そして、夜半。とうに日は暮れて夜のとばりが落ち、夕飯も入浴も済ませてそろそろ村中から寝息が聞こえてくる頃。三人は、村で一番大きな邸の正門の前にいた。全員、顔を手ぬぐいで隠している。当然ながら視界は悪い。邸の庭で燃えている小さな松明だけが頼りになる。現時点では。
「では、行きます」
ミドリが言って、うなずきあった三人は板塀を飛び越えた。
まずは、昼間も身を隠した馬小屋へと足音を殺して向かう。昼間はいなかったが、今は大きな黒い馬がそこにいた。夜だから黒く見えるだけで、本当は茶色かもしれないが。
「…驚かせてごめんなさい」
そっと声をかけてから、ミドリは自身の髪から髪留めを引き抜いた。器用な手つきで錠前の鍵穴に差し込み、少し動かす。ほどなく、かちゃんと音がして錠前が外れた。
「逃げなさい。ここは、少し騒がしくなります」
ミドリの言葉が通じたわけでもないだろうが、馬はゆっくりと小屋を出た。一度だけ振り向いて、外へ駆けていく。
馬を先に逃がしたい、と言い始めたのはミドリだった。人間の争いごとに巻き込むのは可哀想だからと。シロとクロに異存は無かった。
「しかし、あんた鍵開けまで出来るのか」
「簡単なものなら。花嫁修業の一環です」
だからどんな花嫁を目指しているんだ。
聞いても疲れるだけのような気がしたので、シロは黙っていた。
「では、本番と行きましょう」
ミドリは持っていた髪留めを髪に戻し、巾着に手を入れた。親指の先ほどの大きさをした木の実がごろごろと出てくる。
「扱い方は先ほど説明した通りです。―――参りましょう」
うなずき合って、三人は駆け出した。
クロは裏口の方へ。ミドリは中庭へ。そしてシロは、雨どいをつたって屋根に飛び乗る。屋根から空を仰ぐと、雲が広がっていて月も星も見えなかった。
都合がいい。
クロから聞いた邸の間取りを頭に思い描きながら、生贄の部屋があると思しき場所で立ち止まる。腰から剣を引き抜いて、屋根に向かって静かな一閃を放つ。それだけで、屋根に細い筋のような穴が開いた。次に、懐から先ほどの木の実とマッチを取り出した。十数粒の木の実を山にして、その中の一つを手に取る。手順は何度も確認してある。
マッチを擦って、手に取った木の実をあぶった。煙が出てきたところで、山にしている場所に戻す。すると、一気に煙が拡散した。顔の手ぬぐいは、もちろん顔を隠すためのものであるが、この煙に巻かれないためでもあるのだ。
「………」
風下に移動しつつ、シロはなるほどと納得していた。
この木の実は、軽く火であぶるとかなりの量の煙を発するのだとミドリが言っていた。有害な煙ではなく、炎も上がらない。古くから、忍たちの煙幕に使われるようなものらしい。少量でそれなりの効果があるとは聞いていたが、まさか十数粒でこんなにもうもうと煙が上がるとは。
ほぼ同時に、裏口と中庭でも煙が上がり始める。彼女たちもうまく火を点けたのだろう。それを確認してから、シロは再び懐に手を入れ、今度は火伏の風呂敷を取り出した。上がり続ける煙の上にかぶせる。すると当然、煙は下へ―――邸の中へと流れていく。先ほどシロが開けた穴を通って。
ほどなく、邸の中に灯りが点いた。さすがに昼間ほどとはいかないが、多くの燭台に火が灯され、暗がりの中に邸が浮かび上がる。
シロは屋根から飛び降りた。放っておいても、家人が外に出て煙の確認をするだろう。その時を見計らって中に入り、子どもたちを連れ出すのだ。
家人の目の前で。
「手段は無くも無い」
昼間。そう言ったシロに、女二人は縋るような視線を向けた。
「どういうこと?」
「要は、ガキどもが自分の意思で逃げ出したわけじゃないってことが伝わればいいんだろう」
「それは…そうですが」
「なら、村人の目の前で略奪すればいい。夜盗ごっこだ」
