどうかはわからない。
それから数日間は叔母の家に身を寄せ、ただ呆然としていた。親父が死んだという実感もないままに警察から聴取をされ、葬儀を終えた。
葬儀には、親父を偲んでたくさんのヒトが訪れた。親戚たちをはじめ親父の会社関係、友人関係はもちろんのこと、俺の高校の教師も友人も来た。俺は来てくれたヒト達に機械的に頭を下げ、機械的に礼を言った。
実感などどこにも無かった。
本当に親父がいなくなったのだと思い知らされたのは、着替えを取りにマンションに帰った時だ。
あの日、朝食に使った茶碗が流しに置いてある。パジャマが座椅子にかけられたままになっている。電気シェーバーがテーブルの上で充電されている。
ああ、いないのだと。もう、使われることはないのだと。
涙は出なかった。
俺に母親はいない。元々身体が弱かった彼女は、俺を産んで間もなく亡くなったと聞いている。親父は再婚せず、一人で俺を育ててくれた。
亡くなった母親の妹である叔母が、俺にこのまま一緒に住まないかと提案してきたのはその日の夜だった。少し考えて、俺は断った。
叔母は優しい。母親がいない俺を、実の息子のようにかわいがってくれている。その家族も優しい。叔父は葬儀の喪主から学校の忌引きの手続きから、俺が呆然としている間にあらゆる手続きをしてくれた。彼らの子どもである幼い従弟妹たちとも仲は良い。けれどもやっぱり、俺の家族は親父だけだ。そこにある別の「家族」に入れる気はしなかった。
親父と二人で住んでいたマンションは、俺一人には広すぎるし辛すぎる。通学の便や心配してくれる叔母たちへも配慮して、俺は同じ市内のアパートへの引っ越しを決めた。
新しい家は、木造二階建てアパートの二階角部屋だ。1LDKの小さな部屋だが、俺一人にはちょうどいい。無駄に広いよりは、狭いほうが心地いい。
アパートの大家は年配の女性で、高校生の俺が一人暮らしをすることになった経緯を聞いて涙目になった。
「まぁまぁ、大変だったわねぇ。なにか困ったことがあったらなんでも言ってちょうだいねぇ」
そう言って、俺の肩をがしりと掴む。年齢の割に強い力に俺も驚いたが、相手も驚いた顔を見せた。
「ずいぶんがっしりしてるのねぇ。なにかスポーツでもしているの?」
「この子は、産まれた時から空手をしているんです」
誇らしげに答えたのはなぜか叔母で、俺は隣でただうなずいた。産まれた時から、は少し大げさだが。まあわざわざ訂正することでもない。
「まぁそう。空手を。この辺で空手って言ったら白峰さんのところかしらね」
「ええ。白峰道場です」
俺が通う空手道場は、そこそこ有名だ。全国でも名の知れた空手家を何人も輩出しているし、師範も色んな意味で有名人だ。
空手を始めたのは、親父の影響だ。インターハイに出るほど強かった親父に憧れ、当然のように俺も習うようになった。
「白峰さんはすごいわよねぇ。じゃあ恭介くんも強いのねぇ。さすがねぇ」
大家はしきりに感心している。俺がすごいのか強いのか知らないはずだし、なにがさすがなのかもわからないが、まあそれもわざわざ問い質すことではない。
親父が亡くなってからは、一度も道場に行っていない。話が出たら急激に行きたくなってきた。
引っ越しは明日だ。随分と心配してくれていた師範のもとへ、挨拶がてら今から行ってこようか。世間話を始めた叔母と大家にその旨を伝えようと口を開きかけた時、階段を上がってくる音が聞こえた。かん、かん、と一定のリズムで音が近くなってくる。なんとはなしに階段の方を見ると、程なく足音の主が姿を現した。
一瞬合った目は、すぐに逸らされた。
年齢は俺より少し上だろうか。病的なまでに色の白い、すらりとした女性だった。まっすぐな黒い髪を肩より少し下で揃えている。さほど大きいわけではないが、黒目がちの瞳が印象的だ。身長は女性にしては高いほうかもしれないが、ブーツを履いているのでよくわからない。
俺の視線に気が付いたのか、彼女に背を向ける形で立っていた大家が振り返った。
「あら、お帰り、紫ちゃん」
「ただいま、大家さん」
ゆかり、というのが名前らしい。彼女は無表情とまではいかないものの、笑うこともしなかった。あまり感情表現が豊かなヒトではなさそうだ。もっとも、俺も他人のことは言えないのだが。
「紫ちゃん、この子ね、中村恭介くん。明日からお隣さんだから、よろしくね」
少し立ち位置をずらして、俺を紹介する。俺が口を開く前に、やはり叔母が頭を下げた。
「よろしくお願いいたします。ご迷惑はおかけしないようにいたしますので」
実際に迷惑をかけないように暮らすのは俺なのだが。まるで自分のことのように叔母は言う。紫さんは、ゆっくりと瞬きをしてから叔母を見た。
「こちらこそよろしくお願いします。親子で住まわれるんですか?」
「いえいえ、私はこの子の親戚で。住むのはこの子だけです。ほら、恭ちゃん」
