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「そう何日もごまかせるとは思っていませんでしたけれど…。さすがに、早かったですね」
 振り返ったミドリはシロに微笑んだ。三日前、別れ際に微笑んだように。
「お褒めにあずかり光栄だな」
 シロの視線は鋭い。その感情の名前を、シロは知らない。
 村の最西端にある、ヒトが寄り付かない深い谷の前。そこで、二人は再会した。谷底は、地上からは確認できないほど深い。
 さぁさぁと降る雨は三日前から降り止まず、今も二人の身体をしっとりと濡らしている。頬に伝う雫は、お互いに涙のように見えたかもしれない。その雫を拭うこともせず、口を開いたのはミドリからだった。
「結衣さんと舞衣さんは?」
「村長の家で寝てるんじゃないか。ずっと背中にいたとはいえ、一日中休みなしで走りっぱなしだったからな」
「走ったのですか。あなたはともかくクロさんまで、子どもを負ぶって」
「うちの相方の体力を甘く見すぎだ。あんなガキ、荷物のうちにも入らねぇよ」
 シロもミドリも、平静を装って話をしている。絡み合う視線だけは、お互いにとてつもなく冷たく張りつめている。いまだ微笑んでいる、ミドリでさえも。
「……説明は、必要でしょうか?」
 この問いに、シロは否と答えた。
「別に、あんたがしたくないならしなくてもいい」
「あら、では何をしにここまで? 報酬ならすでにお渡ししているでしょう」
「多すぎだ。誰があんなに払えと言った」
 三日前、ミドリがシロに託した念珠。あれは、ただの念珠ではなかった。捨て値で売ってもシロとクロ、二人が向こう十年は遊んで暮らせるほどの価値を持った、宝石だったのだ。
「受け取った時にはわかっておられたのでしょう? わかりやすく反応していましたものね」
「あんたも相当わかりやすかったがな。俺はただ、ガキどもを安全な場所に。そっちのほうを優先させただけだ」
「やはり、あなたはお優しい」
「それはもういい」
「では、もう一度聞きましょう。あなたは、何をしにここまでいらしたのですか? ………こんな、廃墟に」
 相変わらず微笑んだままのミドリが、本物の鬼に見えた。

 この村は、息絶えた。
 シロが村に入った時、あたりには死臭が充満していた。建物という建物は壊され、大地は抉られ、虫の音一つ聞こえなかった。
 雨はこの三日三晩降り続いている。それでも流しきれないほどの血液が、抉られた大地をどす黒く染め上げていた。生存者を、見つけられなかった。
 遅かったと、シロは瞬時に理解した。また、止められなかったのだと。
 それでもシロは走った。ミドリがいる場所なら見当が付いていた。ここしかないだろうと思っていたのだ。彼女の兄が殺され、歴代の生贄たちが殺されていった、この谷しか。道に迷うことは無かった。先日村人たちを殴り飛ばした後で、頭を冷やそうと村の中をうろついた際に、件の谷を見ておこうと足を運んだからである。
 果たしてシロの読み通り、ミドリはそこにいた。谷底を見つめている後姿を見つけたのだ。
「シロさん?」
「依頼を受けてきた」
「私の依頼なら、もう」
「あんたじゃない」
 シロの瞳に宿る静かな熱。それは怒りにも似ていたし、切なさにも似ていた。そしてそれは、痛みにも似ていた。
 どうしようもない遣る瀬無さだけが、その場にあった。
「うちの相方からの依頼だ」
「クロさん…? それはまた…」
「二百年前この村に呪いを落とした鬼を、負の鎖から断ち切ってほしい。それが依頼だ」
 シロは声を荒げていない。けれどもその声は、雨を伝ってどこまでも響いていくようだった。ミドリが軽く目を見開く。微笑みが消えた。
「いつ…気が付きました?」
「最初から違和感はあった」
 ミドリの問いに、淡々とシロは答えていく。