シロの言葉に、二人はぱちくりと瞬きをした。
「で、ですが、そんなことをしたら後からの説得が…」
「今はとりあえずガキどもを連れ出すことが先決だろう。身代金代わりにこっちの話を聞いてもらう。いざとなったら、ぐだぐだ言うなら今度は村全体を襲うと脅す」
「シロ、それ悪役の台詞」
「悪役結構。もともと俺は正義の味方じゃない。手段なんか選んでられるか」
言い切ったシロに、女二人は特に反対しなかった。ほかに思いつく手段が無かったからである。
そして、今。
作戦通り、家の周囲で煙を起こしている。騒ぐ気配がしてきたので、もう家人は全員起きているだろう。鬼役にあんな仕打ちをしている連中が、火事かもしれないからと牢の鍵を開けてまで助けようとするとは思えない。それよりは、自分の身を優先させるはずだ。そっちのほうが都合がいい。鍵ならミドリが開けてくれる。
煙を上げる場所は、裏口と中庭と家の中。首尾よく煙を上げたら、シロは裏口へ回る。ミドリも向かっているはずだ。クロは正門に戻り、家人を足止めする役割を担っている。家人にはある程度逃げずにいてもらわなければならない。子どもを攫うところを目撃させるために。
裏口には、すでにミドリが待機していた。
「首尾は上々のようですね」
「ああ」
ほどなく、家人たちの騒ぐ声が大きくなり始めた。
「煙を吸うな!」
「どこが火元だ!?」
「全員起きたか!?」
「おおお、落ち着け! まず寝巻から着替えろ! 枕も忘れるな!」
どう聞いても、一人だけ特に慌てている奴がいる。声からして、初老の男といったところか。
「枕が変わると眠れない気持ちは、私にも解ります」
ミドリが一人でうなずいている。今、そんなところに理解を示している場合ではないだろうに。
やがてバタバタと足音がして、正門に向かう気配がした。案の定、足音は六人分しかしない。子どものことなど念頭にないのだろう。
「行きましょう」
ミドリが言って、そっと裏口の鍵穴に髪留めを差し込んだ。あっけなくかちゃんと音がして施錠が外れる。こんなにも簡単に開けられるなら、シロも教わりたいくらいだ。
邸の中は煙が充満していた。自分でやったことながら、確かにこの煙なら冷静さを失っても仕方がないかもしれない。
二人はまず、生贄の部屋へと向かった。廊下を歩いていると、どんどんと音がする。閉じ込められたままの生贄が、助けを求めているのだろう。
「今開けますから、落ち着いて!」
ミドリが走って行って、扉の前で足を止めてから固まった。
「どうした?」
数歩遅れて扉前に到着したシロも、思わず眉間に皺を寄せた。
鍵が、一つではないのだ。
大きな南京錠が扉の把手のところに一つ。そして、その上下に合計で四つ、閂がかけられている。どうやっても、中からは逃げられないように。昼間、クロは屋根裏から覗いただけだったからこの鍵の多さに気が付かなかったのだろう。
少女一人を閉じ込めるために、ここまでするのか。
「おい、鍵を開けてくれ」
固まったままのミドリにそう声をかけると、ミドリははっと我に返ったように肩をびくつかせた。
「鍵、開けてくれ」
「は、はい!」
閂は、ただ止め棒を外せばいい。だが大きな南京錠は、ミドリをもってしても開けるのに少々時間がかかった。ミドリが焦ったからかもしれない。
大げさな音がして南京錠が外れると、ミドリは勢いよく扉を開けた。
中には、少女が一人、おびえた表情でたたずんでいた。
「………だれ…?」
「私はミドリ。あなたたちを助けに来ました。さあ、行きましょう」
差し伸べたミドリの手は、受け取られることはなかった。少女が後退ったからである。
「わたし、ここからでちゃいけないの」
「このままここにいたら、殺されてしまいます。逃げましょう」
ミドリの言葉に、少女は首を振る。
「わたし、でられない。おこられる」