挨拶をしろ、という事らしい。俺は手短に名前だけを述べた。
それに応え、彼女も名乗った。
立野紫。
それが、彼女と俺との出会いだった。
翌日。叔母はどうしても仕事が休めずに引っ越しが手伝えないことを、とても申し訳なさそうにしていた。大丈夫だと、俺は言った。俺一人の荷物などたかが知れているし、高校二年生にもなって叔母がいないとなにもできないとは思われたくない。
自転車で叔母の家を出て、アパートへ向かう。大家の部屋へ鍵をもらいに行くと、先客がいた。大家の客ではなく、俺の客が。
「おいーっす」
片手を上げて軽く声を出してきたそいつを、冷めた目で見つめる。
「………なにしてんだ、お前」
「だって、冬はコタツにミカンにネコであるべきだろう」
「日本語一から勉強しなおしてこい」
草野武人だった。小学生のころからの付き合いだ。無二の親友、悪友、理解者、共犯者。彼は一人で俺にとってのそれらすべてを網羅している。
タケトは今、大家の部屋でコタツに入りミカンを頬張っていた。上着を脱いで、完全にくつろいだ格好で。
親父が亡くなってから、俺は一度も学校に行っていないが、彼とだけはメールのやり取りをしていた。引っ越しのことも伝えてあった。だが。
「今日、平日だろ。学校はどうした?」
「休校日になった」
「へぇ。ちなみに、それ決めたのは?」
「オレ」
「サボりじゃねぇか」
「ばれたか」
「ばれるわ」
呆れ顔を隠しもしないでいると、後ろからまぁまぁと声がかかった。
「学校を休んでまで手伝いに来てくれるなんて、素敵なお友達じゃない」
大家がにこにこと笑っていた。
「はい、鍵。マスターキーは私が持っているからね。合鍵は二つ。失くさないようにね」
「はい。ありがとうございます」
「荷物が届くのは十時だったかしら?」
「はい。そろそろですね」
居間の掛け時計は、十時まであと十分ほどのところを指している。
手伝おうかと言ってくれた大家に礼を言って、首を横に振った。
「友達が、来てくれていますから」
タケトが笑った気配がした。
「お前、何時から来てた?」
部屋へと続く階段を上りながら聞くと、タケトはへらりと笑った。
「そうだねぇ。二年前?」
「そりゃあ、ご苦労なことだな」
まじめに答える気はないらしい。まじめな答えなど期待していなかったが。しかし礼を言うタイミングを逃した。
上着を脱ぎ、みかんを二つ以上食べて、大家と気安く話す程度の時間は待っていたはずだ。俺にメールの一つも寄越さなかったのは、気を遣わせないためだと理解している。
礼儀を欠くような人間にだけはなるな。
親父の口癖が脳裏によみがえる。
「………ありがとよ」
「なにがぁ? オレはオレの別荘を見に来ただけだよ」
「ひとんちを別荘呼ばわりか、てめぇは」
言う間に部屋の前にたどり着いて、鍵を開ける。当然ながら、部屋の中はがらんとしていた。
一瞬落ち込む俺の背中を、どんと押してタケトが入り込む。
「おお、思ってたより広いね」
タケトは感心しているが、さほど広くはない。玄関を開けると短い廊下が伸び、左手にトイレと洗面所と風呂。右側に台所があり、突き当りに七畳のリビング。かろうじて布団が干せる程度のベランダ。それだけの部屋だ。
親父の遺品を置ける場所はない。
わかっていてこの部屋を借りた。親父と住んでいたあのマンションにはいられなかった。かといって遺品を整理する気も起きず、結局は預かると言ってくれた叔母の言葉に甘えている。
いつか、整理するときが来るんだろうか。俺の母親が亡くなった時、親父は遺品をどうしたのだろう。聞いておく必要など、ないと思っていたのに。
「お、荷物が来たかな?」
タケトの声で我に返った。確かに、トラックがアパートの前に停車しようとしている。俺が頼んだ業者のものだ。
「さて、じゃあ作りますか、オレの秘密基地を」
「そこはせめて俺たちのと言え」
軽くタケトの頭を小突いて、外に出る。空気は冷たかったが空は抜けるように青かった。
業者が置いていった荷物を解いていく。その間、タケトはこの数日に学校で起こった出来事やバイト先での出来事を話してくれた。その流れで、昼飯はタケトのバイト先であるファミリーレストランに行こうかという話になる。
「恭介を連れていくと喜ばれるんだよね。お前、無駄に綺麗な顔してるから」
「無駄で悪かったな」
「大丈夫だよ、頭でバランス取れてるから」
「それはあれか、俺に馬鹿だって言ってんのか」
「うん」
「否定しろよ」
「嘘はつかない主義なんで」
いつものやり取りだ。随分と久しぶりな気がする。気分が軽くなっているのを自覚していた。
と、タケトの手が止まっていることに気が付いた。見れば、一つのダンボールの中に視線が注がれている。
「どうした?」
俺も手を止めてタケトと同じものを覗き込んだ。
「あれ、これ…」
