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 一週間後。結果から言えば、俺の平均点は八十点ちょうどだった。あれから試験日まで、高校受験の時と同じくらい、ひょっとしたらそれ以上に勉強した。空手の稽古は休んだ。今度は師範も何も言わなかった。タケトは俺の家庭教師となり、試験対策を一緒にしてくれた。ちなみに、奴はそのせいで自分の勉強時間が減ったはずだが、それでも学年首位だった。頭が下がる。

 あの日タケトは、学校に来ず携帯電話にも出ない俺を心配して、教室を飛び出してアパートまで自転車を漕ぎ、大家に頼んでマスターキーを借りたらしい。後で大家から聞いた。つくづく悪いことをしたと思う。改めて謝るのも気恥しくて、何も言っていないが。

「七十九点でも八十一点でもなく八十点ねぇ。また、器用な真似を」

 試験結果が出そろった放課後、二人でアパートに帰ってきた。これから写真の背景を確認するのだ。自転車に鍵をかけ、階段に向かう。

「思う存分褒めやがれ」

「わー、すごーい、恭ちゃんったらステキー」

「………」

 悔しさがこみあげてくるのはなぜだろう。

「まぁでも、これで条件はクリアだね。よくがんばりました」

「それはどうも」

 並んで階段を上がりきると、タケトは角にある俺の部屋を通過した。

「? おい」

 奴が立っているのは、隣人の部屋の前だ。

「紫さん、今部屋にいるかな」

「………なんで?」

「大木殴ったり試験受けたりしている間にバイトのシフトを替わってもらったからね。ちょっとお礼を」

「ふうん。まぁ、世話になったんなら、礼の一つくらいしとけばいいんじゃねぇの」

 ちゃんと、興味なく言ったように聞こえただろうか。少々不安だったが、タケトは特に気にする風でもなかった。

「じゃ、俺は先に部屋に…」

 帰ってるから終わったら来い、と言い終わることはできなかった。タケトは俺の言葉を待たずにチャイムを押している。しかも、殊の外早くに彼女の返事が聞こえてきた。タケトが来意を告げると、ちょっと待ってと聞こえてきた。

 ここで急いで部屋に帰るのは、あまりにもわざとらしい気がした。しかも何故か部屋の鍵が見つからない。必死で鞄の中をあさり、見つからないのでポケットをあさり、やっと見つけたと思ったら手から滑り落ちた。

「何してるの、恭介」

 何してるのかは俺が聞きたい。ぜひとも誰かに教えてもらいたい。俺はいったい、何をしているのか。

 この一週間、俺は一度も紫さんには会っていない。会ったら謝ろうと思っているのに、タイミングが合わないのだ。俺が学校や空手道場から帰ってくるよりも少し前にバイトへ出かけ、俺が留守の時間に部屋で寝ているらしい。

 隣に住んでいるのだから、そのうち会うだろうと思っていたら甘かった。

 会えない。

「お待たせ」

 扉の開く音とともに声がして、彼女が出てきた。俺の位置からでは横顔しか見えないが。

「こんにちはー」

 朗らかに挨拶するタケトの声が、なぜか遠く聞こえた。

「試験、終わったの?」

「はい。やっとのこと。紫さんにはご迷惑をおかけしました。これ、うちの母ちゃんが作ったロールキャベツなんですけど、良かったらどうですか?」

 持っていた紙袋の中から、タケトがタッパーを取り出す。あれは俺達の夕飯でもあるはずだ。恵子さんが多めに入れてくれたのだろう。

「ありがとう。わざわざ届けに…?」

 言いかけて、彼女はやっと俺に気が付いた。特に表情が変わることはなく、勝手に台詞をつけるなら「ああ、いたの?」だ。

 別にいじけてなどいない。

「…こんにちは」

「こんにちは。…この間は、ごめんね」

「え?」

 驚いた顔を見せたのはタケトで、次の瞬間には興味深げな顔になった。より正確に言うなら、面白いものを見つけた子どもの顔になった。

「いや、謝るのは俺の方で…」

 タケトに知られるのは避けたかったが、避ける手段を探す前に衝突してしまった。仕方がない。あとでどうにかごまかそう。今ならごまかせる。ごまかせるといいなぁと思う。

「すみませんでした」

「何が?」

 そう言われると困る。そういえば俺は、何を謝ろうとしていたのだろう。強いて言うなら、挨拶もせず自転車置き場に置き去りにしてすみませんでした、か?

