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 帰り道は寒かった。いや、行き道も寒かったのだが帰りはもっと寒かった。十一月の午後五時過ぎだ。日は暮れようとしている。さっさと帰ってコタツに入って、熱い茶でも飲もう。

 そう思っていたのに、家に帰ってからの方が寒かった。

 誰も、いないからだ。

 親父が生きていた頃も、一人で食事をすることは珍しくなかった。親父は仕事が忙しくて、夕飯時には帰ってこられないことが多かったからだ。それでも親父は、一晩中俺を一人にすることはなかった。

独りになったのだな、と思う。これから先、親父と食事をとることはもう二度とないのだ。今更ながらに思い当たって、玄関で立ち尽くした。

 分っているつもりだったのに、分っていなかった。思えば、親父が亡くなってからしばらくは叔母の家に厄介になっていた。昨日はタケトが来てくれた。本当に一人になったのは、今日が初めてなのだ。

 高校生にもなって、と思う。男のくせに、とも思う。だけど。なぁ、親父。

 俺は、こんな風に一人になるとは思ってもみなかったよ。

 警察からはなんの連絡もない。そういえば今日、黒崎が捜査の進み具合を聞いていた。

 もし、犯人が捕まったら。俺は―――。

 外からがたんと音がして、びくりと肩を震わせた。とっさに振り返る。音は近かった。深く考えることなく、玄関を開ける。

「………紫、さん?」

 隣人が、玄関の前でうずくまっていた。バッグの中身が周囲に散らばっている。

「大丈夫ですか?」

 駆け寄って声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。元々白い肌が、今はさらに青白い。黒目がちな目が少々彷徨ってから俺に焦点を合わせる。と、大げさなほどに身を引いた。うずくまった状態から身を引いたせいで、ぺたんと座り込む形になる。

 そんなに驚かれるような距離にいたつもりはないのだが。

「あの、すみません」

 なんとなく謝ってしまう。彼女は何度か瞬きをして、やっと落ち着いたのか立ち上がった。だが足元が覚束ない。

「大丈夫ですか?」

 もう一度聞くと、首肯が返ってきた。昨日、タケトには二文字とはいえ言葉を返していたのに、俺にはうんともすんとも言わない。

 なんとなく、面白くない。

「歩けますか」

 また首肯。タケトなら、自然に手を差し伸べたりするのだろう。俺にできるのは、彼女がふらふらと歩くのを見ていることだけだ。

 どうにも面白くない。

 身を引いた位置から戻ってきた彼女は、膝を折ってバッグの中身を拾い始めた。手伝うために、俺も身をかがめる。

 そこに、紙製の白い袋があった。あまり世話になることの無い俺でも知っている。これは、病院の薬局でもらう薬袋だ。俺がそれを拾う前に、彼女がさっとバッグに戻した。

「…どこか、悪いんですか」

 ぶしつけな質問だっただろうか。彼女は小さく顎を動かしただけで、それだけでは肯定なのか否定なのかも判らない。

 言葉を続けられずにふと足元を見ると、鍵が落ちていた。キーホルダーも何もついていない、ただの鍵だ。俺が持つものと似ているということは、玄関の鍵だろう。

 拾い上げて、彼女へ差し出す。あ、これも一応手を差し伸べている形だなと思った。

「…ありがとう」

 消え入りそうな声だったが、彼女は確かにそう言った。鍵を受け取った手は冷たかった。

 さほど多くはない中身を拾い終わり、彼女はがちゃりと玄関の鍵を開ける。大丈夫だろうか。部屋に帰った途端また倒れたりしないだろうか。

「紫さん。具合が悪いなら病院に…」

「大丈夫。眠くてふらついただけ」

 彼女の白い顔を見る限り、ただ眠いだけのようには思えない。薬の袋だって持ち歩いているではないか。だが嘘だと断じる根拠もない。ただの風邪薬なのかもしれないし。そういえば昨日、タケトは彼女に眠いのかと聞いていた。常に眠くてふらふらしているのが彼女なのかもしれない。

「じゃあ、あの、お大事に」

 言ってしまってから、それは何か違うだろうと心の中で自分に突っ込んだ。突っ込んだ時には、彼女は扉の向こうに消えていた。

 毒気が抜かれた、というのが一番近いだろうか。部屋に戻った俺は、やかんに火をつけてから着替え、冷蔵庫を開けた。引っ越してきたばかりなので入っているものは少ないが、夕飯くらいならなんとかなりそうだ。昨日、タケトが来たので飯は炊いてある。

