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 夢を見た。
 婚約者が、シロの隣で笑っていた。明るくて優しくて、善も悪もすべて包み込むような笑顔だ。シロは不器用で、その笑顔に微笑みを返せたことは少ない。
 けれども、シロは彼女を愛していた。彼女もそれは知っているはずだった。つい仏頂面になってしまうシロを、彼女はやはり包み込むように笑っていた。
 その笑顔を、シロはある日永遠に失った。
 彼女は神に処刑されたのだ。無実の罪だった。しかも彼女は、自ら進んで犯人だと名乗り出たのだ。必死で止めるシロの言葉は届かなかった。
 シロは彼女を愛していたし、彼女もシロを愛してくれていた。しかし彼女は、自分を愛してはいなかった。
 夢の中で、彼女は何度もシロに笑う。
 そうして何度も、シロは彼女を失う。
 失って、発狂して、シロは神と仲間を殺すのだ。
 何度も、何度も。
 まるで、少年が紙を破いていくように。

 目を開けると、朝日が廃寺に差し込んでいた。一同は本殿に横になっており、シロだけは扉にもたれかかって目を閉じていた。
 床では、シロに近い順からクロ、少年、少女、ミドリという並び方で皆が横になっている。さすがに疲れているのだろう、誰も起きる気配はない。
 シロは立ち上がって、本殿から出た。
 ミドリがこの廃寺を匿う場所に選んだのは、ヒトが寄り付かないからだけではない。井戸が生きていて、まだ使えるのだ。いつから廃寺なのかは判然としないが、建物自体もまだそんなに古くもなく、雨露だけではなく風もしのいでくれることがありがたかった。
 古井戸で頭から水を浴びた。多少はすっきりしたが、シロの気分は晴れない。
 あと何度彼女を失えば、シロは解放されるのだろう。
 そんな風に思うが、一方でシロは知っている。解放などされないことを。
 解放されては、いけないことも。
「早いですね」
 滴る水をぬぐいもせず、シロは振り向いた。ミドリが戸口に立っている。
「おはようございます」
「……ああ」
「昨夜はありがとうございました」
「別に。まだ依頼終了じゃないだろう」
「ええ。けれど、まずは無事に連れ出すことが出来ました。お二人のおかげです」
 そうまっすぐに礼を言われると、少し居心地が悪い。シロは目を逸らした。
 少しの沈黙。ミドリが戸口から動かないので、シロも動かない。やがて、再び口を開いたのはミドリだった。
「朝ご飯の準備をしますね。井戸、使ってもいいでしょうか」
「ああ…。そうか、悪い」
 シロが井戸の前を陣取っていたので、ミドリも近づけなかったのだろう。素直に謝って、シロは本殿に戻り始めた。途中で井戸に向かうミドリとすれ違う。まだ起き抜けだというのに、彼女からはシロの苦手なあの香りがした。
 顔をしかめて本殿に上がると、クロが身動きをした。
「……クロ。起きろ」
 軽く頬を叩くと、クロはぼんやりと目を開けた。何度か瞬きをして、周囲を見渡すと、そっかと納得したようにつぶやいて身を起こした。
「おはよー。お兄ちゃん、今日も悪人面だねー」
「悪かったな」
「あれ、なんでそんなびしょ濡れなの?」
「ちょっと水浴びをした」
「あらまー。ちゃんと拭かないと風邪ひくよー」
「わかってるよ」
 ぶっきらぼうに答えて、シロは荷物から手拭いを取り出した。がしがしと髪と顔を拭いていく。すると、視界の隅で子どもたちが動いた。
「あ、起きた? おはよー」
 クロの呼びかけに、少女のほうは小さな悲鳴を上げて硬直したが、少年のほうはやはり無反応だった。
「怖がらなくても大丈夫よー。あ、あたしの名前はクロ。こっちの悪人面はシロ。悪人のように見えるけど悪人じゃないから大丈夫」
 そんなことを言われて、そっか大丈夫かと納得する奴はいない。
「ああ、起きましたか」
 戻ってきたミドリが戸口にいた。手には水が入った桶を持っている。