「いいえ、怒られません。あなたが聞いていることはすべて間違いなのです」
「すべて…?」
「そうです。行きましょう。あなたを助けるために、迎えに来たのです」
「……でも、まだ」
ここで、黙って扉の陰にいたシロが動いた。無言のまま部屋の中に入り、その姿を見て硬直した少女の首筋をとん、とつついたのだ。少女は声も上げずに崩れ落ちた。
「シロさん、乱暴なことは…」
「言ったはずだ。手段なんか選んでられるか。時間がない。行くぞ」
崩れ落ちた少女を肩に担ぎ、シロは階下を目指す。外からは、クロと家人の言い争う声が聞こえてきている。早く合流したかった。
大きな居間だった。昼間見たときと同じく、居間には牢が設えてある。そこに、少年はいた。外の騒ぎなど聞こえてもいないというように、微動だにせず、牢の中で膝を抱えている。
「おい」
シロが声をかけても、顔を上げることすらしない。二度呼びかけても反応がないので、シロは舌打ちして背後のミドリに言った。
「開けてくれ」
「は、はい…」
答えて、ミドリは牢の鍵を開ける。牢には、少女の部屋とは違って鍵は一つしかなかった。
かしゃんと鍵の開く音がして、それでようやく鬼役の少年は膝にうずめていた顔を上げた。
「初めまして。私はミドリといいます。あなたたちを助けに来ました」
先ほどと同じように、ミドリは少年に話しかける。少年は、やはり無反応だ。シロはもう、何も言う気はなかった。肩に担いでいた少女をミドリに預け、ずかずかと牢の中に入っていく。少年はぼんやりとシロを見上げたが、特に逃げることはおろか表情を変えることもしなかった。抵抗されないなら都合がいい。シロは少年の腕をつかんで、そのあまりの細さに顔をしかめ、それから引っ張り上げた。
「出ろ」
やはり抵抗せず、少年はゆっくりと牢の外に出る。
「行くぞ」
ミドリから少女を受け取って再び担ぎ、開いている手で少年の手を引く。居間の窓から外に出るときに、ミドリが少年の手を引き取った。
外では、クロと家人たちがにらみ合いを続けていた。
「だから、お前は何者だと聞いている!」
「だから、夜盗だと言っています!」
「夜盗が夜盗だって名乗るか!」
そりゃそうだ。
シロは思わずつぶやいた。家人たちは、まだ背後にいるシロたちの存在に気づいていない。
「夜盗が駄目なら盗賊です!」
「夜に盗賊したら夜盗だろうが!」
「じゃあやっぱり夜盗で!」
「やっぱりってなんだ!」
「お宝ください!」
「そんな馬鹿正直な盗賊がいるか!」
もしかして、シロたちが子どもたちを連れてくる間、この不毛なやりとりをただ続けてきたのだろうか。
まあ、時間稼ぎにはなっただろうが。
「おい」
シロが声をかけると、家人たちはばっと振り向いた。そして、驚愕した。
「な、なにをしている…!」
「このガキどもは預からせてもらう」
「やめろ、返せ!」
「返してほしけりゃこっちの要望を聞くことだな」
「何が望みだ!?」
「………」
しまった、それは考えていなかった。
と思ったが、シロは顔には出さなかった。出したとしても顔は手拭いで覆っているので問題はなかっただろうが。
「要望を言え! それらを返せ!」
一瞬言葉に詰まったが、悟られないようにシロは堂々と胸を張った。
「金貨千枚」
「なっ…」
「受け渡し方法はまた通達する。………言っておくが、役人にこのことを知らせたら…」
シロの視線は氷のように冷たい。先ほど握った少年の手の細さが、彼をいら立たせていた。
「ガキどももあんたらも八つ裂きにしてやるから、覚えとけ」
そう宣言して、少女を担いだままシロは板塀に飛び乗った。続いて、クロとミドリも手近な板塀に飛び乗る。ミドリは少年をひょいと抱えていた。少年が軽いからこそ出来ることだった。
そうして三人と子ども二人は、夜の闇に姿を消した。