 とはいえ夕飯を摂るにはまだ時間が早い。

 息をついて、残っているダンボールに手をつけた。片付けはあまり得意ではないが、片付けなければ片付かない。

 昨日、必要最低限のものは出してある。あと残っているのは、夏物の服とか、本とか、小物類だ。とりあえず夏物の服は押し入れに押し込んでおこうと身をかがめると、視界にアルバムが入ってきた。昨日見つけた、あの写真が貼られているアルバムだ。

 譲って誰だ。

 そっくりってどういうことだ。

 それはつまり、もしかしたら親父は。俺が父親と思っているヒトは、本当は。

「………」

 アルバムから視線を外した。考えたくない。考えるべきことは、他にあるのだ。そう、例えば、タケトは何を考えているのかとか、目前に迫った期末試験のこととか。せっかくクラスの女子たちがノートを用意してくれたのだから、多少は見られる点数を取らないと。

 俺の成績は、いたって普通だ。約二百五十人いる二年生の中で、順番はいつも百位前後。好きな科目は国語と日本史。理数系は苦手だ。幾何学など知らなくても人間は生きていける。

 …勉強するか。

 布団を足でどけて折り畳み式のテーブルを広げる。期末試験の範囲表を出して、見つめる。大体把握した。そして、気が付いた。

 教科書、全部学校のロッカーの中だ。

 思わず頭を抱える。馬鹿かもしれない。いや、馬鹿か。

 まだ部活動が行われている時間だから、学校は開いている。だが取りに行くのは面倒くさい。一度着替えた部屋着からまた制服に着替えるのも面倒くさい。

 もう勉強も片付けも放り出して寝てしまおうか。これはむしろ寝ていろということのような気がする。

 自棄気味に考えていると、携帯電話が鳴った。画面を確認すると、「白峰道場」と出ていた。通話ボタンを押す。

「中村です」

『恭介か』

 しわがれた、しかしよく通る張りのある声が聞こえてきた。俺が通う空手道場の師範で、俺の師匠であると同時に親父の師匠でもある。声を聞くのは親父の葬儀以来だ。

「連絡してなくて、すみません」

『まあそう固くなるな。自分の家だと思って足は崩して良い』

「自分の家です」

 呆れて応えると、かかかと笑う声がした。

『それでお前、今後の稽古はどうする』

「どうって、えーと…」

 どう答えたものだろう。もちろん続けたいのだが、一つ障害がある。黙ってしまった俺の心情を、師範はお見通しのようだった。

『月謝のことなら、気にせずとも良いぞ』

 そう、金だ。

 払えないことはない。親父の貯蓄があるし、保険金も下りるし、これからはバイトもするつもりだ。だが、恒久的に払えるかと言われると自信がない。

『子どもがそんなこと考えんでもよろしい』

「もう高校生です」

『まだ二十年も生きとりゃせんじゃろうが。まだまだ小童じゃ』

「………」

 おっしゃるとおり。師範と比べたら、誰でも小童だと思うが。

『ということで、今から稽古に来い』

「今からですか? でも俺、試験前で」

『なんじゃ、お前教科書持ち帰っとるんか』

 ぐうの音も出ない。

 どこまでもお見通しか。さすがこの街の主と言われる男。いや、俺が分りやすいのか?

「…行きます」

 結局、そう言うしかなかった。

 

 どうせ外に出るなら学校に寄って教科書を取ってこようと思い、私服ではなく制服に着替えてコートを羽織る。マフラーをぐるぐる巻きにして、道着と鍵を手に取った。外に出て鍵をかける時、ちらりと隣室を見たが、無機質な扉からは、何かを読み取ることはできなかった。

 自転車を漕ぐ。風が冷たい。当然ながら道は暗い。学校までは約十五分。教科書を取って、そこからまた約十五分。およそ三十分かけて、道場に着いた。

 何日ぶりだろう。親父の影響で空手を始めて以来、こんなに日を空けて来るのは初めてかもしれない。

 道場と自宅が併設されている白峰家は広い。初めて来たヒトは正面玄関にたどり着くまでに時間がかかるほど。造りは純日本家屋で、なぜか誰もが懐かしいと思える構えだ。

 道場に灯りがついている。吸い込まれるように中に入ると、門下生たちに稽古をつけていた師範代が俺に気付いた。

「恭介!」

 言いながら最上級の笑顔で駆け寄ってきた師範代は、そのまま上段飛び蹴りに入った。読んでいたのでひらりと避ける。と、今度は足払いが来た。飛び上がることはせずに退いて避けると、一瞬で伸びあがってきた師範代は裏拳を繰り出してきた。

