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 翌日。

 タケトはやはり学校に来なかったが、大木は来ていた。両頬に張られた湿布が、タケトの暴力を物語っていた。口元が切れているし、頬だけじゃなく瞼も腫れて、半分くらい目が閉じた状態になっている。

 それでも、だからこそ確信があった。大木が何かしない限り、タケトはここまではやらない。絶対に。

「なぁ、タケトと何があったんだよ?」

 西野がしつこく聞いているが、大木はぶすっとして何も答えようとしない。

 違和感があった。大木が何も答えないのは、たぶん自分が「何か」した覚えがあるからだろう。一方的なタケトの暴力だと騒ぎ立てないのは、タケト自身か第三者かが、大木にも非があったという証拠を握っているからかもしれない。

 それはいい。いや、気にはなるが、違和感を覚えたのはそこじゃない。

 なぜか、俺が睨まれている。

 今朝教室に入った時からずっとだ。扉を開けたら目が合って、すれ違う時に舌打ちされた。俺が視線を合わせようとすると目を逸らす。

 俺がタケトと特に仲がいいのは周知の事実だ。だから、大木が俺にいい印象を持っていなくても不思議には思わない。だが、今まではここまで露骨ではなかった。タケトに殴られて、ついでに俺のことも憎くなったのだろうか。別に大木に好かれなくても構わないが、他人にずっと睨まれているというのは居心地が悪いものだ。言いたいことがあるのなら、聞かなくもないのだが。

「あ」

 昨日取りに行った教科書を鞄から出していたら、ルーズリーフの束が出てきた。そういえば、まだ女子に礼を言っていない。

「結城」

「ん?」

 立ち上がって、手近にいた女子に声をかける。ショートカットがよく似合う結城は、雑談を止めて振り返った。うちのクラスの女子委員長だ。

「これ」

 ルーズリーフを掲げる。

「助かる。ありがとう」

「ああ、どういたしまして」

「お前が言い始めてくれたんだろ?」

「誰がってわけじゃないよ。みんなで決めたの」

「そうか。悪いな」

「まぁ、あたしらにはそんなことしか出来ないからね」

 いい奴だな、と思った。逆の立場になった時、俺に同じことができるだろうかとも。

「無駄にしないように、せいぜい試験がんばるわ」

「そうね。赤点取ったら女子全員にパフェおごりね。もちろん飲み物付きで」

「こえぇ…」

 思わずつぶやいたら、結城はにっと笑った。俺も笑った。そういえば、と結城は少し声を落とした。

「昨日、草野のところに行ったんでしょ? なんか聞けた?」

「いや、何も。完全黙秘」

「そっかー。あいつ柔軟そうに見えて実は頑固だもんねぇ」

 少し驚いた。よく観察している。タケトは、結城の言う頑固な部分を他人に見せまいとしている節があるのだが。

 と、そこに低い声が入ってきた。最初は聞き取れなかった。俺も結城も談笑を止めて周囲を見る。

 大木と目が合った。今度は逸らされなかった。

「なに笑ってんだって言ってんだよ!」

「なにって…」

 結城がつぶやく。がたんと大きな音を立てて、大木は立ち上がった。そのままの勢いで机を蹴り飛ばす。教室内から小さな悲鳴が上がって、大木の周囲にいたクラスメートが彼から距離を取った。