「昨夜のことを覚えていますか? 私たちは、あなたがたを助けに来たんです。少し長い話になりますから、とりあえず朝ご飯を食べましょうね」
「あ、手伝うよ。顔洗ってくるから待ってて」
 クロが立ち上がって本殿から出ていく。子どもたちはまだ硬直している。そんな子どもたちに、桶を置いてミドリは優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。お腹いっぱい食べて、今日からは普通の生活をしましょうね。………とはいえ、急にこんなことを言われても意味が解らないでしょうけれど」
 ミドリは、おそらく少女の頭を撫でようとして手を伸ばした。その瞬間、それまで無反応だった少年のほうがものすごい勢いでミドリの手を叩き落とした。
「っ!」
「おい」
 思わずシロも腰を浮かせる。
 少年はそれ以上なにかをしようとはしなかったが、ミドリを睨みあげる目は凄まじいものだった。触るなと、そう全身で訴えていた。
「大丈夫か」
「え、ええ…。なんともありません」
 近よって聞いたシロに、ミドリはやや呆然としたまま答える。少しの間叩かれた手をさすっていたが、やがてその手で今度は少年の頬を撫でた。少年は抵抗しない。
「驚かせてしまいましたね。ごめんなさい。あなたがたに危害を加える気はないのです」
 そうして、今度は少女に向き直る。
「昨日も申し上げましたが、私はミドリと申します。よかったら、あなたのお名前を教えてもらえませんか?」
 少女は答えない。
「困りましたね。名前を呼ぶことが出来なくては、今後の生活に差し支えます。あなたがた、名前がないわけではないでしょう?」
 やはり答えない二人に、シロは段々いらついてきた。もともと気が長いほうではない。
「答える気がないなら、とりあえず仮名でいいだろう。もう嬢ちゃんと坊主で」
「まあ、そんな投げやりな。せめて太郎くんと花子さんとか…」
「どっちが投げやりだ」
「お、なになに。なんの話?」
 そこに、顔を洗ってさっぱりしたクロが戻ってくる。
「ガキどもの名前の話だ。名乗らないなら勝手に呼ばせてもらおうとしていた」
「どうせまたかわいくない名前つけようとしたんでしょ」
「嬢ちゃんと坊主だ」
「それ名前ですらないよね」
「うるさい」
「名前かぁ。そうだな、じゃあ海くんと空ちゃんなんてどう?」
「その心は」
「どっちも青い」
「どっちがどっちかわからん」
「でもそのつけ方は素敵です。私たちが白と黒と緑ですから、青くんと赤ちゃんなんてどうでしょう」
「赤ちゃんは別の意味だろう」
「でも黄色ちゃんだとちょっと語呂が悪いと思うんです。茶ちゃんというのも言いにくいですし」
「あ、わかった。春ちゃんと秋くんとか」
「夏と冬の立場はどうなる」
「ではいっそ春夏ちゃんと秋冬くんなら平等ではないでしょうか」
「何に対する平等だ」
「ちがうよ」
「あ、でも本人が違うと言って………え?」
 わいわいとしゃべっていた三人が止まった。一斉に子どもたちを見る。
「今、しゃべりました?」
「しゃべったよね? 違うって」
「言ったな」
 うなずいたのは、少女のほうだった。
「ちがうよ」
 感動したらしいミドリが、両手を握り合わせて少女に詰め寄る。
「名前があるということですね? 聞かせてください、あなたがたのお名前を」
「それもちがうけど…ちがうの」
 昨日の少年といいこの少女といい、違う以外の言葉を知らんのか。
 シロはそう言いたかったがぐっとこらえた。ここで脅かしてはまた貝のように黙ってしまう。
「それも、ということは、どういうことでしょう…?」
「くんじゃないの」
「え?」
「わたしたち、ふたりとも、おんな」
「………え?」
 固まったミドリに、少女は続けた。
「おとこ、ちがう」
 あらま、とクロだけが声に出した。

「ご、ごめんなさい!」
 我に返ったミドリが、少年だと思われていた少女に頭を下げる。
「てっきり男の子だと思い込んでしまっていて…。確かに男に間違えられれば口も利きたくなくなりますよね。本当にごめんなさい」