「まずは鬼の呪いが始まった時の話。どうにも臨場感がありすぎた。あの時も言ったが、まるで見てきたような口ぶりだった。そりゃそうだよな。当事者なんだから」
「まあ、そうですね」
「そもそも、あんたが神関に忍び込んで話を聞いたという若者。あんたは確かこう言った。若者の名前や人相は村に伝わっていたと」
「ええ、言いましたね。嘘ではありませんよ」
「嘘かどうかは問題じゃない。そのあとであんたはこうも言った。『命宝《めいほう》を神に返した彼はただの老人』というようなことを」
 これだけで、ミドリにもシロの言いたいことが分かったらしい。ああ、と声が漏れた。
「そうでしたか。最初から、私はそんなうっかりをしていたのですね」
「ああ。名前や人相で若者だった男を探し出したはずなのに、あんたが話を聞いたのは年食ったただのじいさんだった。命宝を預ければ、精神はともかく肉体はそう簡単には年を取らないはずなのに。見つけたじいさんを若者だった男だと断じることが出来るのは、当時の面影を知る奴しかいない。名前だけで断じるには危険が大きいだろう。ただでさえ神関に忍び込むのは重罪だからな。名前が同じなだけの別人だったら、じいさんに騒がれれば終わりだ」
「そこまでお考えなのに、よくあの場では見逃してくださいましたね」
「あの時は、それでも名前だけで確認出来たのかと思ったんだよ。そこまで説明する義務もあんたにはなかったし、そもそもあんたを積極的に疑う理由もなかった」
 雨は降り続けている。数日前まで憎らしいほど晴れていたというのに、今は低い雲があたりを覆っている。顔に張り付いた前髪を、シロは乱暴に掻き上げた。
「情けない話だよ。最初からちゃんとあんたを問い詰めていれば、ここまでの事態にはならなかったかもしれない」
「時間の流れにもしもはありませんよ。それに、あの場で問い詰められていても、私はどうにかして言い逃れたでしょう。それこそ、名前だけで彼を探し当て、老人の姿になっていることに驚いたと付け加えれば済む話です」
「それもそうだな」
 あっさりとうなずいたシロに、ミドリは重ねて聞く。
「それよりも、教えてください。あの時点で積極的に疑ってはいなかった私を、本格的に疑い始めたのはいつです? 私、そんな決定的なうっかりをしていましたか。重々気を付けていたつもりなのですが」
「別に、あれが決め手だったという出来事は無かった」
「それでは…」
「いろいろ積み重なって、誰がなんの為にと本気で考えたら、あんたしかいなかったんだよ」
「いろいろ?」
「そう。例えば、俺たちを襲ってきた男の命宝。あれを盗んだのもあんただろう? あれを元々盗んだっていう、俺たちが関所に放り込んだ盗賊の首領。そいつから命宝を盗んで、俺たちの仕業だと思わせて襲わせた。方法はいくらでもある。盗賊に怯えて暮らしているあの村にはそんなことをする奴はいない。よそ者の俺たちになら罪を着せやすかっただろう。下手になんでも屋なんて名乗ってるから、誰かの依頼で喧嘩を売りに来たと思わせるのはさほど難しいことじゃない」
「なぜ、私がそんなことを」
「俺たちの力量を知る為に。あんたは自分の計画を実行に移すために利用できる奴を探してたんだろう? どこで俺たちのことを知ったのかはわからんが、とにかく使えると判断した。うれしくはない評価だが」
「そうですね。お二人は期待以上でした。とても優秀でしたよ」
「そりゃどうも。それで、あんたは満足か?」
「どうでしょう。優秀すぎて、少々計画が狂ってしまいましたから、満足ではないかもしれません。それよりも、いろいろというのは、ほかには?」
「命宝に関して言うなら、結衣の証言だな。いずれ大きな男がそれを奪いに来ると手紙にはあったらしい。けど、命宝の持ち主はこの村のことなんて存在も知らないようだった。なら、大きな男というのはあいつじゃない。あれは俺のことだろう。俺の身長は平均より高めだし、そうじゃなくても結衣みたいな小さいガキなら、大人の男を大きな男と証言してもおかしくはない」