 ぱしりと手首を掴んで止める。しんと、その場が静まった。

「…ずいぶんなご挨拶で」

「相変わらずつれないのね」

 白峰道場初の女性師範代は、くすりと笑った。

 手を放す。白くて細い腕は普通の女性そのものだ。そこに黙って立っているだけなら美女と言われるだろうこのヒトは、拳を振るえば瓦の一枚や二枚なら簡単に砕く。割るのではなく、文字通り砕くのだ。それはそれは美しい顔で。

「今なら弱ってるだろうから一発くらい入るかと思ったのに。残念」

 容赦のない物言いはいつものことだから気にならない。それに俺は覚えている。このヒトは、ずいぶんと長いこと親父の遺影に頭を下げていてくれた。

「師範は?」

「ここじゃ、未熟者!」

 声と同時に、風を切る音がした。咄嗟に師範代を突き飛ばして自分も飛ぶ。俺がいた場所に、正確に竹刀が飛んできた。着地する。後頭部に軽い衝撃。

「一本、じゃな」

 振り返ると、師範がにやりと笑っていた。

「空手道場で竹刀投げつけてくるのは反則でしょう」

 手刀をおろされた場所をさすりながら抗議すると、さらに小突かれた。

「ばかたれ。敵がいつでもルールを守るなどと思うでないわ」

「しかもあんた、今あたしを護ろうとしたわね? 一億光年早いわよ」

「…すみません」

 おかしい。俺は何一つ悪くないはずなのだが。

 腰に手を当てて、師範代は続ける。

「武器を投げつけられたら、掴んで投げ返すくらいのことはしなさい」

「避けて済むならそれでいいじゃないですか」

「だから甘いってのよ。向かってくる奴は全員埋めるくらいの気概がないと、空手は極められないわ」

「相手を埋める空手なんか聞いたことありませんよ」

「大丈夫よ。頭だけ出しとけば死にはしないから」

「問題はそこじゃありません」

 そう言ったら、師範代は腕を組んだ。身長は俺とそう変わらないのに、見下ろされているような気分になる。少し間を置いて、師範代は言った。

「そんな甘いことだから、あんたのお友だちもなにも話せないのよ」

「友だち…?」

 思わず師範代を見つめた。

「タケトのことですか。何か知ってるんですか?」

 師範代は笑った。妖艶、というのが近かったと思う。

 タケトは、俺を通じて師範とも師範代とも面識がある。

 街の名主の異名をとる師範の情報網は、それこそ蜘蛛の巣のように張り巡らされている。この街で起こった騒ぎなら何を知っていてもおかしくない。親父が撥ねられたのがこの街の中だったら、犯人を特定することもできるかもしれないほどだ。実際、時々警察の人間が情報をもらいに来ていることを知っている。

「タケトは」

 大木に何をされたんですか。そう聞きかけて、止まった。タケトが話さなかったことを、俺は他人から聞こうというのか?

 卑怯な気がした。

「あら、聞かなくていいの? 教えてあげなくもないわよ。あたしのお婿に来るのなら」

「お断りします」

 くすくすと笑われて、俺は仏頂面になった。

「…着替えてきます」

 

 身体を動かすのは、やはり気持ちがいい。久しぶりだからといつもより入念に柔軟をして、俺はたっぷりと汗をかいた。寒さはあっという間に吹き飛んだ。

 身体にまとわりついていた靄を、少しだけ晴らせた気がした。

 稽古後、俺は師範に呼ばれて母屋にいた。話があるから、ついでに夕飯に呼んでくれるという。正直、散々身体を動かした後で一人分の夕食を作る気は起こらなかったから助かった。