「あたしも完全に勘違いしてた。ごめんね」
「…悪かった」
 ミドリに続いて、クロとシロも謝罪する。しかし反応はない。
「ええと…。ごめんなさい、やっぱり名前がないと不便ですので、なんと呼ばれたいか教えてもらえませんか?」
「やっぱり、名前無いの?」
 クロの問いには反応があった。生贄の少女が首を横に振ったのだ。
「ある。なまえ」
「なんていうの?」
「おしえちゃいけないの」
「どうして?」
「まなはおしえちゃいけないって」
 真名は、教えてはいけない。まるで高貴な者のようだ。生贄が答え始めたので、質問役はクロに任せることとする。
「どうして教えちゃいけないか、説明できる?」
「しんじゃうから」
「死ぬ? あなたが? それとも村のヒトが?」
「しらない。しんじゃうからいっちゃいけないっていってた」
「どういうことかな」
「しらない」
「そっか。知らないか。じゃあ仕方がないね」
「そっちは、だぁれ?」
「うん。あたしたちはね、あなたたちを迎えに来たの。あたしはクロ。このお姉さんがミドリ。そっちのお兄さんはシロ」
 何度目になるのか分からない自己紹介をするが、少女は不思議そうに首をかしげた。
「でも、まだ、わたしてないよ」
「渡してない? なにを?」
「これ」
 そう言って、少女は胸元に下げていた麻紐を取り出した。
「! それって…」
 紐には、薄墨色に光る宝石が結わえ付けられていた。さすがにシロも目を見開いた。
「薄墨色の…。まさかそれ…」
「あの男の命宝《めいほう》か…?」
 命宝に、同じ色のものはない。人間一人一人の人格が違うように、その命の色もまた違うのだ。街道でシロたちを襲ってきたあの男は、自分の命宝は薄墨色だと言っていた。
「それ、誰からもらった?」
「しらない」
「知らないだと?」
 思わず詰め寄ろうとしたシロを、クロがなだめる。
「まあまあ。あたしが聞くから」
「…すまん」
 仕切りなおすように、クロは少女二人に笑いかけた。
「順序立てて話してくれるかな。それは、いつ、誰からもらったの?」
「しらない。すこしまえに、へやにおいてあったの。てがみといっしょに」
「手紙の内容は覚えてる?」
「これ、あずけるって。おおきなおとこのひとがとりにくるから、これをわたしたらそとにでられるって。おにじゃなくなるって」
「鬼って…。あなたが? あなたは生贄のほうじゃないの?」
「ちがうよ。おに、わたし。いけにえ、こっち」
 少女は隣を指さした。そこには、がりがりに痩せたもう一人の少女がいる。
 しかし、そちらの少女も首を振った。ちがう、と口が動いた。自分を指さして、少女は初めて聞き取れる言葉を発した。
「…おに…わたし…」
 二人とも、自分が鬼だと言っている。シロもクロもミドリも、眉を寄せざるを得なかった。
「どういうことだ…?」
 つぶやいたシロに、答えられるものはいなかった。

 とりあえず、と手を叩いたのはクロだった。
「ご飯にしよっか。腹が減っては戦が出来ないしね」
「そ、そうですね。そうしましょう。あなたがた、嫌いなものはありますか?」
 ミドリの質問に、少女たちは揃って首を振る。
「それは良かった。朝ご飯は薬草粥です。たくさん食べてくださいね」
 とりなすように明るい声を出す女二人。シロは、納得できないままに黙るしかなかった。
 ミドリが薬草を準備し、クロが米をといで釜に準備する。釜はこの廃寺にあらかじめミドリが準備していたものだ。彼女は、ここを潜伏場所にすると決めてから、生活するための道具を用意していた。保存のきく食料、釜や食器、布団など。一人で準備をするのは大変だっただろうと、シロでも想像が出来る。布団や生活道具を持って、いったいどこから何往復したのか。それだけ、少女たちを救うという使命に駆られていたということだろう。
 シロがしたのは火を起こすことだけで、あとは粥が炊けるまで旅道具の手入れをしていた。少女二人は本殿の奥でただ座り込んでいた。