「どうせお前らも草野の味方なんだろ! おれが悪いと思ってんだろ!」

 なんだそれは。

「訳がわからねぇよ。タケトと何があったんだ?」

 冷静に問いかけたのが、逆に大木の気に障ったらしい。今度は椅子を蹴りあげた。

「どいつもこいつもバカにしやがって…。おれは本当のことを言っただけなんだよ!」

「本当のこと?」

「お前が!」

 叫んで、大木は俺を鬼の形相で睨みつけた。怖くはないが気味が悪い。

「お前の親父が死ぬから悪いんだろうが!」

「………なんだと?」

 自分の声が低くなるのがわかった。なんでそこで親父が出てくる。

「誰もかれもが中村は可哀想だとか気の毒だとか抜かしてやがる。なんなんだよ、親は生きてりゃいいってもんじゃねぇだろ!?」

「ちょっとあんた…」

 言いかけた結城を制する。俺よりも頭一つ分背の低い結城が見上げてくるのが分ったが、俺は大木を見ていたので視線が合うことはなかった。

「それで?」

「そんなに可哀想ならおれの親をくれてやるって言ったんだよ。お前両親ともいないんだろ? おれは両親ともいらないから、ちょうどいいじゃねぇか!」

「お前の両親は俺の親じゃねぇよ」

「すかしてんじゃねぇ! お前だって本当はせいせいしてるんじゃねぇのか、親がいなくなって自由になっただろ!? 今だって女子と笑ってたじゃねぇか、偉そうにしやがって!!」

 俺がいつ偉そうにした。俺にはクラスメートと笑いあう権利もないのか。

「親をやるって言ったら、中村を可哀想だって言ってたやつらが何言ってんだって言ったんだ。まるでおれがおかしいみたいに…可哀想みたいに言いやがった!」

 大木は肩で息をしている。怒鳴り散らして呂律が回っていない。

「腹が立ったから胸倉掴みあげてやったら、草野が急に出てきたんだよ」

 ならタケトは、その生徒を助けた形になるのか。いや、たぶんあいつに助けるつもりはなかっただろう。

「人を散々殴っておいて、草野の親父は警察に圧力をかけたんだ。おれの被害届を受理しないとか言ってやがった。おれは何も悪くないのに…。おれは本当のことを言っただけなのによ!」

 タケトが殴ったのは、ただ大木に腹が立ったからだ。

 がらりと音を立てて、教室の扉が開いた。黒崎と、他に男の教師が二人入ってくる。誰かが呼びに行ったのだろう。

「大木、何してる!」

「うるせぇ! お前らもあいつらの味方だろうが!!」

 自分で蹴り飛ばしていた椅子を持ち上げて、大木はめちゃくちゃに振り回し始めた。

「やめなさい!」

 うるさいとも、うああとも表現できるような雄叫びをあげて、大木は暴れた。他の机が倒れ、クラスメートが逃げ惑い、教師さえも下がっていく。

「中村…」

 気遣わしげに結城が声をかけてくる。俺は独白のようにつぶやいた。

「タケトは、俺の為に殴ったんだな…」

 大木がつっかかってくるのを、タケトはいつも適当に受け流していた。相手にしていなかった。何を言われても、あいつは自分の為には怒らなかったのに。

 がしゃんと派手な音を立てて、教室の窓ガラスが割れた。大木が椅子を叩きつけたのだ。廊下には、他のクラスの生徒たちも見学に集まり始めていた。

「もっと男の先生呼んで来い!」

 誰かが叫んだ。

「必要ねぇよ」

 言ったのは俺だった。

「中村?」

 持っていたままだったルーズリーフを、机の上に戻す。

「要は、あいつを止めればいいんだろ」

「いや、あんたが空手をやってるのは知ってるけど…」

 俺に向かって椅子が飛んできた。結城の腕を引いて避ける。後方で壁にぶつかる音がした。大木は、すでに次の椅子を持ち上げている。

 哀れだと思った。

 同時に、床を蹴った。大木を取り囲んでいた教師たちを避け、懐に入る。

「中村!」

 結城が声を上げた時には、俺の拳は大木のみぞおちにめり込んでいた。

 騒然としていた教室が、静まり返る。大木は、何が起きたかわからなかっただろう。声も出さずに倒れ掛かってきた。体格のいい彼を受け止めて、ゆっくりと降ろす。

 降ろし終えて振り返ると、黒崎が青い顔で俺を見ていた。俺が白峰道場に通っていることは知っているはずだが、やりすぎただろうか。こうするしかないと思ったのだが。青い顔のまま黒崎は何かつぶやいたようだが、よく聞こえなかった。