 ミドリは穏やかにうなずいた。微笑みが戻ってきている。そこに、微かな不気味さをシロは感じ取っていた。
「さっき説明は必要ないとは言ったが、一応は答え合わせをしてもらおうか。順を追って」
「構いませんよ。時間ならあります」
 その余裕の態度も気に入らない。けれども、シロはそのことは口に出さなかった。ミドリはあと一歩後退すれば谷底へ落ちる位置にいる。クロからの依頼を果たすために、時間稼ぎが必要だった。
「あんたは、兄貴が殺された二百年前から、ひたすらに復讐の機会をうかがっていた。その為にまずは利用できる奴を探して、俺たちに白羽の矢を立てた。俺たちはたまたま気に入らない奴をしばき倒した時期が続いて、用心棒みたいな仕事もしていたからな。俺たちを監視し、使えると判断するとまずは夜盗に俺たちを襲わせた。金じゃなく命宝を奪ったのは、隠しやすいからってのもあっただろうが、判りやすいからってのも大きかったんだろうな。薄墨色に光る宝石なんて、そうそう落ちてるもんじゃない」
 雨のおかげで湿度は高いはずなのに、のどが渇く。シロは、気づかれないように唾をのみ込んだ。
「だけどあんたは、あれが命宝だなんて知らなかったはずだ。あの男に『殺人だ』と言ったときの顔は演技にしちゃ出来すぎていたし、あれが男の命宝だと聞いたときには『そんなつもりは』と口走った。……本当に情けねぇよ。あのとき、変なことを言うなとは思っていたのに」
「ああ、確かに言ってしまいましたね。そんなことも」
「結衣に命宝を渡したのは、迎えに来た奴に付いて行けということ先に指示しておく為。迎えが来るなんてあらかじめ聞いてなきゃ、もっと抵抗されただろうからな。俺に命宝を預けろと手紙に書いたのは、報酬代わりにでもしようと思ったのか?」
「それもあります。あのときは命宝だなんて本当に知りませんでしたし、結衣さんにも、あれを渡せば外に出られるという意識を持ってもらいたかったので。手紙で迎えに行きますと書くだけでは説得力がないかと思いまして」
「首尾よく俺たちにガキどもを救出させて、復讐の準備は整ったんだな?」
「ええ。多少のずれはありましたけれど、おおよそ計画通りでした。シロさんが村で暴れたりしなければ、もう少し順調だったのですけれど」
 その嫌味は無視をする。話にはまだ先があるのだ。
「俺が暴れて廃寺に帰って来たとき、あんたこう言ったな。『これで、あの村に思いを残さなくて済む』」
「…言いました」
「あれは、生まれ育ったこの村に心残りが無くなるという意味じゃない。心置きなく復讐が出来るという意味だったんだろう?」
 ミドリは微笑んでいる。口だけで。
「生贄にさせられたガキどもだけを助けて、ほかの奴らには死んでもらう。生贄が生き残ってほかが死ぬんだから、実に嫌味の利いた復讐だよ」
「あら、私は誰も殺していませんよ」
「解ってるよ。あんたはただ、見ていただけだ。―――村人が、殺し合うさまを」
 雨が降っているせいで、あたりには霧が漂っている。それはそのままミドリを包んで、彼女の雰囲気を厳かに妖しくしていた。
 鬼が、復活していた。
 それでもシロは、退くわけにはいかなかった。
「この村の奴らは、儀式と称して生贄二人に殺し合いをさせていた。生贄がいなくなれば次の生贄を探すであろうことは容易に想像できただろう。もちろん、生贄役の擦り付け合いをすることも。やがては殺し合いにまで発展することも」
 血気盛んだった村人を思い出す。金のために姪を売った女の声も。
「あんたは復讐をしたかった。それも、自ら村人を皆殺しにするなんて単純な復讐じゃない。そんな内容ならいつでも出来ただろう。あんたの目的は、この村を鬼の住まう村に戻すこと」
 止まない雨が、シロの体温を奪っていく。それに負けないように、シロは両手を握りしめた。