「出来ましたよ」
 やがて、ミドリが声をかけてきた。米の炊けるいい匂いが漂ってくる。五人で釜を囲んだ。
「さあ、どうぞ」
 シロとクロとミドリは自前の茶碗と箸を使い、少女たちの茶碗と匙はミドリが用意した。
「いただきます」
 クロが言って、シロとミドリも手を合わせた。生贄だと思われていた少女も手を合わせたが、鬼役のほうは無反応だ。彼女は、しばらく箸と茶碗を交互に見つめた後で手を伸ばした。素手で粥を掴もうとしたので、とっさにシロが手をつかんで止める。
「…火傷したいのか」
 低い声で言ってみたが返答はない。不思議そうに首を傾けるだけだ。そこで、ふと思い当たった。
「もしかして、使い方知らないのか」
「あ、そっか。なるほど」
 クロが納得したように手を叩き、ミドリが彼女の分の匙を手に取った。
「一つずつ覚えていきましょうね。これ、お匙と言います。持ち方は、こうです」
 シロが放した手をミドリが受け取り、匙を持たせる。そっと少女の手を握るミドリは、まるで母親のようだった。年齢的には姉かもしれないが。
 少々の時間はかかったが、少女は不格好ながらも匙を持てるようになり、粥を口に運んだ。
「美味しい?」
 クロが尋ねると、ややあってから首肯が返ってきた。
「あなたは?」
 生贄と思われていた自称鬼の少女も、少ししてからうなずいた。
「うーん。でもやっぱり名前がないと不便ね」
「そうですね。どうしても言いたくないなら真名は置いておくにしても、呼び名はあったほうがいいですね。あなたがた、真名を知られてはいけないとは言っても、呼び名はあったのでしょう? それを教えてもらえませんか?」
「ない」
「ないさん? ではこれからはないさんと呼びますね」
「いやいやミドリ。それは違うでしょ」
「え、なにがでしょうか?」
 ぱたぱたと手を振って止めたクロを、ミドリはきょとんとして見つめる。本気で解っていないらしいミドリに、クロは苦笑しながら言った。
「ないさんだなんて他人行儀な。なっちゃんでいこうよ」
「いやそれも違うだろう」
 思わずシロも口を挟んでしまう。きょとんとした表情が二つになった。
「…だから、ないって名前じゃなくて、呼び名も無いってことじゃないのか」
「あ、そういうことでしたか!」
「おお、なるほど!」
「………もういいから、お前らが名づけろよ。呼びやすくて覚えやすいのを」
「そうですね…」
 ミドリはしばらく宙を見て考え、それから少女二人に笑いかけた。
「結衣さんと舞衣さんというのはいかがでしょうか」
「あ、かわいい」
 クロが言う。少女二人はじっとミドリを見ている。ミドリは生贄だと思っていたほうの少女を結衣、鬼役の少女を舞衣とした。
「どうですか? 気に入らないならほかのものを考えますが…」
 結衣と名付けられた少女が先に首を振った。
「わたし、結衣。それで、いい」
 たどたどしくそう言った結衣に、ミドリは胸をなでおろす仕草をした。
「良かった。あなたはどうです」
 舞衣のほうは口には出さなかったが、小さくうなずいた。
「では、結衣さん、舞衣さん。これからよろしくお願いしますね。まずは、冷めないうちにご飯を食べてしまいましょう」
 ミドリが言って、そのあとはただ粥を食べた。話しているのは、主にクロとミドリだった。

「さて」
 食事が終わり、食器と釜を洗ってから、ミドリは少女二人と向き合って座った。シロとクロは戸口近くに控えることにする。
「状況を整理しましょう。まず、結衣さんと舞衣さんに話をしなければなりません。それから、あなたがたの話を聞かせてください」
 ミドリは、あらかじめ頭の中で順序立てていたのだろう。実に要領よく少女たちに話をした。
 村に残っているのは伝説ではなく呪いであること。しかし鬼などもういないこと。したがって呪いもないこと。誰かを供物になどしなくていいこと。当時の勇者に会って、話をしてきたこと。そして、もう自由に生きていいことを。
 昨夜言っていた通り長い話になったが、少女たちはおとなしく聞いていた。