やがて、黒崎の隣に立っていた教師が担架を持って来いと生徒に指示を出し、大木は保健室に運ばれた。

 その後のことはよく知らない。大木の親が出張から帰ってきて息子を連れて帰ったらしいと、西野から聞いたくらいだ。ちなみに俺は、ちょっと小言を食らっただけでお咎めなしだった。状況的に仕方がないと判断されたのだろう。

 結局、タケトも処分の対象にはならなかった。大木に胸倉を捕まれ結果的にタケトに助けられた生徒が名乗り出たからだ。

 大木が帰ってもタケトが出席しなくても、授業は滞りなく進む。俺が忌引きの間も、こうして授業は進んでいたのだろう。ただ、俺の場合はノートをとってくれるクラスメートがいた。家まで来てくれる友人がいた。大木には、そういう相手はいるのだろうか。

 同情するわけではないが、少し、考えていた。

 

 放課後、タケトの家に行こうかと思ったが、メールで出かけていると知らされた。大木の親が帰ってきたから、謝罪に行っているのかもしれない。

今日は鞄に教科書が入っていることを確認して、学校を出る。アパートからほど近くにある商店街によって、夕飯を仕入れることにした。一人分作るのは面倒なので、惣菜で済ませるつもりだ。いくつかの店を物色して、「わぁ おかずや」というとてもわかりやすい名前の店の前で自転車を止める。和食が多い。そうか、「わぁ」とは「和の」とかけているわけだ。なるほど。

 一人で感心していたら、小さく「あ」という声が聞こえた。反射的に顔を上げる。

 店の中に、立野紫が立っていた。

「…こんにちは」

「こんにちは…」

 商品棚を挟んで向かい合う。黒目がちの目が、俺を見上げた。見上げただけで何も言わない。なんとなく焦る。

「あーっと…。買い物ですか」

「うん」

「昨日は、タケトの代理ありがとうございました」

「いえ」

「夕飯は、魚ですか」

「そう」

 お客さまの中に、このヒトと上手に会話できる方はいらっしゃいませんか。

 飛行機の中だったら、俺はそう放送していたかもしれない。しかしここは飛行機の中ではなく「わぁ おかずや」の中だ。

 会釈して別れればよかったのだろうが、あいにく彼女と俺は隣人同士だ。ここで別れてアパートでまた会っても気まずい。結局俺は豚の角煮とサラダを買って、自転車を押して彼女と並んで帰った。彼女の荷物も、自転車のかごに入れた。

 彼女の足取りはしっかりしている。今日は眠くないらしい。

「………」

「………」

 沈黙が、重い。

 俺は元来、他人と親しく話が出来る性質ではない。というか、出来ない。親父は得意だった。営業マンだからというのもあっただろうが、とにかくヒトと話すのが上手だった。タケトもそうだ。親父とはタイプが違うが、他人と話せるという点では同じだ。

 だが、親父はもういない。ここでタケトに頼るのは、なんとなく癪だ。考えて、口を開いた。

「紫さんは、あのアパートに住んで長いんですか」

「…三年くらい…」

 返事が返ってきたことに安堵した。なぜ安堵しているのかは分らなかった。

 俺と彼女の共通項といえばタケトしかいないが、前述のとおり、なんとなく今はタケトを頼りたくなかった。本当に、なんとなく。

 しかし彼女のことをあれこれ聞くのは気が引けた。かといって俺のことを話すにもネタがない。もしも俺があのアパートに引っ越してきた理由になったら、今以上に空気が重くなるに違いない。

「魚、好きなんですか」

 彼女のおかずを思い出して聞く。

「好き」

「俺も好きです。特に煮つけ」

「そう。…私は…焼いたのが好きかな。一番は、お刺身」

 驚いた。彼女から二言以上返事が来たのは初めてだ。好きなものの話なら乗ってくるということだろうか。

「刺身、いいですね。俺はこの時期は胡麻鯖をよく食べます」

「ああ、ゴマサバ…。私、その料理の存在知ったの、最近だけど」

「え?」

「この地域以外じゃ珍しいから」

「それは…知りませんでした」

 俺は産まれてこの方県外に住んだことがない。修学旅行などの学校行事では県外にも行ったが、食文化の違いには気が付かなかった。

 いや、それよりも。

「紫さんは、県外の出身なんですか?」

 女性にあれこれ聞くのはどうかと思っていたが、この流れなら自然だろう。深く考えることなく口にしたら、彼女が止まった。明らかに口が滑ったという顔をしている。表情が乏しいはずの彼女が、困っているのがわかった。悪気はなかったのだが悪いことを言ってしまった気になる。