「まさに鬼の所業だよ。寿命が永いからこそ出来た復讐だ。二百年前、討伐された鬼の数は三十数人。そして現在、村に残っていた人間も三十数人。………あんた、この村の住人すべての寿命を、殺された鬼に移すつもりだったんだよな?」
 ふっと、声に出してミドリが笑った。見たことのない笑みだった。
「お見事です。シロさん。あなたが言ったことはほとんど正解です」
「ほとんど?」
「ええ。まず、あなたがたに白羽の矢を立てたのは偶然ではありません。生贄・処刑・婚約者という言葉を使えば、あなたが私を無視できないことは解っていました」
「………なに?」
「それと、若者だった男はもうこの世にいません。私が神関に忍び込んで話をしたとき、彼は死にました」
 シロは軽く目を見開いた。
「でも私が殺したわけではありませんよ。天寿を全うした彼に多少の憤慨は覚えましたけれど、枯れ果てて横たわる老人になにかする気は起きませんでしたから。彼は、二百年前から姿の変わっていない私を見てかなり驚き、当時のことを弁明し、そのまま心臓発作で死にました。………あら、やっぱりこれでも一応は私が殺したことになるのでしょうか」
「わからん」
「まあ、どちらでも構いません。殺そうと思って神関に忍び込んだのは事実ですから。なぜ今になって忍び込んだのか、それは判っていらっしゃるでしょう?」
「村人の数が、二百年前に殺された鬼の数と一致したから」
「正解です」
 にっこりと笑って、ミドリはうなずく。
「老人を看取ってから、私は神関の中を調べました。住民台帳を見たかったのです。確証があったわけではありませんが、復讐の為に使えるヒトが見つかればいいと思いまして。そこで、あなたがたを見つけました」
「…俺たちは、住民台帳には載っていないはずだが」
「ええ。台帳で見つけたわけではありませんよ。何しろ神関に入ったのは初めてでしたから、迷ってしまって。役人に見つからないよう、ヒトの気配を感じるたびに身を潜めていたら、自分がどちらから来たのかもわからなくなってしまい、途方に暮れました」
 苦笑しつつ、ミドリは言う。その様子を、シロは容易に想像できた。シロの知るミドリなら、やらかしそうなことだ。
「そのうちに、厳重に鍵が閉めてある部屋を見つけまして、ここなら誰も来ないと思って少し休憩させてもらったんです。偶然にも、そこで神に対する謀反人の情報を見つけました」
 シロの眉がぴくりと動く。クロを置いてきて良かった。
「天孫降臨からしばらくのち、神族を裏切り、謀反を起こした守護者二人。女性守護者のほうは処刑され、その婚約者だった男性が当時の神とほかの守護者を皆殺しにしたとか」
 ミドリは、すべて理解したうえで話をしている。本当に一人で来て良かったと、シロは心底思っていた。
「男性の名は白雨《はくう》。処刑された女性の名は柘榴《ざくろ》。これはまるで―――」
「ああ」
 シロは大きめの声でミドリを遮った。知らずに目が据わっている。
「シロとクロ。まるで俺たちの名前みたいだな。………どうにも、愛称ってのは分かりやすくて困る」
 言外にすべてを認めたシロに、ミドリはそうですねと同意を示した。
「似顔絵まではありませんでしたから、確信を得たのは少し経ってからでしたけれど。クロさんはあなたを兄と紹介し、時々兄貴やお兄ちゃんと呼ぶのに、あなたは一度たりともクロさんを妹だとは発言しませんでしたね。それに、私が妹思いですねと言ったとき、ずいぶんはっきりと違うとおっしゃっていました。あの瞬間、確信できました」
「なんせ妹だと思ったことがないからな」
「そうでしょうね。ところで、私からも一つお訊ねしたいのですが、どうしてクロさんが生きていらっしゃるのですか? それも、妹として」
「俺の命宝を分け与えた」
「まあ、そんなことが可能なのですか?」
 シロはもう、隠す気はなかった。ミドリの内心を暴いた自分が、隠せるものなど無い。
