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 全国紙ではどうだか知らないが、俺が住む片田舎では、そのニュースは大きく扱われた。

 

―――高校教師、教え子の父親を撥ね死なす

 

 そんな言葉が新聞を飛び交い、数日間はテレビでもトップニュースだったらしい。らしいというのは、俺はその期間一度も新聞やテレビを見なかったからだ。

 親父を轢き殺したのは、高校の担任である黒崎雄吾だった。出張帰りに飲酒運転をし、ハンドル操作を誤ったそうだ。

 アパートにも高校にも叔母の家にもマスコミが押しかけて、俺はしばらく白峰家に身を寄せていた。もちろん白峰家にもマスコミは来たが、師範と師範代が穏便に蹴散らした。

 学校は冬休みに入った。終業式にも出なかったので、学校の状況は知らない。アパートに引いている電話線は引っこ抜いてきた。携帯電話の電源もずっと入れていない。

 考えていることが、あった。

「どうじゃ恭介。稽古でもするか」

 師範が誘ってくれる。聞こえている。

「恭ちゃん、晩ご飯何がいい? 昨日がお肉だったから、今日はお魚かしら」

 師範の娘、のり子さんの声だ。これも聞こえている。

「ねぇ、恭介」

 タケトは毎日、バイトの合間を縫って様子を見に来てくれる。認識している。ただ。

「なんか…喋ろうよ…」

 俺は、声を出すことを棄てた。

 タケトが目の前でうなだれている。俺のせいだ。わかっている。悲しませたいわけじゃない。けれども俺は、あの一報から一言も声を発していない。発しようとも思わない。

 俺の言葉は死んだのだ。

 

 年が明けて五日が経った頃、タケトに付き添われて一度アパートに帰った。師範の家に逃げる時はタクシーを使ったから、俺は歩きだ。タケトは隣で自転車を押している。

「しっかし寒いね」

 タケトは、俺に何か話せとは言わなくなっていた。それでもこいつは、俺に語りかけることを止めようとはしなかった。息が白い。

「昨日さぁ、紫さんとバイトが一緒になったんだけどね」

 久しぶりにその名前を聞いて、俺は瞬きをすることで続きを促した。

「あのヒト、基本的に仕事は完璧なんだけどね。昨日は相当眠かったのか、包丁で怪我しちゃって」

 怪我? どこを? 程度は? 病院には行ったのか?

 どれも音になることはなく、俺は俯いた。

「ちょっと切っちゃっただけで、たいしたことはないんだけどね。血もすぐに止まったし。でも帰る時もふらついてて心配だったから、送っていったんだよ。そしたら、お前の話になった」

 俯いていた顔を上げた。

「別に余計なことは言ってないよ。今は騒がしいから、師範の家にお世話になってるって伝えただけ」

 そうか。アパートにどのくらいの量のマスコミが来たかは知らないが、彼女にも迷惑をかけたかもしれない。

「心配してたよ、恭介のこと」

 そういえば、彼女と最後に会ったのはいつだっただろう。あの写真の謎が分かった日だったから、もう十日以上前だ。つまり、俺はもう十日以上も声を出していない。別に、どうでもいいが。

 だらだらと歩き、アパートについた。タケトが自転車を停めるのを待ってから、階段を上がる。

 彼女の部屋の前を通る時、なんとはなしに扉を見た。見ていたら、開いた。タイミングを計ったように開いて、扉が俺の頭にぶつかった。なんというか、コントのようにジャストタイミングだった。