「いや、えーと…。うちは、親父が魚をさばけたんですけど…」

 話を変えようと思ったら親父の話題を出してしまった。しまったと思うが仕方がない。

「でもそれが、豪快で。味はすごく良かったんですけど、大きさは揃わないし台所はめちゃくちゃにするし、片付けたと思ったらどかしただけだし」

 話していたら思い出してきた。忘れていたわけではないのに、もう親父は「思い出す」ヒトなのだ。

「最終的には、俺が全部やることになって、親父はビール飲んで笑ってるんです。やっぱり、豪快に」

 

―――恭介はお母さんに本当に似てるなぁ。お母さんも、文句を言いながら片付けてたよ。

そりゃまあ、これ以上台所を破壊されるよりは自分で片付けた方が楽だからな。

―――繊細すぎると禿るぞー?

俺が繊細なんじゃなくてあんたが大雑把すぎるんだよ!

 

 日常だったのに。

 あれが、日常だったのに。

 こんなにも遠い。

「…うちの、親父は」

 続かなくなった俺を、紫さんは少し首をかしげて見上げていた。二人とも、足が止まってしまっている。アパートはもう、目の前なのに。

「…亡くなったの?」

 言葉にならなかったので、黙ってうなずいた。彼女は小さく「そう」と答えた。

「だから、あなたも死にそうなの?」

 声のトーンは変わらないはずなのに、彼女の言葉は大きく俺を揺さぶった。

「死にそうって…」

「そう見えたの」

 先ほど動揺を見せていた彼女は、もういつもの乏しい表情に戻っている。責められているわけでも、同情されているわけでもない。ただ、俺を見ている。

 俺は、一応ちゃんと食事をとっている。睡眠もとっているし、身体に不調はない。なのになぜ、否定できないのだろう。

「…死にたがっているように、見えますか」

 そう聞いたら、彼女は首を横に振った。でも、と続ける。

「死んでもいいと思っているようには、見える」

 はっきりと、自分の表情が固まった。

 何も言い返せなかった。それはつまり、肯定だということだ。

 見抜かれているのだ。たぶん、タケトにも、師範や師範代にも。ひょっとしたら叔母にも。

俺はわかりやすいらしいと、昨日そう自覚したばかりだ。

 しかし、出会って間もない紫さんにまで見抜かれているとは思わなかった。

 昨日、道場で言った言葉に嘘はない。師範の言葉がうれしかったのも本当だ。ただし、高校を卒業するのもそのあと働くのも、生きていればの話だ。

 人間に限らず、生きていればいつか死ぬ。卒業する前に病気か何かで死んでしまったら、それも仕方ないのではと思っているのだ。

 つまるところ、俺は「生きていこう」とは思っていない。積極的に死ぬ気がないだけだ。

 誰にも言っていないし、誰かに言うつもりもなかった。そんなことを言えば、「お父さんの分も頑張って生きなくちゃ」などと言う輩が出てくるに決まっている。想像するだけで不愉快だ。