「なんで紫さんが謝るんですか?」

 タケトが聞く。空気を読んで黙っていてくれればいいものを、こいつは空気を読んだ上で口をはさむのだからたちが悪い。

「泣かせちゃったみたいだから」

「ちょっ」

「泣かせたぁ?」

 その瞬間、笑われることを覚悟した。俺が女性に泣かされたなどと知ったら、タケトのことだから内臓がけいれんを起こすまで笑う。

 と思っていたらそうでもなかった。

「…へぇ」

 そう呟いて、タケトは黙ったのだ。なるほど、と唇が動いたような気がした。

「じゃあまあ、オレ達はこれで。紫さん、本当にありがとうございました」

「いいえ。じゃあ」

 彼女は扉を閉めた。それを見送って、タケトはくるりと身体の向きを変える。

「さて、じゃあ恭介、荷物を置いたら出かけようか?」

「…なんも聞かねぇの」

 鍵穴に鍵を差し込みながら恐る恐る言ってみたら、タケトはにやりと笑って見せた。

「好物は後に廻す性質なんだよ」

 そいつはいい趣味だ。

 

 部屋に入って二人とも私服に着替えた。部屋着ではなく外に出られる格好だ。これから、俺達は叔母に会いに行く。約束の時間まではあと三十分ほど。

「緊張してる?」

 タケトが軽い調子で聞いてくる。

 緊張はしている。試験の時よりも緊張している。俺はこれから、俺を育ててくれた父親の正体を暴きに行こうとしているのだ。

「前にも言ったけど、あんまり怖がることはないよ」

「…ああ」

 それでも、俺の声は固かったと思う。

 タケトと話し合って、出した結論は「とりあえず叔母さんに聞いてみるか」だった。

「だって事情を知っているかもしれない人が近くにいるのに、オレ達がここであれこれ考えたって真相にはたどり着けないよ」とはタケトの弁。

 どうしても写真が気になるなら、タケトが言った通りに忘れるか真相を突き止めるしかないのだ。一度腹をくくったら、気持ちがだいぶ楽になった。

 緊張は、するけれど。

「前にも言ったけど、浩介さんはその写真の裏書を特に隠そうとしてはいなかったと思う。まずいものなら隠すはずだ。だから大丈夫だよ」

「誰がいつ、どんな理由で貼りなおしたんだろうな」

 貼りなおした跡がなければ、この裏書に気が付くことはなかったかもしれない。

「それなんだけどさ、もしかしたらあれは貼りなおした跡じゃなかったかもしれないよ」

 タケトの言葉に、俺は眉を寄せた。

「どういう意味だ」

「単純に、最近貼った跡だったのかもしれないってこと」

 ますます訳が分からない。これは十七年前の写真のはずだ。

「最初は、これはどう見ても家族写真だから、家族の誰かが撮影したんだと思った。産まれたばかりの恭介には無理だし、お母さんはずっと入院していたから、この場合は浩介さんしかいないと思ってた。でも、それだとおかしい」

「なにが」

「普通、家族写真を一枚だけ撮って一枚だけ印刷するかな。当時はまだ使い捨てカメラだったかもしれないけど、そうだとしたらもっとおかしい」

 ああ。そうか、わかった。

「この写真の前後にも、撮られた写真があるってことだな?」

 タケトはうなずいた。

「ご明察。まあ、他の写真が気に入らなかったから捨てたって可能性もなくはないけど、浩介さんは写真写りを気にするようなヒトじゃなかった。そうじゃなくても、お母さんは亡くなってるんだ。恭介に毎日のろけ話をしていた浩介さんが、そんな簡単にお母さんの写真を捨てるかな」

 確かに、あまり考えられない。

「でも他人が撮影していたら話は別だ。何枚か撮影して、写りが良かった一枚だけ渡したってことならつじつまが合う。そしてその撮影者は、たぶんお母さんの実家の誰かだ」

「その根拠は」

「恭介のお母さんは、出産後一度も退院せずに亡くなってる。しかもお前を抱いたのはこの写真の一回だけ。そんなに重症だったのなら、たぶん集中治療室かそれに近い病室にいたと思うんだ。お前は何か聞いてない?」