「…ということなのですけれど…。私が言っていること、解りますか?」
 少女たちを覗き込むようにそう聞いたミドリに、結衣がうなずいた。そして、言った。
「わかる。それ、うそ」
 まっすぐにミドリを見つめて言った結衣に、ミドリは一瞬だけ驚いた顔を見せてから、ゆるゆると首を振った。
「嘘ではありません。確かに証拠はありませんけれど、すべて真実です」
「だって、わたし、おに」
「いいえ、鬼など村にはもういません。あなたがたは、ただの人間です」
「わたし、おに。にんげんとは、ちがう」
「違いません。あなたは人間として、これから普通の生活をするのです」
「ふつうって、なに?」
「それは…。普通の子どもとして、学校へ行き、やがて卒業して、働いて、好きなヒトを見つけて結婚して…」
「がっこう、いってたよ…?」
「そうですけれど、あのままあの村にいたらあなたがたは殺されてしまうのです」
 結衣は、目を丸くして首をかしげた。
「わたし、しなないよ。おにだから」
「鬼だから、殺されてしまうのです」
「おに、ふじみ。そういってた」
「どなたが?」
「みんなが。しぬのは、こっち」
 結衣は舞衣を指さした。すると、舞衣もおもむろに口を開いた。
「ちがう。…しぬの、結衣」
「いいえ、誰も死にません。死なせません」
 首を振ってミドリは訴え、もう一度説明した。鬼などもういないことを。
「信じてもらえるまで、何度でも話します。いいですか? あなたがたは、ただの人間なのです」
「ちがう」
 埒が明かない。それでも、ミドリは辛抱強く繰り返した。
 そして、何度目かの「ちがう」のあと、ミドリは言い方を変えた。
「では、あなたがたのお話を聞かせてください。幼いころから、どんな説明を受けてきたのか。ゆっくりで構いませんから」
 シロとクロは、口を挟むことなくそのやり取りを見ている。クロは時々なにかを言いたそうにしたが、そのたびに唇を噛んでこらえていた。説明をするのはミドリの仕事だと、解っているのだ。
 シロとクロの視線の先で、少女が話し出す。声が小さいので聞き取れない個所もあったが、二人は唇が読めるので特に問題はなかった。結衣の話をまとめると、こうなる。
 結衣は、親の顔を知らない。物心ついたときにはもうあの邸にいて、お前は鬼だと言われて育った。ほかの人間とは違うのだと。いずれ儀式を行い、村を救うのだと。同時に言われ続けてきたことがある。それが、舞衣について。
 舞衣のことは、生贄だと聞いていた。いずれ、高貴な存在である鬼に捧げられる供物で、ろくに衣食住も与えられないのは清めているからだと聞かされていた。口を利いてはいけないとも言われていた。生贄ごときが鬼と口を利くなどおこがましいからと。結衣は、鬼として孤高の存在でなければならなかった。当然、直接口を利ける相手も限られていた。だからこそ、齢十になる今でも会話が苦手で、片言のようになってしまうのだ。
 結衣は、もうすぐ儀式があることを認識していた。十を過ぎれば鬼として一人前になるので、大人の仲間入りをするための儀式だと聞かされていたらしい。
「その儀式では、なにをするのですか?」
「いけにえを、ささげるんだって」
「具体的には…?」
「しらない。りっぱなおにになるために、ひつようだっていってた」
 シロは眉間に皺をよせた。村人の思惑に気が付いたからだ。
 どこまでも胸糞が悪い。誰がこんなことを考えたのかは知らないが、断言できる。そいつはきっと、人間の皮をかぶった獣だ。
 シロの予想を裏付けるように、舞衣の話も似たようなものだった。結衣よりも言葉は少な目ながらも、どうにか聞き出すことが出来た。
 舞衣も、物心ついたときにはもうあの邸の牢にいた。お前は鬼だと言われ続け、二階に住んでいるのは生贄だと聞かされていた。もちろん口を利いてはいけないとも言われていたし、いずれは儀式によって自分に捧げられると聞いていた。生贄が大切にされているのは、いずれ自分に捧げられるとき、みすぼらしい恰好ではだめだからと言われていた。自分がやせ細っているのは、いずれ捧げられる生贄の栄養をすべてもらうから、それを受け取れるようにとのことだった。