「……間違っていると思いますか」

 自分の目が昏くなっていくのが分る。紫さんの表情に、変化はなかった。

 彼女はなんと言うだろう。ガンバッテなどと言われたら、たぶん二度と口を利きたくなくなる。多少、彼女のことが気になっていようとも。

 ややあって、紫さんは口を開いた。

「別に、あたしは、それでもいいけど…」

「………いいけど?」

「それ、誰かが望んでるの?」

「え…」

「あなた自身も含めて」

 風が、吹いた。

 答えられなかった。黒目がちな目から視線を外せずに、彼女を見ていた。

 肩より少し下で揃えられた髪が遊ばれて、一瞬だけ彼女の表情を隠す。

「…さむい」

 彼女の声ではっとした。自転車のグリップを握る右手に、知らないうちに力が入っていた。

「そうです、ね」

 どちらともなく再び歩き出す。俺は言葉を見いだせず、彼女も何も言わなかった。

 自転車置き場に入り、かごから二人分の荷物を取る。荷物を渡すと、彼女は「ありがとう」と言って受け取った。

「紫さん」

 呼びかけてから、続く言葉を探す。彼女は止まって待っていてくれている。

「親父、も」

―――恭介。

 声が。

「親父も、望んでいないと思いますか。死んでもいいと、俺が思うことを」

―――恭介。

 声が、聞こえる。

「知らない」

 彼女の声に、抑揚は無い。

「あたしはあなたのお父さんを知らないから、知らない」

―――恭介。

 耳の中で、こだまする。あの声が。

「あなたが「死んでもいい」って思うことを望むようなヒトだったのか、知らない」

「それは…」

 そんなことを、親父が望むわけがない。俺から見ても親バカだったあの親父が。

そんなことに、今更気が付いた。

 親父。

唇を噛んで、うつむいた。たまらなくなって、自転車置き場から逃げるように彼女を置いて駆け出した。何かを言ったら声が震えそうだったのだ。

 階段を駆け上がり、部屋に入って鍵を閉める。冷たい玄関に座り込んだ。

「…とうさん…っ」

 親父が死んでから、初めて泣いた。

 

 寒くて目が覚めた。

 携帯電話のディスプレイは、午前三時を指している。

「いって…」

 頭痛がする。泣き疲れて眠ったりするからだ。目の周りもひりひりする。高校生にもなってと情けない気持ちになったが、気分は少しすっきりしていた。

 とりあえず電気ストーブとコタツの電源を入れて、コートを脱ぐ。着替えずにうずくまって眠っていたせいで、制服のシャツに皺が寄っていた。まあ、ブレザーで隠れるから問題はない。そういえば、引っ越してきてからまだアイロンを見ていない。片付けきれていないダンボールの中だろう。

 頭痛はしているが頭は妙に冴えていて、また眠る気にはなれなかった。というか、今から寝たらたぶん寝坊して遅刻する。起きておくことに決めて、やかんを火にかけてから、腹が空いていることに気付いた。放り出していたビニール袋をあさって、夕飯のつもりだった角煮を取り出す。

 凍らせていた白米とともにレンジで温める。やかんが沸騰するのを待ちながら、ふと壁に目を向けた。あの壁の向こうには、隣人がいる。

 悪いことをしてしまった。いくら泣き顔を見られたくなかったとはいえ、「ちょっとすみません」くらいは言えただろう。礼節を書く人間にはなるなと、親父にさんざん言われていたのに。あの後彼女は、部屋に帰って焼き魚を食べたのだろうか。

 明日、いやもう今日か。詫びを入れに行こうと思う。それと礼だ。なんの礼かと聞かれれば、頭をすっきりさせてくれた礼だ。

 インスタントの味噌汁を作って、温めた角煮とともに食べた。「わぁ おかずや」の角煮は美味かった。ネーミングセンスはともかく、味付けのセンスはあるらしい。次はほかのおかずも食べてみよう。

 

 試験勉強をしなければならない人間は、往々にして部屋の掃除をしたくなるものだ。これはもはや、世の中の常識だろう。常識だと信じている。

 したがって俺は、ダンボールを片付けていた。いや、勉強もした。…少しくらいは。

 押し入れを片付けていると、嫌でもあのアルバムが目に入る。しかしどういうわけか、昨日までよりも落ち着いた気持ちでいられた。慣れたのかもしれない。アルバムを手に取り、件の写真を台紙から剥がす。やはり何度見ても、「譲さんそっくり」と書いてある。思いついてほかの写真も台紙から剥がしてみた。一つ一つ裏返す。裏書があるのは、あの写真だけだった。あれを書いたのが母親だとしたら、無理もないことと思えた。俺を産んだ後、母親は退院せずに亡くなっているからだ。

 「譲さん」の正体について、知りたいと思う気持ちも知りたくないという気持ちもある。知ってどうするという気持ちもある。

 この写真を撮ってから約十七年。どうして今更見つけることになったのだろう。

「―――………」

 そうだ。なぜ俺は、この写真の裏書を見つけたんだ?