親父の服とアルバムの背表紙がのぞいている。叔母の家に置いてきたはずのものだ。業者に荷物を預ける時、間違えて渡してしまったのだろう。
「叔母さんとこに返す?」
タケトに聞かれて少し考えたが、俺は首を横に振った。親父のものを見るのはつらいが、かといってこのダンボール一つを叔母のところへ持っていくのもためらわれたからだ。この部屋の収納スペースは少ないが、どうしても入らないほどでもない。
俺に断わってから、タケトはアルバムを手に取った。古いアルバムだが、親父がいつも眺めていたせいか埃の匂いはしない。
「これ、恭介のお母さん? 美人だね」
指さしたのは、家族写真だ。病院のベッドの上で、産まれたばかりの俺を抱いて微笑む母親。その傍らで、豪快に笑う若かりし頃の親父。ああ、確かにこんな風に笑う人だった。
幸せな写真のはずなのに儚く見えるのは、三人のうち二人がこの世を去ったからだろうか。
「お母さんに似たんだねぇ、恭介は」
「ああ、親父にもよく言われたな」
俺の母親は、俺を産んですぐに病気で亡くなった。俺を抱いたのは、たった一度だけらしい。つまり、この写真を撮ったその日だけだ。
当然ながら、俺には母親の記憶はまったく無い。それでも、親父は毎日思い出話という名ののろけ話を聞かせてくれたから、俺は母親を知っているつもりでいる。「無駄に綺麗」と称される自分の顔も、母親に似たのだと言われれば悪い気はしない。
幼い頃は、母親に似ていると言われればそれだけで、自分の存在が許されている気がしていた。
落ちた沈黙を破ったのはタケトだった。
「この写真さ、飾れば? 仕舞い込まないで。…まあ、今すぐにとは言わないけどさ」
そうだな、と呟くように答えた。確かに、今すぐ飾る気にはならない。
「ん?」
ページをめくろうとしていたタケトが、動きを止めた。首をかしげてから、件の写真の前後のページを何度も確認している。
「なにしてんだ?」
「なんか、不自然じゃない? これ」
「なにが」
「ほら。この写真、一回はがしてから張りなおした跡がある。たぶん、ごく最近」
言われてみてみれば、確かにそんな跡がある。
「アルバム全体の写真を入れ替えたのかとも思ったけど、こんな中途半端なページの、しかも一枚だけってのは不自然かな、と」
確かに不自然だ。だが、その不自然さが何を指すのか俺には分からない。タケトは興味深げに写真を眺めている。眺めているだけだ。何も言おうとしない。俺は軽く息をついた。
「気になるなら、フィルム剥がしてみろよ」
「え、いいの?」
遺品には触られたくないとでも言われると思っていたのだろう。そんなもの、相手によるに決まっている。
タケトは丁寧にフィルムをはがし、台紙から写真をとった。年月が経っている割に簡単にはがすことができたのも、最近貼られた証拠と言えるだろう。
ひょいと、タケトは写真を裏返しにした。表側に不自然なところはなかった。だから裏返してみた。それだけだったのだろう。だが。
―――恭介と命名。譲さんそっくりでうれしい。
裏側には、そう書かれてあった。
「えーと…」
タケトが言葉に詰まるとは珍しい。口から生まれたような男のくせに。
いや、そんなことを言っている場合じゃないか。というか。
「ゆずるって、誰?」
「………誰だろうな」
俺の親父の名前は浩介。譲なんて、俺が知る限り親戚にもいない。「ゆずる」と読むのか「じょう」と読むのか知らないが、まあとりあえず「ゆずる」ということにしよう。
さて。
「譲さんにそっくりって、どういうことだろうな」
「まあ、普通に考えれば…」
タケトは、その先を言わなかった。言えなかったのだろう。別にタケトを困らせたいわけではないのだが。
「「浩介」と「譲」を書き間違え…ないか、さすがに」
「ま、さすがに無理だろうな」
「ちなみに、これはお母さんの字?」
「さぁ。なんせ、ろくに見たことがない。でもまあ、たぶんそうだろ。他人が書くことじゃなさそうだし」
淡々と思ったことを述べれば、タケトはうーんと考え出した。
「親父さんと、よくアルバム見てたの?」
「親父はよく眺めながらビール飲んでたよ。俺はほとんど見てないけど」
「ちなみに、最後にこのアルバムに触ったのは?」
「それは、マンション引き払う時に俺と叔母さんが……いや」
言いかけて、止まった。そうだ、あの時。俺はアルバムには触っていない気がする。
「叔母さんが、親父の荷物は引き取るって言い始めて。アルバムも、重いしかさばるから新しい部屋には置けないだろうって」
そう言って、手早く親父の衣類やアルバムを仕舞っていったのだ。親父が亡くなってからの記憶は曖昧なところもあるが、たぶん間違いなく俺は触っていない。自分の荷物を整理していたから。
今思い返してみれば、叔母の言動は少々強引だったかもしれない。確かにアルバムは重いしかさばるが、気が利く叔母のことだ、家族写真の一枚くらい持たせようとしても良かったのではないか?