「いや、聞いてないけど…。だったらどうなる?」

「基本的に、集中治療室に面会に入れるのは家族だけなんだよ。オレも調べてから知ったんだけど、恭介のお母さん…お母さんの名前、なんていうの?」

「静音」

「その静音さんを写真に撮れるほど近づけるのは、浩介さんか実の両親や姉妹、そうじゃなければ病院の職員だけってこと。だけど職員が撮影したんなら撮影を依頼した誰かも写っているはずだ。自分が写らないのに他人に撮影を頼むヒトはいないからね」

 おお、としか言えなかった。少し、展望が見えた気がした。

「この写真は単独じゃないはず。なのにここにこの一枚しかないってことは、他を誰かが持っているんだよ。たぶん、叔母さんが。で、理由はわからないけど最近になって彼女はこの写真を浩介さんに渡した。浩介さんは細かいことを気にしないヒトだったから、たまたま手近にあったこのアルバムの空いているところに写真を貼った。どう?」

 有り得るような気がしてきた。

「でも、そうなると裏書はどうなる?」

「それがわからないから今から叔母さんに聞きに行くんでしょ」

 そうだった。

「静音さんの親戚に「譲さん」ってヒトがいてくれると、一番しっくりくるんだけどなぁ」

 俺が知る限り親戚に「譲さん」はいないが、俺が知らないだけでいるのかもしれない。交流のある親戚の名前は把握しているつもりだが、例えば祖父母の従兄弟の孫の叔母の息子の甥とかだったら、知らなくても無理はない。

 可能性は低いが。

「さて、そろそろ行こうか」

 時計を見て、タケトが立ち上がる。

「…そうだな」

 トートバッグにアルバムを入れて、自転車の鍵を握りしめた。

「行くか」

 

 待ち合わせ場所は、叔母の職場近くの喫茶店だ。タケトがいると話せないかもしれないということで、他人のふりをして別々に入店する。こうしていると、何か悪いことをしているみたいだな、と思う。

 叔母はすでに席について、どうやらカフェオレを飲んでいた。タケトが叔母に背を向けて座る。俺からはタケトの後頭部が見えている形になる。

「叔母さん、待たせてごめん」

「今来たところよ。今日は定時で上がれたの」

 叔母はにっこりと笑う。その笑い方が、写真の母親と重なった。

 通りかかったウェイトレスにコーヒーを頼み、俺は叔母に分らないように深呼吸した。

「で、お話ってなぁに?」

 腹をくくったはずなのに、いざ叔母を目の前にすると勇気がいった。

「あの…」

 言いよどんだ俺を、叔母は微笑んだまま待っていたが、やがて気を遣ったのだろう、自分から口を開いた。

「一人暮らしはどう? 困ったことはない?」

「あ、えーと。いや、大丈夫。白峰師範とか、友達に助けてもらって…」

「あら、どうしてうちには頼ってくれないのかしら」

 不満を言っているようでも、笑みは消えていない。安心する半面、罪悪感に似たものがこみあげてくる。叔母の後ろで、タケトが右手を挙げた。人差し指で宙を指している。さっさといけ、ということだろう。

 もう一度息をついて、叔母に向き直った。

「俺の両親のことで、聞きたいことがあるんだけど」

「両親って、浩介さんと…姉さん?」

 予想もしていなかったらしく、叔母はきょとんとして俺を見た。怯みそうになりながらも、トートバッグに手を入れてアルバムを取り出す。写真を叔母に見せた。

 叔母の顔から、笑みが消えた。

「これ…」

「ダンボールを預けた時に間違えたみたいで、うちに来てた」

 写真を裏返す。

「叔母さん。―――譲さんって、誰?」

 直球もいいところだ。これで叔母が「譲さん」の正体を知らなかったら、いらぬ心配をかけるだけなのだが。

 しかしタケトは、九割以上の確率で叔母が何かを知っていると断言した。

「現実的に考えて、浩介さんに写真を渡せるのは叔母さんしかいないんだ。確かに、写真を撮る機会は叔母さん以外にもあった。けど、その人物は写真を撮った時と現像したそれを渡す時の少なくとも二回、重症だった静音さんの病室に入っている。そしてその後、十七年も経ってからそれを浩介さんに渡している。恭介が産まれる前から静音さんとつながりがあって、十七年後も浩介さんと交流のある人物は限られるだろ?」