「あ…」

 声を上げたのは扉を開けた隣人で、後ろで吹き出したのはタケトだ。思わず睨みつける。

「いや、ごめん…。だってそんな、コントみたいな…」

 まあ、確かに、俺もコントのようなとは思ったが。タケトは言いながら笑っている。声を抑えて笑うくらいなら笑い飛ばせばいいものを。

 ああ、でもそういえば。タケトが吹き出したのも久しぶりかもしれない。

「ごめんなさい…。大丈夫?」

 紫さんが謝る声が聞こえて、彼女に向き直る。俺はうなずくことで、大丈夫だと伝えた。

 だがしかし、人間、伝えたいことと伝わることはいつでもどこでも一致しない。彼女は大げさなほどに身を竦ませて、部屋の中へ一歩下がった。

「ごめんなさい」

 そんなに縮こまられるような顔をしていただろうか。申し訳なくなってくる。それでも俺は、声を出せない。

「大丈夫ですよ、紫さん」

 と、タケトが俺を押し出すようにして割って入ってきた。

「今ちょっと声が出ないだけで、怒ってませんから。気にしないでください。仏頂面なのはいつものことなんで。怖くないですよー。ほーらべろべろばー」

 何言ってんだコイツ。まあしかし、タケトがいてくれて助かった。

「声、出ないの?」

 細い声で、彼女が問いかけてくる。答えたのはタケトだった。

「そうですね、あえて言うなら人生の風邪にかかってのどがやられたというか」

「そう」

 納得するのか、それで。まあ、納得してくれるならいいか。

 会釈して部屋に帰ろうとしたら、彼女がじっと見上げてきた。その黒目がちな目から、視線を逸らせない。

「なにか、こわいの?」

「―――………」

 反応できなかった。

 まずい。二度と声など出すまいと思っていたのに、話したくなる。聞いてもらいたくなる。紫さんならなんて言うだろうと、考えてしまう。

 そんなこと、俺には許されないのに。

 奥歯を噛みしめて、俯いた。鎮まれ。俺にはもう、誰かに何かを伝える権利はない。

「まぁ、いいけど…」

 そう言って、紫さんは扉を閉めようとしている。閉じてしまう。それを阻んだのは、タケトだった。扉を掴んで紫さんに詰め寄る。

「怖いって、どういう意味ですか?」

 待て、そう思ってタケトの肩を掴むが、振り払われた。驚いた。タケトに振り払われるとは思っていなかった。

「なんか、心当たりがあるなら教えてください」

 タケトの勢いに彼女は驚いて身体を引いたが、ややあってから返事をした。

「だって、あんまりこわいと、声って出なくなるから」

 経験者じゃないと断言はできないはずだ。彼女も何かに恐怖して、声を閉ざしたことがあるのだろうか。

 その答えを俺が知ったのはこのしばらく後だが、この時の俺はただ余裕がなかった。部屋に逃げ帰ることも、怖がってなんかいないと否定することもできずに固まっていた。

 そんな俺の腕を、タケトが掴む。

「恭介」

 真剣な声で呼ばれ、なんだよ、と目で問い返す。少しの沈黙があって、やがてタケトは口を開いた。

「怖くないよー。ほーらべろべろばー」

「………」

 なんだろう、このバカは。

「さぁ、紫さんもご一緒に。べろべろばー」

 紫さんの肩に伸びようとしていたタケトの手を、思わず叩き落とす。

「やかましい! 何回べろべろ言う気だよ、お前は! ………あ」

 俺のだんまり期間は、こうしてタケトに突っ込むと言うあまりにも間の抜けた形で終わりを告げた。

 タケトは一瞬驚いた顔をして、すぐににやりと笑う。

「何度でも言うさ。キミが笑ってくれるまで」

「笑ってねぇよ、呆れてんだよ」

「そうか。ドンマイ、オレ」

「お前かよ」

 そこで、ふと視線に気が付いた。紫さんが、じっと俺を見上げていた。

「あの…」

「久しぶり」

「あ、お久しぶりです」

 なんか気まずい。たぶん、俺だけが一方的に気まずい。

「しゃべれるのね」

「あぁ、えーと…」

「こわくなくなったの?」

 軽く首をかしげて聞いてくる。

「もう、こわくないの?」

 違和感を覚えた。相変わらず乏しい表情で抑揚のない声だが、この時はなぜか必死さを感じたのだ。

「どうしたら、こわくなくなるの?」

 タケトも気が付いたようだった。彼女は俺のことを聞いているわけではないということに。視線を交わしてから、口を開いたのはタケトだった。

「紫さんも、何か怖いことがあるんですか?」

「聞いてるの、あたし」

 紫さんは、一歩俺の方へ近づいた。思わず身を引きかけて踏み止まった。逆なら傷つく。

「なにを、こわがってたの?」

 今怖がっているのは紫さんだ。そしてこのヒトは、恐怖を克服したがっている。どうすれば抜けられるか知りたがっている。当前だ。好きで恐怖の中に居続けるものはいない。俺だって。