 正確に言うなら、見つけたのはタケトだ。きっかけになったのは親父の死だ。しかし、親父が生きていたとしてもいつかは見つけただろう。このアルバムはずっと家にあったのだから。

 そもそも、この写真を貼りなおしたのは誰だ。普通に考えれば親父だろうが、それは何の為だ? 写真を貼りなおす理由として思いつくのは、貼った位置が気に入らなかったとか、写真を処分しようとしたとかそんなことくらいだが、なんせ十七年だ。今更位置が気に入らないからと貼りなおしたとは思えないし、写真は処分されずにここにある。

 いや待て。その前に、貼りなおすもっと以前にこの写真を最初にアルバムに収めたのは誰だ。これも、親父しか思い浮かばない。しかし、いくら親父が豪快で大雑把だったとしても、裏書に気付かずに貼ってしまったなんてことがありえるだろうか。

 もしかしたらこれは、母親の裏切りの証拠かもしれないのに?

 いやいや、証拠だとしてもおかしい。これを書いたのが母親だとした場合、母親は自分の裏切りの証拠をわざわざ写真に残したということになる。どんな神経の持ち主でも、そんな真似が出来るとは思えない。

 しかし、これを書いたのが母親ではないとしたら、もっとおかしなことになる。この写真にはどう見ても俺と親父と母親しか写っていない。他人が裏書をする余地がないのだ。

 しかし、しかし。

「…ダメだな…」

 思わずつぶやいた。元々、小難しいことを考えるのは苦手なのだ。身体を動かすほうが性に合っている。そういうところは、親父に似たらしい。

 写真をテーブルの上に放って、寝転がった。息を吐く。

 しばらく天井を見ていたが、やがて首をひねって壁を見た。隣人の両親はどんなヒトだろうと、ふと思う。そんなことは俺には関係ないはずなのに、聞いてみたい気がした。

 携帯電話で時刻を確認する。ダンボールを片付けてしまうか、勉強に戻るか。少し考えてから、勉強することにした。

 

 タケトに叩き起こされた。

「おはよう、恭介くん」

「………何してんだ、お前」

 寝ぼけ眼で、叩かれた頭をさすりながら俺は言う。

「何してんだ、ねぇ…」

 にっこりと、タケトは笑った。笑ったまま、包帯を巻いた手で俺の胸倉を掴んだ。

「お前こそ何してんの? 今何時だと思ってんの? 学校に行かない時は連絡が必要だって教わったよね? ちなみに今が何月だか知ってる? コタツってのはね、確かに暖房器具だけど寝る時に入ってたら風邪ひくんだよ? ああ、もしかしてバカは風邪をひかないってことを自らを実験体にして証明しようとしてくれたのかな? だとしたらオレはその自己犠牲の精神を尊重すべきなのかな? 何をどうしたらこのタイミングでそんなデンジャラスな実験をしようと思うのか理解に苦しむけど、それはオレの理解力が足りないから悪いのかな?」

 どこで息継ぎしてんだ、こいつ。

 まあどうでもいいか。今、大切なのはそういうことじゃないらしい。

「…悪い」

「悪い? どっちが? 何が? 具体的にどの辺が?」

「俺が悪かった。…心配かけて」

 座りなおしてそう言うと、タケトはやっと溜飲を下げたようだった。胸倉が解放される。

「まぁ、わかればいいんだけどさ」

 携帯電話で時刻を確認すると、午前九時を過ぎていた。完全に遅刻だ。制服姿のタケトは肩で息をしているし、この時期に汗で髪が額に張り付いている。怒っているからというだけではないのだろう。

 昨日紫さんに見抜かれたことをこいつもとっくに見抜いていたとしたら、まさに余計な心配をかけてしまった。反対の立場でもきっと血の気が引いている。本当に悪いことをしたと思う。思うが。