「…あなたは、儀式についてはどう聞いていましたか?」
「おにに、なる」
「同じ質問をしますが、具体的には?」
「いけにえ、もらう」
 この瞬間、シロは自分の予想が間違いないと確信した。おそらく、クロとミドリも同じ瞬間に理解した。ただ、それを子どもたちの前で話す気にはなれなかったが。
 とはいえ、舌打ちくらいは許されるだろう。シロは自分のまとう空気が不穏なものになっていることを自覚していた。
 つまり村人たちは、子どもたちに殺し合いをさせるつもりだったのだ。殺されたほうが生贄で、殺したほうが本物の鬼として村人に処刑されるのだろう。
 ある意味で伝説を踏襲して、鬼と人間の戦を再現させようとしていたのだ。二人の子どもを、同じ場所で同じ話を聞かせながら対照的に育てたのは、お互いに対する嫉妬と羨望、優越感と憎悪を植え付ける為。二人が遠慮なく殺し合いが出来るように。
 シロは納得した。昨日、結衣に伸ばしたミドリの手を、舞衣は叩き落とした。あれは結衣を守ろうとしたわけではない。自分の獲物に手を出すなと、そういう意味だったのだろう。
「…なんてことを…」
 ミドリが呆然とつぶやき、クロはきつく目をつぶった。ひどい、と唇が動いていた。
 こんな因習が、脈々と続いてきたのか。二百年もの間。いったい何人の無辜の子どもが、犠牲になってきたのだろう。
 こんな因習を作った、当時の鬼と例の勇者を殴り飛ばしたい義憤に駆られた。同時に、シロには他人のことをとやかく言う資格はないことも解っていた。
 解っては、いた。
「………村に、行ってきます」
 静かに、ミドリはそう言って立ち上がった。シロとクロからは背中しか見えないが、その背には怒りと哀しみと失望と、そしておそらくは憎しみがない交ぜになったものが見えた。
「行ってどうする。ここまで腐っているなら、なにを言ってもたぶん無駄だ」
「そうかもしれません。けれども、なにも言わずにはいられません。このまま放っておいても、また犠牲者が出ます」
「ガキどもの命と引き換えに話し合いの場でも設けるか? なら、あんたより俺が行ったほうが」
「いいえ。私が自分で行かなければ気が済みません」
「あんたの気が済むかどうかは重要じゃない」
 シロはぴしゃりと言い切った。
「これ以上犠牲を出さないことが重要だろう」
「………」
 腕を組んで、シロは戸口に寄りかかる。ミドリを外に出さないために。
「冷静でいられないなら動くべきじゃない。それくらいのことは解るだろう」
 後ろからでも、ミドリの両拳に力が入っていることが分かる。畳みかけるように、シロは続けた。
「あんたは、ここにいてガキどもの洗脳を解くべきだ。なにも俺が行って話をしてくると言っているわけじゃない。ただ、話を聞かせるよう場を整えてくるだけだ」
「ねぇミドリ。そうしてもらおう? 今の状態でミドリが行っても、シロの言う通り冷静に話は出来ないでしょ?」
 ミドリは、そこでやっと振り返った。唇がわなわなと震えている。
「どうして、こんなことに…っ!」
 クロが駆け寄って、ミドリを抱きしめた。二人は一緒に泣いていた。そんな女二人を、少女二人はきょとんとした顔で見上げていた。
 やがてミドリを抱きしめたまま、クロが口を開く。
「こんな馬鹿げた因習、続けさせちゃ駄目だよ。止めるために、今はシロに行ってもらおう。ね?」
 しばらくは歯を食いしばって泣いていたミドリだったが、やがて目をつぶってうなずいた。
「……お願いします…」
「了解」
 短く答えて、シロは外に出た。
 太陽はまぶしく、空は抜けるように青く、風は穏やかだった。今のシロたちには不似合いなほどに。

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