「…ありがとう、ございます」

 少しの時間を置いて、俺はぽつりとそう言った。

「ん?」

 タケトが眉を寄せる。小さく深呼吸した。

「親父の葬式の時。俺、「ありがとうございます」って、言ったんです」

 担任だったあの男に。本気で心配している体を装っていた、あの男に。

 知らず拳を握る。目頭が熱かった。

「親父を殺した男に、礼を言ったんです。俺は」

 あの男が心配していたのは俺のことじゃない。自分のことだ。何度も俺に警察からの報告はないかと聞いてきたのは、捜査の手が自分に及んでいないか確認するためだ。

 あの男は、出張中に飲酒して車に乗って、親父を殺しておいて、俺から親父を奪って、自分のことだけを考えて逃げたのだ。

 そして俺は、そんな男に礼を言ったのだ。

 その事に気が付いた時、言葉を発することが、恐ろしくなった。

「…親父が、もしも、どこかで聞いていたかと思うと…」

 どれだけ絶望させただろう。どれだけ悲嘆にくれただろう。俺は特別に幽霊などを信じているわけではないが、絶対にいないと断言する性質でもない。居てくれればいいと思ったこともある。

 どれだけ謝ってももう遅い。知らなかったからなどというのは言い訳にもならない。あの頃、次々に掛けられる同情の声に、俺はうんざりしていた。適当に礼を言って、そう、礼を言って流していた。徹底的に無視することもできたのに。あの男だけは、無視するべきだったのに。いや、無視するどころか―――。

 親父の遺影を見る事も出来なくなった。豪快に笑うあの顔が、俺を責めているように思えてきたから。

「俺が、怖かったのは」

 ああ、そうか。今やっと、はっきりした。今更ながらに理解した。俺が怖がっていたのは、言葉を発すること自体ではない。

「怖かったのは…」

 言葉を切った俺に、結論を言ったのは紫さんだった。

「お父さん…?」

 そうだ。

 親父に責められることが怖かった。親父を裏切ったという事実が怖かった。それを他人に知られることも怖かった。

 どうしようもなくなって、右手で顔を覆った。唇を噛みしめた。皮膚を破って血が出るほどに。

「恭介」

 いたわるようなタケトの声にも、顔を上げられない。俺は親父の幻影に怯えていた。そして、それを認めることすら怖かった。言葉を発さなくなったのは親父に対する贖罪じゃない。そうすることで、事実から逃げようとしていたのだ。

 とんだ臆病者だ。

「…親父に、許してくれとも言えません」

 絞り出したその声に、即座に反応したのは紫さんだった。

「許されなくても、いいと思う」

 抑揚がない彼女の声が、少しだけ強くなった気がした。

「だって、もう十分傷ついたから。あなた、自分を責めたでしょう?」

 右手を顔から放して彼女を見ると、思ったよりも近くに顔があった。

「この先ずっと、責め続けるの?」

「それは」

「これ以上は、もういいでしょう」

 それは誰に言っているんですか。俺ですか、それともあなた自身ですか?

 聞けなかった。

「……いいんでしょうか」

「うん、もういいよ」

 言ったのはタケトだった。

「責められるべきは犯人であって恭介じゃないよ。―――そうですよね、紫さん」

 彼女の視線がやっと自分から外れたことに、どこかでほっとしていた。

「もういいってことにしましょう。自分を責めることで生まれるものに、大した意味はありませんよ」

 断言したタケトを、意外な気持ちで見ていた。俺はコイツがこれ以上ないほど自分を責めていた時期を知っている。

「これは伯父の言葉ですけどね。自分に対して、反省はしてもいいけどセキナンは必要ないって」

「せきなん…?」

「責めて非難することです。言われた当時は意味が分らなかったんですけど、今なら少し解ります。つまり、こういうことですよ」

 俺の方を見て、人差し指を立てた。

「お前がお前を責めても、誰も幸せにはならない」

 肩に入っていた力が、すとんと抜けた気がした。力が入っていたことに、たった今気が付いた。

 それからタケトは、身をかがめて紫さんに顔を近づけた。

「でしょう?」

 彼女も、もしかしたら俺と同じように力が抜けたのかもしれない。しばらくタケトを見てから、こくんとうなずいた。

「よし、じゃあ寒いからここまでにしましょう。紫さん、どっか出かけるところじゃなかったんですか?」

「うん」

「どこへ?」

「うん」

 いや、答えになっていない。

「引き留めてすみませんでした。送っていきましょうか?」

「いい」

「そうですか。じゃあ、気を付けて」

「うん」

 いつもの彼女だ。二文字しか発しない。

「紫さん」

 そんな彼女に、声をかけた。

「なに?」

 紫さんは、何を怖がっているんですか?

 あなたも、自分を責めて傷つき続けているんですか?

 なんでもいいから、俺に出来ることはありませんか?

 どれも声にはならなかった。

「気を付けて、行ってきてください」

 こんな、普通のことしか言えなかった。ややあってから、彼女は「うん」と答えた。

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