「お前、最近乱暴になってないか?」

「あれ、それが昨日、教室で大木にボディーブローかました奴の台詞かな」

 もう知っているのか。まだ二十四時間ほどしか経っていないうえ、昨日こいつは学校にいなかったのに。

「あれは別に暴力じゃねぇよ」

「そうだね。痛めつける為の力じゃなくて暴走を止める為の手段だったみたいだ。けど、大木の側にしてみたら結果はそう変わらないよ」

「まあ、確かに」

 それ以上の反論は止めておいた。タケトに口で勝てたためしはないし、大木に対して全く私情がなかったのかと聞かれればそうでもないからだ。

 俺が大木を殴ったことを知っていて、それがなぜかも知っているということは、タケトはもう、自分が起こした暴力事件の背景を俺が知ったと知っているだろう。

 タケトは何も言わなかった。俺も何も言わなかった。

「で、結局のところ恭介くんは、この写真について考えてたから寝過ごしたわけ?」

 コタツの上に放ったままになっていた写真を持ち上げて、タケトは言う。

「「譲さん」の正体について、一人でああでもないこうでもないと考えていたわけだ。柄にもなく難しいことを考えようとするから寝過ごしたりするんだよ」

 やれやれとでも言いたげだ。

「柄にもないことは百も承知なんだよ。でも視界に入ってくるんだから仕方がないだろ」

「そんなに気になるんなら調べようよ」

 タケトは、写真を俺の目の前に突き出した。

「この写真の真相」

 咄嗟に返事が出来なかった。調べるということは、それはつまり。

「そう、つまり。恭介を育ててくれた浩介さんは、本当に恭介の父親なのかどうか。心情的なものはともかく、血のつながりにおいて」

 そういうことだ。

「真相を知るのが怖いなら、この写真のことはもう忘れるべきだよ。アルバムごと叔母さんのところへ持って行って、何も見なかったことにすればいい。最初はそうなるはずだったんだしね」

 突き出していた手を下ろして、タケトは続ける。

「でもまあ、怖がる必要はないと思うけど」

「どういう意味だ?」

「真相がどうであれ、現実は一つだからだよ。浩介さんは愛情たっぷりにお前を育ててくれた。誰から見ても親バカだった。それだけだろ?」

 コタツの上に置いた写真の親父を、タケトは指先で軽く叩く。

「まあ、だからこそ怖いのかもしれないけどさ」

 そうだな。確かに、そうだ。

「ほかにも理由はあるよ。いつ誰が書いたものであれ、浩介さんはたぶんこの裏書の存在を知っていた。状況的に、知らなかったと思う方が無理があるからね。で、それを隠しもしていなかったってことは、恭介に見られても不都合はないと考えていたんじゃないかな」

 意味が分らず、先を促した。

「「見られてはいけないもの」という認識がなかったんだよ。わざわざ話すこともないけど、聞かれたら答える。そういう程度のものだったとしたら、不自然はないと思う」

 なるほど。言われて気持ちが軽くなった気がした。だが。

「じゃあ、この写真は…」

「ここから先を考えるのは、とりあえず期末試験が終わってからだね」

「終わるまで一週間以上あるだろ」

「始まるまではあと二日だよ。結城たちの厚意を無駄にしちゃいけないと思うんだよね」

 それも知っているのか。まあ、同じクラスなのだから知っていても不思議はないが。

「…了解」

「あ、それと。平均点八十以上とらなかったら、オレは協力しないから」

「はぁ?」

 ちょっと待て。

「お前、あと二日で俺に平均点二十上げろって言ってるのか」

「大丈夫だよ。恭介は実はやればできる子だから。筋肉に使ってる能力をすこーしだけ頭に回せばいいんだよ」

「ヒトを筋肉バカみたいに言うな」

「ただのバカの方が良かった?」

 …こいつは…。

 あまりの暴言に言い返せない。しかし、こうなったらこいつは梃子でも動かない。不承不承、もう一度了解と言うしかなかった。

「じゃあ、とりあえず学校に行こうか?」

 忘れていた。ため息をついて、着替え始めた。

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