 座卓には、炊き立てご飯とみそ汁、煮魚と漬物が出てきた。サラダもある。煮魚は好物だ。ただ、問題が一つ。

「あたし煮魚より焼き魚が良かったなー。むしろ焼肉食べたいなー」

「…なんでいるんですか」

 俺の隣には、当たり前のような顔をして師範代が座っている。

「のりこさーん。お肉食べたーい」

 しかも、出してもらっておきながら師範の娘さんに注文まで付けている。

「どこの女王様ですか、あなたは」

「誰が女王?」

 細い手が伸びてきた。胸倉を捕まれる。

「訂正を要求するわ。あたしはね、女王じゃなくて女帝なの」

 それは失礼をした。どう違うのかよくわからないが。

「肉はまた今度じゃ」

 言いながら、師範が入ってきた。俺の正面に座る。

「恭介」

 いつもより真剣な表情だ。俺は居住まいを正した。

「ちょっとそこに座りなさい」

「座っています」

「そんな細かいことはどうでもよろしい」

 なんかもう突っ込むのも面倒くさくなってきた。

「なんでしょう」

「高校は卒業しなさい」

 意外にまじめな声で言われたので、返事が遅れた。

「…卒業、するつもりですけど」

「違う。何があっても、卒業しろと言うておる」

「何がって…」

「お前の人生、これからつらいことが多くなる」

「………」

 黙っていると、隣で煮魚をつついていた師範代が軽い調子で言った。

「つらいでしょうねぇ。親兄弟が誰もいないんだもの。一人になったんだもの」

「親戚くらいは、いますよ」

「それはあんたの家族なの?」

 本当に容赦がない。もしかしたら二人は、俺が叔母からの同居の誘いを断ったことを知っているのかもしれない。

 ふと、さっき草野家から帰ってきたときの部屋の冷たさを思い出す。

 あれが、今後は毎日。来る日も来る日も、ただ冷たい部屋が。

 ―――ぞっとした。

「恭介」

 呼ばれても、顔を上げられなかった。ぱしんと頭をはたかれる。師範代だ。

「返事」

「………はい」

 ゆっくり顔を上げる。師範と師範代が俺を見ていた。

「お前にはわしらがついておる」

 力強く、師範は言った。

「じゃから、何も心配せずとも良い」

「師範…」

「でも世の中ってのは理不尽なもんなのよね。あたしたちがどんなにあんたを護ろうとしても、あんたが何か問題でも起こそうものなら、それで高校中退なんてしようものなら、絶対に言われるわよ。「やっぱりね」って。何も知らない連中が、知った顔でそう言うの」

 師範代の声は冷めたものだ。だから、余計に現実味があった。

「あんたがあんたを護る為よ。周りの連中に何も言わせない為に、適当に勉強して高校は卒業しときなさい」

 ここで「しっかり勉強して」と言わないところが師範代らしい。

「学費が心配?」

「いえ、それは…大丈夫です」

 学費は、たぶん親父の遺産で賄える。公立高校だし、修学旅行も終わっているから積立金ももう払わなくていい。バイトをすれば、高校を卒業するまでくらいはなんとかなると思っている。もともと高校を卒業したら進学せずに就職するつもりだった。