「あんたは詳しく知らなくても当然だが、命宝ってのは命そのものじゃない。その人間の寿命の半分を宝石の形にしているだけだ。その術をかけた神が生きている限りは効力が続く。もちろん寿命の半分だから、少しずつ年は取っていくが。つまり、俺の命も半分は神のもとに、半分は俺の中に残っていた。その残っていた命をクロに譲った。最後まで生きていた神が―――今も神関にいる神が、命乞いの条件として提示してきた」

―――今、わらわを見逃すならば、そなたも助けてやろう。婚約者とともに。

 二百年前の若者のように、シロはその提案に飛びついた。クロが帰ってくるなら、ほかの何を犠牲にしてもかまわなかった。
「けど蓋を開けてみれば、神はクロに俺の妹だという偽りの記憶も植え付けてたんだよ。俺がクロの為に神も同胞も殺したと知れたら悲しむだろうからとかもっともらしいことを言ってな。しかも、俺には別に婚約者がいて、そいつを殺されたから報復したうえで妹を連れて神関を出奔したなんておまけまで付けやがった。妹なら一緒にいる理由になる、感謝しろとまで言ってやがった」
 もちろんそんなものはただの詭弁で、実際は神の嫌がらせにすぎない。おかげでシロは、婚約者だったクロに兄として接しなければならず、かと言って死ぬことも出来なくなった。シロが死ねばクロも死ぬ。それだけは、再び死ぬことだけは避けたかった。
 それが、言い訳のしようもないほどシロの自己満足だと解っていても。
「ほかになにか質問は?」
「ありません。ようやくすべてが腑に落ちました。神も、ずいぶんと残酷なことをするのですね」
 シロは答えなかった。同意も否定も出来なかったからだ。その代わり、今度はシロから口を開く。
「それで、あんたはこれからどうするつもりだ? あんたの願い通り、村人は互いを殺しあって全滅した。数は合ってるんだろう。殺された鬼に寿命を移すと言ったって、二百年も前の遺体が残ってるのか?」
 雨のせいで張り付いた彼女の髪が、だんだんと本来の色を取り戻そうとしていた。すなわち、輝く金色に。シロがどうにも好きになれなかったあの匂い。あれは、金色の髪を隠す為の染料の匂いだったのだ。すぐに茹だるからなどと言ってクロと一緒に風呂に入りたがらなかったのは、染髪を見られないようにする為。瞳には色硝子を入れているのだろう。眼鏡の代わりになると開発されたそれは、高級なうえに目に異物を入れることの恐怖からあまり普及はしていない。だが手に入らないものでもない。
「遺体はもう土に還ってしまいました。二百年は、長いですよね」
「じゃあ、この事態になんの意味が…」
「あなたと一緒ですよ。ただの自己満足です」
 一緒にするなとは言えなかった。シロだってあのとき、これからどうするのかと聞かれても答えられなかっただろう。
 鬼は空を仰いだ。青のかけらも見えない、雨空を。
「数年の間は、薬と術を使って遺体を保存していたんです。けれど、私一人では三十人は無理でした。せめて兄だけでもと思っていましたが、兄はかなりの切り傷を付けられて殺されましたから、一番保存が難しくて」
 空を仰いだまま、大きく息をつく。
「三日前、シロさんたちと別れてこの村に着いたとき、村はこれ以上ないほどぎすぎすしていました。仕掛けた私が居心地の悪い思いをするほどです。それを見て、自分がなにを望んでいたのか分からなくなりました。それでも私は、彼らが死んでいくのを黙って見ていました。まるで、二百年前の再来のようでした。あのときも、私が言った言葉がきっかけで村人は殺し合いを始めました。………人間は、成長しない生き物ですね」
「ならあんたは成長しているとでも? 二百年も復讐の機会をうかがっておきながら」
 ミドリは視線を空からシロに戻し、くすりと笑った。