「シロ、すごい!」
森を抜けてあらかじめ決めていた匿う場所―――廃寺に落ち着いた三人。燭台に火をつけてから、開口一番、クロはそう声を上げた。
「なにが」
「もう完全に悪役にしか見えなかったよ。本当に、やるときはやるよね! やるときだけは!」
「ええ、本当に。完全に悪人でした。疑いようのないほど悪人でしたよ」
「ね、ミドリ。言ったでしょ。うちの兄貴はやるときはやるんだって。あそこまで悪人面ができるなんてあたしも知らなかったけど!」
「どこまでも悪人でしたよね。八つ裂きにして川に放り込むなんて、中々思いつきません」
「誰もそこまで言ってない」
「さすが自分で言ってただけあるね!『悪人万歳!どんとこい!』って」
「誰もそこまで言ってない」
しかも、途中から悪役ではなく悪人になっている。誰が悪人だ。別にシロは自分が善人であるなどとは思っていないが。
「どこに出しても恥ずかしくない悪人だったね!」
「どこに出しても悪人は恥ずかしいだろう」
「シロさん、自信を持ってください。あなたは立派な悪人でした!」
「どんな褒め方だ。そもそも俺は悪人というより―――」
つい言いかけて、止めた。
「シロ?」
「いや、いい。そんなことより、これからどうすんだ」
横たわる少女と、微動だにしない少年を見下ろしてシロは言った。とりあえず、二人にはシロとクロの替えの上着をかけてある。
「そうですね。生贄のほうはとりあえず自然に起きるのを待ちましょう。彼のほうは、まず食事を」
「そうね。まずは食事よね」
うなずくクロ。シロはそっと息をついた。追及されなくてよかった。
シロはこう言おうとしたのだ。
自分は悪人ではなく、むしろ罪人であると。
そんなことを告白してどうするつもりだと、心の中で自分を嗤った。
「あなた、お名前はありますか?」
ミドリが少年に聞いた。少年は反応しない。
「私が言っていることは、わかりますか? 聞こえているなら、せめてうなずいてくれませんか?」
優しいその空気に感化されたのか、少年はかすかにではあるがうなずいた。あからさまに、ミドリがほっとした表情を見せる。
「良かった。お名前があるなら教えていただけませんか。これからあなたは普通の生活が出来ます。そのために、お名前がないと不便ですから」
しかし少年は答えない。
「………ここでは、あなたが口を利いても誰も怒りません。暴力をふるったりしませんよ。あなたはもう、自己主張をしていいのです」
首を振るだけの少年に、ミドリは辛抱強い。
「どうしても話したくないのなら無理強いはしません。けれど、名前だけでも教えてください。声を出したくないなら筆談でも構いません」
そう言って、ミドリは自分の巾着から紙と筆を取り出した。
「字は書けますか? 書けないなら私が教えますから、心配しなくても大丈夫です。とりあえず、なんでもいいからここになにか書いていただけませんか?」
少年はしばらくミドリと紙と筆を交互に見つめていた。そんな少年を、ミドリは黙って見ていた。せかすことはしなかった。
やがて、少年が動いた。
がりがりの腕を伸ばし、紙を持ち上げた。
そして、破った。
少年は、びりびりと紙を破った。何度も何度も。紙が細かくなって掴めなくなるまで、何度も何度も。
廃寺に、紙が破かれる音だけが響く。一種異様な空間だった。
そうしてこれ以上細かくは破けない状態になった紙だったものを、少年は集めて放り投げた。それは雪のようにその空間に舞い、ひらりひらりと落ちていく。その様子を見て、少年は微笑んだ。くぼんだ眼を細めて、笑ったのだ。
そうして、口を開いた。
「………―――」
その言葉は小さくて、かすれていて、その場に響くことはなかった。
しかし、シロには読み取れた。
彼の唇はこう動いたのだ。
―――ちがう、と。