「働こうと思っています。予定より、少し早まったけど」

「やめときなさい」

 きっぱり言われて、少しむっとした。

「どうしてですか」

「あんたは高校と空手とバイトと家事をすべてこなせるほど器用じゃないわ。あっという間に身体を壊すのがオチよ」

「でも、タケトだってバイトはしています」

「お友達は空手をしてないし、家事ったって手伝いくらいでしょ。それとも、彼はバイト代で家計のやりくりをしているの? 食費も水道光熱費も学費も全部?」

「それは…」

 確かに、していないが。

「まずは、自分に出来る事をしなさい」

「出来る事…?」

 首をひねる俺に、答えたのは師範だった。

「今のお前に出来る事はな、学校へ行って適当に勉強をして、良く寝良く食べよく遊び、空手の稽古に来ること。つまり、日常を取り戻すことじゃ」

 日常。確かにそれが日常だった。だがもう、そこに親父はいない。

 日常は、もう返ってこない。

「もとに戻せとは言うとらん」

「………」

「現状を日常に出来て、余裕が出てきたらバイトでもなんでもするがよい。お前がこのまま無理をすることなど、誰も望んでおらん」

「無理してる自覚は、ないんですけど…」

「ここに制服で来ているのがいい証拠じゃろうが。以前なら、わざわざ学校に寄って教科書を取ってくることなどせんかったはずじゃ」

 そうだろうか。そうかもしれない。どうせ明日には学校へ行くのだからと、今日の分は明日勉強すればいいやと、そう思ったかもしれない。

 だが、どうすればいいのだろう。本当に、無理をしているような自覚はない。ただ、ただ俺は―――。

「心配するなと言うたじゃろう」

 師範の声は変わらず力強かったが、同時に優しかった。

「これからは、わしがお前の後見人じゃ。お前が独り立ちするまで、何があっても親父の代わりにお前を護ると約束しよう」

 正直、師範がここまで言ってくれるとは思っていなかった。うれしかったのだと、思う。

「だから、お前も約束しなさい。高校を卒業することと、つらいと思ったら必ず誰かを頼ること」

「…はい」

 ごく自然にそう言えた。

「あと、毎日歯を磨くこと。食事をするときは三十回噛むこと」

「小学生じゃないんですから」

「風呂で歌う時は鼻歌ではなく本気でフルコーラス歌うこと」

「意味が分りません」

「あたしのお婿に来ること」

「お断りします」

 口を出してきた師範代にきっぱりと言う。真面目に話していたかと思うとこれだ。これが、日常だ。

「ああ、それと」

「まだ何かあるんですか」

「負けてもいいけどやめないこと」

「何を?」

「決まってるじゃない。―――生きることよ」

 言い切る師範代は、この世の誰よりも背筋が伸びているように見えた。

 このヒトを美しいと最初に言ったのは、誰だっただろう。「きれい」よりも「美しい」が似合うねと、言っていたのは。

 誰でもいい。あの言葉の意味が、少し分ったような気がした。

 

 食事を終えて、少し雑談した。途中で師範代の携帯電話が鳴り、彼女は部屋を出ていった。師範と向かい合って緑茶をすする。

「新居の住み心地はどうじゃ」

「まだ片付け終わってないんですけど、まあ、俺一人なら狭すぎるということもないです」

「隣近所に挨拶はしたか?」

「はい。引っ越す前に叔母と」

「叔母上か。随分と世話になっているようじゃな」

「そうですね。本当に…」

 言いかけて、ふと思った。あの写真。

 やっぱり叔母は、あの写真を俺から遠ざけようとしたのだろうか。

「どうした?」

 師範なら、もしかしたら「譲さん」の正体を知っているかもしれない。この街のあらゆる情報を網羅し、親父を通して、生前の母親とも交流があったこの人なら。

「師範…」

「ん?」

 言いかけて、口を閉じた。聞けなかった。

 つまり俺は、こう聞こうとしているのだ。

 

―――俺の母親が、親父を裏切っていた可能性はありますか?

 

 そんなことを、どうして俺が聞けるだろう。どんな答えが返ってきても気まずいだけではないか。そもそも、師範が知っているかどうかも分からないのだ。無用な心配はかけないに越したことはない。

「なんでもないです。俺、そろそろ帰ります」

 師範は一瞬考えたようだったが、時計を見てうなずいた。

 

 自転車で風を切る。頬が冷たい。手袋もコートもマフラーも身に着けているが、顔には何もつけられない。目出し帽があれば暖かいのかもしれないが、あいにく職務質問を受けるのはごめんだ。

 白い息を吐きながら家路を急ぎ、自転車置き場に愛車を置いていると、かつんかつんと階段を下りてくる音が聞こえた。根拠もないのに確信があった。

「こんばんは」

 立野紫が、下りてきていた。先ほどよりも足取りがしっかりしている。数時間しかたっていないが、眠って回復したのだろうか。

「…こんばんは」

 だが、返ってきた声はやはり消え入りそうだった。

 お出かけですか、と聞こうとしてやめた。二階に住む彼女が下りてきたのだから、お出かけに決まっている。

 彼女の行先に興味はない。ならば、さっさと「じゃあこれで」と挨拶して部屋に帰ればいいのだ。わかっているのに、なぜか足が動かない。彼女も動かない。いや、彼女が動かないのは俺が通路を塞いでいるからか。

「すみません、邪魔でしたね」

「うん」

 うんて。

「お急ぎでしたか」

「別に」

 別にかよ。

 何かにくじけそうだったので、会話を切り上げることにした。今のが会話として成立しているかどうかはともかく。

「じゃあ、これで」

「何かあったの?」

「は?」

「タケトくん」

 自転車置き場の頼りない光が、彼女の白い肌を浮き上がらせている。そこから感情は読み取れない。

「ひょっとして、これからタケトの代わりにバイトですか」

「うん」

 そういえば、タケトが言っていた。ヘルプが必要な時には、彼女もホールに出ると。しかし、俺が言うのもなんだが、こんな調子で接客業ができるのだろうか。

「ちょっと問題を起こしたから、家から出られないんだと思います。どうしてそうなったのかは、俺も聞かされてないんですけど」

「そう」

「じゃあ、お気をつけて」

 俺がそう言うのを待っていたかのように、彼女は歩き出した。お互いに少し避けてすれ違い、俺は階段に向かう。のぼり始める前にちらりと振り返ったら、彼女はもう見えなかった。

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