「あら、お上手ですね。では鬼も成長しないということでしょう。まあ、もうどうでもいいことです。今の私に充足感はありません。復讐が終わって、もう生きる理由も無くなりました。兄に会いに行きます」
「俺はそれを止めるために来た」
「愛するクロさんのために? でもそれは、クロさんの自己満足ではないでしょうか」
「………」
「シロさんは、つらく苦しく寂しくても、独りで耐えてクロさんを生かす道を選んだのでしょう。私が選ぶ道は違う。それだけですよ」
「それこそ自己満足だな。結衣と舞衣はどうする。連れ出すだけ連れ出してあとは放置か」
「佐井府の村長さんはとても良い方です。二人のことは重々お願いしてあります。お子さんのいないご夫婦に引き取ってもらう手はずになっていて、当面の生活費も渡してあります」
「責任を取ったことにはならない」
 厳しいシロの言葉にも、ミドリは表情を崩さない。
「二人の村を奪ったのは私です。私がそばにいては、彼女たちも幸せにはなれないでしょう。それに…」
 染料が完全に雨に流されて、彼女の髪が金色に輝いた。しっとりと濡れているそれは、彼女にぴたりと張り付いている。まるで、主を守るかのように。
「それに?」
「人間を救うのは、人間であるべきです」
 そう言って、鬼は哀しく微笑んだ。
「私たち鬼は、そのことに気が付いていませんでした。寿命の入れ替えが出来るからと言って、まるで他人を救えるかのように思い込んでいたのです。それは、とてつもない思い上がりでした。……心を救えないならば、なんの力にもなれないのに」
 その瞬間、シロは唐突に理解した。この鬼の、本当の心を。
 その、優しさを。

―――ああ、そういうことかよ…。

 ミドリは優しいのだ。その優しさゆえに、復讐する自分を止められなかった。殺し合う村人たちを止められなかった。生存者を出せなかった。
「…危ういところだったな」
「はい?」
「あんたの演技に、また騙されるところだった」
「私は、もう演技なんて…」
 否定するミドリにかぶさるように、シロは少し声を大きくした。
「さっき、殺し合う村人たちをただ見ていたと言ったな」
「言いました」
「嘘だ。あんたは止めようとしたはずだ。というより、止めるためにここに来たはずだ」
「……なぜ、そう言い切れます?」
「根拠はない。あえて言うなら、それがあんただからだ」
 ミドリはもう笑っていなかった。そこで、シロはやっと気が付いた。笑っていたのは―――無理に口角を上げていたのは、泣いていないと見せかけるためだ。
 彼女はずっと泣いていた。頬を流れる雨と一緒になって、シロに見えなかっただけで。
 それでシロは確信した。
「この復讐劇、考えたのはあんたじゃない。兄貴か仲間から、死に際に頼まれたものだな?」
 びくりと、ミドリの肩がはねた。
「もう一つ。あんたがたどり着いたときにはもう、この村に生存者はいなかったんじゃないのか?」
 ミドリの頬を雫が伝う。雨なのか涙なのかはわからない。
「………生存者、いましたよ。一人だけでしたけれど」
「なら、そいつに死なせてくれと頼まれたか」
 答えがないので肯定だと受け取って、シロは続ける。
「あんたがなにもしなくても、こんな馬鹿らしい因習がある村に未来は無い。二百年続いただけでも奇跡だ。それを、あんたはあえて自分の復讐によって村が滅びたことにした。自分を悪者にすることで、村人は被害者のままでいられるからな。……償いか、兄貴たちへの忠心のつもりかは知らないが」
 おそらくは両方だろう。復讐心も本物だったはずだ。事実、ミドリは数年間は殺された鬼たちの遺体を保存していた。ただ、計画を実行に移すには、ミドリは優しすぎた。
「鬼たちの遺体は保存出来なかったんじゃない。自分の意志で途中で止めたんだ。村人を犠牲にしなくていいように」
 ミドリはうつむいた。急激に、彼女が小さく見えた。