気が利くからこそ、反対に家族写真を遠ざけようとしてくれたという可能性もあるが……。駄目だ、判断ができない。
叔母は母親の妹で、俺の面倒をまるで我が子のように見てくれてきた人だ。運動会や遠足の時の弁当も作ってくれたし、親父がどうしても仕事を抜けられない時は授業参観にも来てくれた。
その叔母が、俺から家族写真を遠ざけるだろうか。
「とりあえず」
写真を台紙に戻しながら、タケトが言う。
「昼飯にしようか。考えるのは荷物を片付けてからでも出来るよ」
昼飯に行くついでに段ボールをゴミ捨て場に置いていくことにして、畳んだそれらを抱えて部屋を出る。階段に差し掛かったところで、階下に人影を見つけた。アパートへまっすぐ歩いてくるその人に、見覚えがあった。
立野紫だ。
なんとなく見下ろしていると、後ろから出てきたタケトがあれ、と声を出した。
「紫さん?」
彼女の名前をあっさり出した友人に驚いた。
「知り合いか?」
「バイト仲間だよ。近くに住んでるってのは知ってたけど、まさかこことはね」
言ってから、タケトは彼女に手を振りつつ声をかけた。顔を上げた彼女も、タケトを認めて何度か瞬きをしたようだ。驚いているのだと思う。
俺は何度か親父と一緒にタケトのバイト先に食事をしに行っているが、彼女のことは知らなかった。無理もないよ、とタケトは言う。
「紫さんはほとんど厨房だから。どうしてもヘルプが必要な時にしかホールには出てこないよ」
「ふうん」
言いながら、俺達は階段を下りる。下り終わったところで、彼女と向かい合った。今日も病的に肌の白い彼女に、タケトが先に口を開く。
「お疲れ様です。今あがりですか?」
「うん」
タケトの問いに、彼女はうなずいた。うなずいただけだった。…もしかして、会話終了だろうか。というか、今のは会話だろうか。
「まさか恭介の引っ越し先が紫さんのアパートだったとはって、驚きましたよ」
「そう」
俺も驚いている。会話の不成立さに。
「こいつのこと、よろしくお願いしますね。人見知りはしますけど悪い奴じゃないんで」
「うん」
「黙っていれば美形に見えますけど、中身は残念なほど単純で明快で鈍感な体力バカですから」
「そう」
おいこら、残念ってなんだ。
そう突っ込むことよりも、二文字しか発することのない彼女と、そんな彼女にまったくめげないタケトに感心していた。
いや待て、でもやっぱり残念ってなんだ。
「オレたち今からメシ食いに行くんですけど、今日はお客さんの入りはどんな感じですか?」
「うん」
答えになっていない。
そう言ってもいいものだろうか。悩んでいると、少し考えたらしいタケトがもしかして、と続けた。
「紫さん、眠いんですか?」
「…うん」
それは引き留めて申し訳なかった。引き留めたのはタケトだが。
「じゃあ、オレたちはこれで。ゆっくり休んでください。行こうか、恭介」
「ああ。………じゃあ」
これで、と言おうとした時にはすでに、彼女は階段を上がろうとしていた。なるほど確かに、眠そうな足取りではある。
階段から落ちたりしないだろうかと心配になり、彼女が上がりきるまで見つめていた。
自転車で十分ほどのファミリーレストランで、俺もタケトも写真のことには触れなかった。どう触れていいのかわからなかったからだ。