 母方の祖父母という可能性も捨てきれないが、それは一割未満だとタケトは言った。俺もそう思う。祖母はもう一年以上入院中で、祖父はずっとそれに付き添っている。県外から、わざわざ一枚の写真を届けに来るとは思えない。手紙で送ってきたとしたら俺も知っているはずだ。毎日郵便ポストを確認するのは俺の役目だったのだから。

「浩介さんが手紙を捨てたという可能性も、限りなく低いよ。前にも言った通り、この写真がここにあるのは、浩介さんが「見られてはまずい」とは思っていなかったからだ。隠す必要がなかった。だったら手紙を捨てる必要もなかったはずだからね」

 タケトの言うことはいちいち理にかなっていて、俺はうなずくことしか出来なかった。ただ、これらの推測はすべて親父の性格ならこうだろうという心象と、状況から頭で考えただけのものだ。確証はない。

 遠回りをせずに一気に切り込め、と言ったのもタケトだ。腹の探り合いは時間の無駄だからと。

「叔母さん」

 もう一度、今度は少しゆっくり言葉を紡いだ。

「譲さんって、誰?」

 叔母は写真を見つめたまま、固まってしまったように動かない。瞬きも忘れているようだ。

 畳み掛けることには抵抗があった。けれども、もう後戻りはできない。

「俺の父親は、中村浩介だよ」

 叔母ははっと顔を上げた。

「今更、もしも血のつながりがないって言われても、父親はあの人だけだと思ってる。でも、だからこそ知りたいんだ。譲さんが何者だとしても、どうして親父がこの写真を手元に置いていたのか」

「恭ちゃん…」

「何か知っているなら、教えてほしい」

 まっすぐに叔母を見つめる。叔母は唇を噛んで黙っていたが、やがて震えるように息をついた。

「浩介さんは、恭ちゃんの血のつながったお父さんよ。本当に、浩介さんなの。…姉以外にとっては」

「姉以外って…」

 気持ちを落ち着ける為か、叔母はカップに口をつけた。

「姉と浩介さんは大学の同級生だったんだけど、恭ちゃんは知ってる?」

「ああ、大学のサークルで知り合ったってことは聞いてる」

「そのサークルにね、譲さんもいたの」

「え…」

「姉の、婚約者だったの」

 婚約者。結婚の約束をした相手。

「じゃあ、親父が、母親を奪った…?」

 叔母は緩やかに首を振った。

「違うの。浩介さんは、助けてくれたの。自分を、犠牲にして」

「犠牲って」

「譲さんはね、亡くなったの」

 咄嗟に言葉が見つからなかった。

「恭ちゃんが産まれる二年前よ。譲さんは北海道の出身だったんだけど、大学の卒業旅行を兼ねてサークル仲間と里帰りしたのね。そこで、事件に巻き込まれてしまって…。不幸にも、命を落としたの」

 叔母は再びカップを口に運び、空になっていることに気が付いてソーサーに戻した。

「姉が心に受けたショックと言ったら、もう私たち家族は見ていられなくてね。でも、浩介さんは見ていてくれたの」

 こくりと、叔母ののどが動いた。

「ずっと病院につきっきりで、ひたすら姉のそばについていてくれて。だから、姉も思い込んでしまったのね」

「思い込んだって、なにを」

「浩介さんを、譲さんだって」

「………え?」

 タケトが振り向きかけたのがわかった。奴も予想外だったのだろう。

「似ていたの? 譲さんと親父」

「いいえ、全然。でも姉は、譲さんを失ったショックに耐えきれなかったの。心が、壊れてしまったの。精神科の先生が言っていたわ。人間にもともと備わっている、自己防衛機能なんですって。精神的にあまりにもひどいショックを受けた時、現実を受け入れられずに自分の記憶を改ざんしてしまうことがあるって」

「そんな…」

「事件の後、姉は散々暴れて、発狂したみたいになって病院に入れられて…。きっと、現実逃避するしか自分を護る術がなかったんでしょうね」

 そういえば、俺が頼んだコーヒーも、いつの間にか湯気を立てるのを止めている。だが、口をつける気にはならなかった。

「そのうち、自分のことを傷つけるようになってしまって、何度も何度も鎮静剤を打たれて、次に目を覚ました時、そこに浩介さんがいたの」

 親父を見て、母親はにっこり笑ったらしい。

 