「兄貴と仲間の遺言を守って復讐はしたい。けど誰も犠牲にしたくない。ここまで村が腐るとは思っていなかった。だから、わざわざ俺たちを雇って結衣と舞衣を攫わせたんだな。とりあえずは儀式が延長にでもなればいいと思って」
 だが、ミドリの想像以上にこの村は終わっていた。シロも間に合わなかったが、ミドリも間に合ってはいなかったのだ。復讐にも、償いにも。
 きっと、シロが村で暴れてからすぐに殺し合いは始まったのだろう。遺体の損傷具合から、先に子どもが殺されたのは判っている。生贄の代わりにと殺されて、それに激怒した保護者が復讐して、また殺されて。そんなことを繰り返してこの村は滅んだのだ。
「ここに来るまで、見つけた遺体はすべて両目をつぶっていたし、胸の上で手を組んでいた。服装も整えてあった。鬼に寿命を移す為かと思っていたが、違うんだろ。そもそも、死んだ人間の寿命を移せるとは思えないしな。殺し合いでひどい状態になっていた死骸を、遺体として一つ一つあんたが整えていったんだろ?」
 完全に小さくなってしまったミドリは、うつむいたまま答えない。否定を、しない。シロは歯痒かった。いったいこの世のどこを探したら、この女がここまで苦しむ理由があるというのか。
「もういいだろう。あんたは出来ることは全部やった。もうそろそろ自分の為に生きろ」
 この言葉に、ミドリは視線だけをシロに向けた
「…それ、シロさんが言える台詞ではありませんよ。クロさんの為に自分を犠牲にしていらっしゃるのに」
「犠牲じゃない」
 シロは迷いなくそう答えた。
「責任でもない。贖罪でもない。俺はただ、あいつの絶命した顔を二度と見たくないだけだ。すべては俺の為だ。俺の自己満足の為だけに、あいつに生きててもらってるんだよ。あいつに記憶が戻れば、そんなことは望まないことくらい解ってる」
 解っている。クロはきっと、自分の為にシロが苦しんだと言って泣くだろう。あのとき自ら処刑されに行ったことを悔やむだろう。今度こそ自ら果てることを願うかもしれない。しかしそれでも、シロの命で生きている以上、クロは生きようとするだろう。
 生きながらに、地獄を見ながら。
 そこまで解っていてもなお、シロはクロに生きていてほしいと希うのだ。それがシロの為ではなくてなんの為だというのか。
 シロは村の老人に言った。本気で生きようと、生かそうと思えばいくらでも汚くなれるものだと。
 自分の汚さを知っているからこその言葉だった。
「あんたは、結衣と舞衣と生きるべきだ。あの二人の心を救いたいと思うならまずはあんたがやれ」
「私は鬼です。鬼と人間が相いれないことは、この村の歴史が証明しています」
「種族の違いなんて、男女の違いとさほど変わらねぇよ」
「大胆なことを言いますね。彼女たちの―――村人たちの心を殺し続けてきたのも私ですよ」
「殺されてきたのはあんたもだろうが!」
 シロは、ここで初めて怒号を発した。
「良かれと思ってやってきたことで兄貴と仲間を殺されたんだろう。先に心を殺されたのはあんただ!」
「順番は関係ありません。私がしたことで、この村を狂わせてしまった償いをしなければ」
「死ぬことは償いじゃない!」
「シロさんは強いからそう言えるのです。けれど私はもう、正直言って疲れました。……お願いですから、休ませてください」
 そう言って、ミドリはそのまま後ろに倒れていった。濡れた金髪が宙に舞った。

 その瞬間にシロも大地を蹴った。
 手を伸ばす。
 空を切る。
 落ちていく。
 風が鳴る。
 そうして。

「………どうして…」
 愕然と、ミドリはつぶやいた。その右手に、鎖を巻かれた状態で。視線の先では、シロが鎌のほうを持って自身の腕に巻き付け、ミドリをつなぎとめている。
「あんたのおかげだよ。花嫁修業なんてのたまってくれたおかげで、クロが鎖鎌を欲しがってな。しかもあんたと同じものが欲しいんだと。仕方がないから佐井府で買った」
「あなたは彼女に甘すぎではないでしょうか」
「放っといてもらおう」
「わかりました、放っておきます。だから放してください」
「断る。俺の相方の自己満足の為に、あんたには生きてもらう。あいつ、これを使いこなせなきゃ嫁にいけないと本気で思い込んでるからな。責任もって教えてやってくれ」
「彼女を嫁にいかせるつもりなんてないのに?」
「それはそれだ」
 言い切ったシロに、宙ぶらりんの状態で、ミドリは呆気にとられたようだった。
「言っておくが、俺は意地でもこの鎖は外さない。そもそも、自己満足の何が悪い。自分が満足できないことで誰かを満足させられるかよ」
 ミドリは笑い出した。しかし泣いてもいた。だがやはり笑っていた。
「…あなたのような相方が私にもいれば、なにか変わったのでしょうか。兄が、あなたのような方だったら…」
「時間の流れにもしもは無い。あんたさっき自分で言っただろう。だが仮にもしもがあったとしても、別になんも変わんねぇよ。妹に復讐を依頼する馬鹿さ加減も、あんたの情の深さも。ただ、変わりたいなら、変えたいなら生きることだ。死んだらなにも変えられないが生きていたらなにか変わるかもしれない。もしも、生きていたら。それだけは、在る」
「シロさん…。私は」
「生きろ。あんたは生きて、その情の深さを結衣と舞衣に与えてやれ。それがきっと、二人の心を救うことになる。心を殺されたあんたにしか出来ないことだ」
 いくらミドリが細身とはいっても、人一人を宙にぶら下げている状態は長く続けられない。扱い慣れていない鎖ならなおのこと。ミドリの右腕に巻かれた鎖も、反対側の鎖を巻き付けたシロの腕も悲鳴を上げている。ぎりぎりと締め付けられて、顔が歪む。しかしこのくらいの痛みがなんだというのか。
 生きている証ではないか。
「生きろ。生きろ、―――ミドリ!!」
 叫んだ瞬間、鎖を引っ張られる感覚がした。ミドリが、鎖を握り返したのだ。機を逃さず、歯を食いしばってシロは鎖を引き上げた。肩が外れそうなほどの負荷がかかったが、ミドリを引き上げられるならそんなことはどうでも良かった。


「やっと、名前で呼んでくださいましたね」
 ミドリが笑う。やはり泣きながら、笑っている。
 力尽きてごろりと大地に横になったシロは、緩慢な動作で隣に座るミドリを見上げた。まだ右腕が痺れている。
「そうかもな」
「意地でも私を呼ばない気かと思っていました」
「………翡翠《ひすい》」
「え」
「こっちで呼んだほうが良かったか?」
「どうして、その名を…」
 シロの腕にもミドリの腕にも鎖の跡がきつくついている。そこをさすることも忘れて、ミドリはシロを凝視した。その眼はこれ以上ないほど見開かれている。シロは目をつぶった。寝そべっているので雨が目に入ってくるからだ。そのままの状態で、答える。
「やっと思い出したんだよ。俺が神関にいたころ、どっかの若造が神の護衛兵に志願してきた。あのころそんなのが多かったから、具体的にそれがどこのどいつだったのかは覚えてないし、顔も名前も確かじゃないが、自分の命宝が翡翠の色をしていると言って喜んでいる奴がいた」
「それって…」
「たぶん、そいつが例のじいさんだろうな。自分の望んだ色だったんだと。男のくせに宝石の色であんなに喜ぶのかと思って、記憶の端に引っかかってた。そいつ、言ってたよ」

―――これで、忘れずに済みます。

「今の今まで忘れていたが…。たぶん、あの後に続くのは」

―――自分の罪を。
 
 シロは最後まで言わなかったが、ちゃんと伝わったらしい。ミドリは―――翡翠は、顔を覆って泣き出した。もう、雨で隠れるような涙ではなかった。
 翡翠の涙が止まるまで、シロはただ目をつぶって雨に打たれていた。

 彼女の鎖を流してくれと、願いながら。

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