―――ああ、帰ってきてくれたのね、譲さん。

 

 誰もが耳を疑った。しかし母親は冗談を言っている顔ではなく、譲さん譲さんと言って親父に―――中村浩介に、すがりついたらしい。痩せ細った身体からは考えられないほど、必死に力を振り絞って。

 そうして母親は、死ぬまで現実に帰ってこなかった。

「私たち家族も、友達も、結婚にはずいぶん反対したのよ。でも、姉にはもう私たちの言葉は届かなかったし、浩介さんが」

叔母はそこで言葉を切った。

「浩介さんが、姉と結婚したいって、譲らなかったの」

 ………親父。

 いつも豪快に笑って、大雑把で、少し間が抜けていて、それでも毎日、母親に手を合わせることを忘れなかった。俺が呆れるほどにのろけ話をしていた。

「きっとつらかったと思う。でも浩介さんは、姉の為に「譲さん」としての人生を歩むことを選んでくれたの」

「………つらくは、なかったと思う」

 ほとんど無意識にそう言っていた。だが断言できる。親父はつらくはなかったはずだ。

「親父は、母親のそばにいられて幸せだったって、俺に毎日のろけ話をしてたよ。俺の顔立ちが母さんに似ていてうれしいって」

 親父は、そんな嘘をつくヒトではなかった。バカが付くほど正直だった。その親父が、幸せだったと言っていたのだ。なら、幸せだったに違いない。だって俺も幸せだったのだ。そんな親父に育てられて。

「だから………。叔母さんが、泣くことないよ」

 テーブルの上で握りしめる、叔母の両手は震えていた。

「私たち家族は、浩介さんには感謝してもしきれないの。姉は昔から病弱だったけど、浩介さんと結婚してからは本当に楽しそうで…。妊娠がわかったときも大喜びしていたの」

 その喜びはきっと、「譲さん」との子どもが出来た故だったのだろう。哀しいとは思わなかったが、なんとも言い表せない不思議な感覚はあった。

「この、写真だけどね」

 鼻をすすって、叔母は写真を手に取った。それはそれは大事そうに。

「浩介さんが亡くなる前に、私が預けたの」

 左手で写真を持って、右手でそっと表面を撫でる。

「十七年前に病室で撮影したのは私なんだけど、姉さんが裏書しちゃったから、もう一枚現像して浩介さんに渡しておいたの。でも、浩介さんが最近、そっちの写真にコーヒーをこぼしちゃったらしくて」

 何してんだ、あの親父は。

「新しく現像して渡せたらよかったんだけど、ネガが見当たらなくて。でも浩介さんがどうしてもって言うから、この写真を渡したの。ネガが見つかったら現像して入れ替えるつもりで」

 なるほど。概要だけを見ればほとんどタケトが想像した通りだったわけだ。

「こんな話、驚かせたわよね。ごめんね」

 叔母が謝る話ではない。聞かせてもらえてよかった。

「びっくりしたでしょう」

「びっくりだよ。………親父のバカさ加減に」

 俺は笑っていた。―――なぁ、親父。あんたは、本当に。

「本当に、バカだな…」

 大雑把で、豪快で、単純で、涙もろくて。

 そして、優しい人だった。

 母親は、死ぬまで親父のことを譲さんと呼び続けたらしい。一度も自分の名前を呼ばない妻が産んだ俺を、どれだけの思いで育ててくれたのだろう。

 その懐の深さを、俺はどれだけ引き継げるだろう。

 

 外に出ると、風が冷たかった。けれど、来るときほどは寒さを感じなかった。

「なんて言うかさぁ」

 途中で合流したタケトが言う。

「でかい男だったんだねぇ、中村浩介さんは」

「…そうだな」

「それに比べて、ちっさいねぇ、オレらは」

「まったくだ」

 写真は、アルバムごと持って帰っている。たびたび開くことはないだろう。だが、もう目を逸らすこともない。

 

 タケトと並んでアパートに帰り、恵子さんが用意してくれたロールキャベツを存分に味わった。くだらない話でタケトと笑いあった。

 

 そして、その翌朝。

 親父を殺した犯人が捕まった。

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